2018年4月29日日曜日

God and the Faithfulness of Paul(追記)

GFP(God and the Faithfulness of Paul)については

 (1)ライトのパウロ研究をめぐる論集
 (2)God and the Faithfulness of Paul
で紹介していますが、大分経ちましたが「追記」をしたいと思いました。




(2)God and the Faithfulness of Paul の方で「目次」を全部紹介していますが、その中の「Part Ⅱ」の最後にあるジョエル・R・ホワイトの論文がacademia.eduサイトから読めるようになっている、と先日案内がありました。

筆者はすでにGFPを購入しているので特に必要なわけではないですが、GFPに関心があり、ホワイトの論文のタイトルが「N・T・ライトのナラティブ・アプローチ」ということなので、特に「ナラティブ」「物語り」アプローチに関心のある方にはお勧めと思い追記しました。
Joel R. White, N. T. Wright's Narrative Approach

 (2)で紹介したクリストフ・ハイリッヒの指摘にあるように、ライトのPFGは「教会論」とか「救済論」とか「従来の組織神学的」枠組を用いず、「世界観」や「ストーリー」を使ってパウロを解釈している点で注意深く読むことが必要です。

ホワイトの論文はその辺りのナラティブ・アプローチの基本的な事柄を丁寧に解説し、ライトのナラティブ・アプローチの斬新さを理解させようとしている点で有益だと思います。一読をオススメします。

2018年4月23日月曜日

FB読書会 2018年2、3月報告

もう4月も大分過ぎGW間近となりました。

すっかり月例報告が遅くなってしまいました。

ツイッターの方では割合細かく経過報告のツイートをしているのですが、ブログの方は更新されずにきてしまいました。

既に3月末で『シンプリー・ジーザス』は読了しているのですが、そのことも含めて「2、3月」の報告をしておきます。


第14章 新たなる支配のもとで(331-356)


昇天と即位 イエスの帰還(337-347)

《引用①》  すなわちこの書全体は、イエスが天と地を運営するCEOでその権限を行使しながら神の王国を現実のものとするために、その大使である弟子たちをいかに派遣したかというストーリーなのである。(342)
《引用②》 原始キリスト教徒のグループは、目立たないマイノリティであり、非常に脆弱な立場からイエスについての大胆な、正気の沙汰でないような主張をした。彼らは、いくらかもっともな理由から、既存の社会体制への脅威と見なされ、それゆえ批判、脅迫、処罰、そして処刑すらされた。しかし、彼らが当時の社会にもたらした脅威は、通常のものと異なっていた。彼らは革命家ではなく、武器を取って立ち上がることもなく、既存の体制を転覆して自分たちの新体制を作ろうともしなかった。(343)
《引用③》 人々に平和と繁栄と自由と正義を約束する帝国が、その目的を果たすために何万人もの命を奪ってきたというアイロニーを、私たちは誰もが知っている。イエスの王国はそんなものではない。イエスによって、アイロニーは反転する。イエスの死、そして彼に従う者たちの苦難が、天にあるように地においても、平和と自由、そして正義を生み出す手段なのである。(344)
イエスの帰還(続き)、今日のイエス(347-356)
《担当された方がこの部分を要約したものを一部紹介します。》  ライトは、「聖書的な正しい意味での『再臨』なしにイエスに従うことは、ただの『敬虔なあり方』に矮小化されてしまう。そこには、曖昧で不確かな個人的希望をもたらす私的霊性はあっても、正しい主であるイエスによって、世界全体が根本的に変えられるという展望がない」と言います。(P.347-8)

キリスト教信仰が単なるpersonal pietyに陥ってしまうことへのライトの厳しい指摘に、私はドキリとさせられます。我が身を振り返るとき、長い間、Me and my Godの信仰の中にいて、いわゆる伝道も、奉仕も、personal pietyの延長上にあったように思います。フードバンクでボランティアするとか、ホームレス伝道とか、さまざまな社会的にも良い働きがクリスチャンによってなされていますが、私たちはその先に、イエスが始めてくださった新しい創造、可能にしてくださった新しい世界を見ているだろうか、と考えさせられます。社会的に良い働きだけでなく、聖書の学びや祈りといったことも、イエスの再臨がもたらす新創造の完成というヴィジョンがなければ、結局self-servingなだけだなあと思わされました。

第15章 イエス・世界の支配者(359-403)
イエスの主権に対応する「四つの立場」(359-367)
《要約》 すでにイエスの死と復活によって開始した新しい創造のもと、イエスの主権による神の王国はどう進展して行くのか、をめぐる議論を整理するための座標軸を示すため、「四つの立場(アンディー、ビリー、クリスとデイビー)」で代表させています。
 このうち「リアライズド・エスカトロジー」に立つ「クリスとデイビー」の描写により重点が置かれ、しかし「クリスチャンの立場」とはいえその議論の仕方は「古代ストア派と古代エピキュロス派」の哲学、端的に言えば「汎神論か二元論」に回収されてしまうと指摘しています。
 これら二つに対し、ユダヤ・キリスト教の「天と地は重なり、インターロックする」世界観からはどう言えるか、と導いていきます。しかしその前に「驚くべき希望(Surprised By Hope)」で何度も釘を刺したように、クリスチャンは神の王国を「建てる」のではなく、神の王国の「ために」働くのだということを強調します。
神の支配 私たちを通して(367-376)
《引用1》 すなわち人間は、神のイメージを担うべき存在である。人間は神の至高の支配を世界に投影すべき存在なのである。人間は、神の王国プロジェクトにとって不可欠な構成要素だ。・・・・・・聖書全体から導ける答えは、神の権威を、そしてイエスの権威を、人間に委譲することに関連してくる。(368)

