2017年8月7日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 6

スコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の『Salvation By Allegiance Alone』紹介・インタヴュー(全9回)の2回目になります。

マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

以上を前回カバーしました。

今回は以下の5つとなります。
 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


前回もそうですが、5つの記事それぞれにコメントはしません。

正直言ってベイツの主張が引き起こす論争の多くは「恵みのみ」「信仰のみ」の宗教改革原則にもとるのではないか、といったような「神学的要請」と「新約聖書テクスト」の意味・ニュアンスの中心・はばはどの辺にあるか・・・というかなり押し問答的な様相を呈するわけです。

一応著者であるベイツ自身も、紹介するマクナイトもその辺りのことをかなり意識していろいろやっているわけで、どうしてもそれらをいちいち紹介しようとすると「くどくなる」感じなのです。

たとえば「恵みのみ・信仰のみ」に関して、神からの一方的「賜物」として受け取るはずが、「アリージャンス」は「付加する」ニュアンスを伴うのではないか・・・という疑問に対して、マクナイトはジョン・バークレイ『たまもの』やハワード・マーシャルを引き合いに出しながら反論しています。

これを有名な「NPP対OP論争」のフレームで戦わせると「義」を獲得する道が「トーラー遵守」なのか「信仰」なのか・・・という風になるわけですが、ベイツはこのような論争の細かいニュアンスを(マクナイトの引用によれば)以下のように潜り抜けている、としています。
In other words, the real “faith” versus “works” divide in Paul is more accurately framed as a divide between works performed as allegiance to Jesus the king versus works performed apart from new creation in the Christ. And the latter usually but not always takes the form of a system that seeks to establish righteousness through performing prescribed regulations. 
この他にも救いと言うことに関連して、「新創造/天(国)」の様相や、「救いの秩序(ordo salutis)」の問題などでも、「(改革派系)神学的要請」に対して新約聖書(パウロ書簡)テクストの持つニュアンスがどのようなものかベイツの主張・強調点を拾い上げています。

義認においては(復活し義とされた)王なるイエスとの結合(union with Christ)、その(個人的な性格ではなく)集合(教会)的な救いの性格、などが「アリージャンス」ニュアンスの長所として紹介しています。(改革派神学に対しては修正点となります。)


以上たくさんリンクを挙げた割には簡単な紹介になってしまいました。(さすがに飽きてしまいました。)

「大和郷にある教会」ブログで連載しています「義認論ノート(、)」がここで紹介した論点等について、より踏み込んだ議論をしていますのでそちらもお読みいただけると感謝です。

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