2017年12月1日金曜日

FB読書会 2017年11月報告

12月です。
いつものように先月11月の報告をば。

11月は10章をカバーし、さらに11章に入りました。
今回は担当ボランティアがお一人でした。
感想は割愛して引用された部分だけご紹介しておきます。

第10章 戦いと神殿(213-232)

サタンとの戦い(220-226)

《引用箇所》 イエスは王としての任務を、真の問題が存在するところから再定義した。そうすることで、イエスは自分自身の召命を再定義した。・・・その召命とは、神の民を自由にし、神の主権と救済的な支配を打ち立てるための重要な戦いに勝利を収めることである。しかも、彼自身の苦難と死を通じて。(226)
イエスが見据えていた最後の戦いとは何だろうか?それはもはやローマ帝国への軍事的戦いではなく、神殿やエルサレムを奪い返すためのヘロデや祭司長たちに対する反乱でもない。・・・それはもっと根源的なものだ。それはサタンへの戦いである。(225)
善と悪との境界線は、神のレベルと、そしてサタンのレベルでは、はっきりしている。しかしそれが人間のレベルになると、個人であれ集団であれ、その区分がますますぼやけてくる。(219-220)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
出来事のストーリー(性)とその意味解釈(226-232)
《引用箇所》  同じように、私たちがイエスのさまざまなストーリー、特に最後の数日間に起きた出来事のストーリーを読むときは、そこにあるさまざまなテーマを組み合わせ、一貫性のある一つの全体像を作り上げるのに相当の努力を要する。しかし、過越祭で賑わう当時のエルサレムで、イエスがろばに乗って入城する姿を見た人々は、ちょうどこの経験豊富な艦長のような立場にいた。
 イエスの行動、その行動が喚起する預言、過越しの何重ものテーマ(暴君への勝利、奴隷の解放、献げもの、神の臨在)、これらによって一つの一貫性ある、しかし非常に挑戦的な全体像を、人々は難なく作り上げただろう。当時の彼らの世界観や、その根幹となるストーリーをよく学んでいない私たちは、(少なくとも初めは)それらをばらばらの要素として見てしまうが、当時のエルサレムにいた人たちは、一つの濃密な出来事として見ただろう。彼らは一目見ただけで、すべてを理解しただろう。その意味するすべてを。
 ではその「意味」とは何だったのか? 何よりも、それは紛れもなく王の行動、イスラエルの真の王であると言う主張だった。・・・にもかかわらずこの平和な王の到来は、全世界的な彼の支配の確立を意味するのである。(228-9)
第11章 空間、時間、そして物質(233-264)
神殿という「空間」認識をめぐって(233-241)
《引用》 そこで私たちがイエスを理解しようとするなら、彼の住んでいた世界と私たちの世界との違いについて把握することがぜひとも必要になる。(233)
 だが、このような時間、空間、そして物質について現在の西洋的な考えを抱いたままイエスのストーリーを読んでも、イエスとは誰かを理解することは決してないだろう。(234)
・・・言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。
 多くの人がすぐさま気づくように、これは後の神学者たちが受肉の教理と呼んだ、まさにそのものだった。だがそれは、多くの人が考えている受肉の教義と大きく異なっているように見える。(237)
・・・だが、この嘲笑的な批判は大事なことを忘れている。そう、確かにイエスは神について語った。しかしイエスは、まさに自分の行っていることを説明するために、神について語ったのだ。(237-8)
時は満ちた(241-247)
《要約》 時間!イエスの時代のユダヤ人も今日のユダヤ人も、時間について極めて特殊な感覚を持っている。ユダヤ人にとって時間は直線的に前へと進み、そこには始めがあり、中間があり、終わりがあると考えられている。それは、すべてのものが循環的にぐるぐる回り、必ず同じ時点に戻ってくるという別の人々の時間感覚と違う。(241頁) しかし、聖書の冒頭にはもう一つの特徴がある(241頁)
古代の異教徒たちがユダヤ民族について知っている数少ないことの一つは、異教徒の視点からすれば、彼らが一週間のうち一日は怠け者になることだった。しかしユダヤ人からすれば、それは怠けているのではない。(242頁)
安息日は、歴史の初めの礎の時から究極の回復へと進む時の流れを感じる瞬間でもあった。神殿が、神の領域と人の領域とが出会う空・間・であるならば、安息日は、神の時と人の時が一致する時間だった。(242頁)
新しい創造(247-255)

《引用①》 神の栄光はエルサレム神殿に降臨したのでもなく、またシナイ山の頂上に降り立ったのでもなく、イエスの上に、そして彼の中で輝き出た。彼はその成就の瞬間に、律法と預言者、つまりモーセとエリヤと語り合った。「キリストの変貌」と私たちが呼ぶものは、核心的な瞬間である。それは、イエスの生涯において、神殿の空間と安息日の時間の指し示すものが明らかになったように、イエスにおいて、より正確にはイエスの肉体において、物質世界そのものの指し示すものが明らかにされた瞬間であった。(252-3)
《引用②》 聞く耳と見る目を持っている人にとって、山上でのキリストの変貌のストーリーが証しているのは、イエスはいわば神の「物質」ーー新しい創造ーーと私たちの時間が交差する場だ、ということである。イエスが神の世界と私たちの世界、神の時間と私たちの時間が交差する場であったように。・・・新しい創造のすべては、大地に蒔かれた種、新しい世界の初穂としてよみがえられたイエスから始まる。(255)

以上11月の報告でした。

その他11月6~8日開催された「日本福音主義神学会・全国研究会議」関連の投稿が幾つもあり、ディスカッションが続きました。
 ※このサイトで講演のまとめ・レスポンスが読めます。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年11月は、入会3名で、トータル233名になりました。


以上、ご報告まで。