《引用2》 だが、イエスが天と地を自らにおいて融合させたことで、イエスに油を注ぎ、王国の働きをするよう力づけた聖霊が、いまや弟子たちに降臨した。こうして弟子たちは、いわば新しい神殿の拡張部分となったのだ。彼らのいるところ、天と地は一つになる。イエスは彼らと共におり、イエスの命は彼らの中に、彼らを通して働く。エルサレムであれ、他の広い世界のどこであれ、いまや弟子たちは、この世界を再びご自身のものにされる神が生き生きと活動し、至高の支配を打ちたてようとする場なのである。(374)
礼拝の中心性(377-382)
《引用①》 すべての王国の仕事は、礼拝に根ざしている。逆に言えば、イエスのうちに働いておられる神を礼拝することは、私たちのなしうる中でも最も政治的な意味を帯びた行動である。クリスチャンの礼拝は、イエスが主であると宣言する。それゆえ、そこで強く示唆されるのは、イエス以外に主はいないということだ。・・・それは礼拝者に、イエスへの忠誠、イエスに従うこと、イエスによって形作られ、導かれていくことを求める。(377)
《引用②》 私たちは、「良い行い」というキリスト教的な考え方を飼い慣らしてしまい、それを単に「倫理的な規則を守ること」にしてしまった。新約聖書において「良い行い」とは、より広い共同体における、またそのためにクリスチャンに期待される働きのことである。イエスの主権は、このようにして具体化されていくのである。(381)
教会の役割(383-397)
《引用①》 教会は偉大な仕事をする完璧な人々の集りだと考えるべきではない。それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法でイエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである。(384)
《引用②》 彼ら [原始キリスト教徒たち] の信仰とは、イエスがいまや高く上げられ、支配をされていて、すでに諸国に責任を問い始めておられる、ということだ。(390)
《引用③》 教会の歴史が始まって数世紀間、司教たちは貧しい者の側に立つ人々であるという評判を広く世間で勝ち得ていたことは多くを物語る。彼らは貧しい者の権利を擁護し、彼らを虐げたり、不当に扱ったりする者たちに非難の声を挙げた。・・・その役割は今日まで続いている。そしてさらに拡大している。教会には、教育、健康支援、高齢者のケア、難民や移民たちのニーズや痛みなどの分野における豊かな経験と、数世紀にわたる慎重な省察とがある。私たちはそうした財産を充分に活用すべきだ。(392)
まとめ(イエスの現在的統治と権力構造)(397-403)
《引用①》 イエスは当時の権力構造(power structures)よりも自らを上に置き、そこかしこで彼らの責任を問いただした。・・・
 言い換えれば、イエスはすでに彼らに責任を問い始めており、それは再臨の際に完結するだろう。つまり権威に対して真理を語るという教会の務めは、まさにそういう意味なのである。(399)
《引用②》 そうして私たちは「王であり祭司」として仕えることができるようになる。イエスの支配をこの世界で実現し、それを創造主への賛美へと集約する。今日イエスが世界を運営するということは、このように見えるものなのだ。(402)
今後の研究ガイドと訳者あとがき(404-414)
《引用①》 エイレナイオスは、神の子であるキリストがこの世界に来られた目的は被造世界全体を回復させ、完成させることにあった、と語ります。その神学エッセンスはrecapitulatioという言葉に要約されますが、それはエフェソ・・・・・・という救済理解です。分断され、バラバラになった被造世界はキリストにおいて再び統合され、そうして全被造世界は完成に向かって進んでいく、という宇宙的な救済理解です。(408)
《引用②》 このようにエイレナイオスについて書いていると、不思議とN.T.ライトの神学を巡っての昨今の様々な議論と重なる部分が非常に多いことに気づかされます。・・・など、ライト神学の特徴とされているものは、そのままエイレナイオスにも当てはまるからです。(410)

ということで、2017年4月から読み始めた『シンプリー・ジーザス』をちょうど一年で読み終えることが出来ました。

その他、
(1)ライトのローマ書釈義に関するブログ記事の紹介

(2)ライト邦訳書新刊の紹介
  『悪と神の正義』(本多峰子訳、教文館)
 『新約聖書と神の民・下巻』 (山口希生訳、新教出版)

以上の紹介がありました。


「新規入会メンバー」について。
2018年2、3月は、入退会者なく、トータル232名のままです。

以上2、3月の報告でした。