2017年5月28日日曜日

2017.5 (リアル)読書会報告



[2017/6/2 追記あり]

先日の今年第2回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方1名、及びオブザーバーの形の2名を含め全部で8名でした。

用意した「縮小版」の
 ★ Introduction
 ★ A Fresh Perspective?
 ★ Conclusion
の特に「A Fresh Perspective?」を中心に読みました。

残念ながら細かい部分には入れませんでしたが、パウロのユダヤ教の基本的な信念(唯一神・選び/契約・終末)がロマ書のナラティブの土台にもなっていることを確認しながら学びを進めました。

この Paul and Caesar: A New Reading of Romans 論文は、「宗教と政治」テーマのうち具体的には「皇帝崇拝」に焦点を当てています。

「福音を宣言する」ことが暗に「皇帝崇拝」に対する挑戦となってロマ書に反響していることを英文を読みながら理解するのは難しいと言うことで、予め用意しておいた『聖書と物語(The Book and the Story)』から以下の引用を紹介しました。

多神教の権力構造に対する挑戦
 聖書の物語が始めからすべての多神教の政治権力構造に対して批判的であったことは「福音」という言葉に内在するものであり、これは新約と旧約、両聖書に見られるものである。イザヤは、ヤハウェの神がバビロンの偶像を打ち倒したことにより、バビロンのイスラエル支配はもはやなくなったという良い知らせを告げた。イザヤの語るユダヤ世界に深く根ざした新約聖書では、ギリシャローマ世界に対して、ナザレのイエスこそ新しい真の世の統治者であることを語っている。イエスの昇天こそ、全被造物が待ち望んでいた、解放と癒しをもたらす良い知らせである。この声明は「公の真実」か、さもなければ「公の嘘」か、いずれかであり、発言者が自身の内的宗教観を「私的な真実」として語ったものではあり得ない。
 イエスが「神の国」の到来について語ったとき、そのメッセージは時の権力者たちに対し明確な挑戦として語ったといえよう。だからこそ、イエスが十字架に処刑されるに至った理由が、歴史的にも神学的にも理解される。「イエスは主である」とパウロが語った時、それは明らかにカイザルの支配を喚起させる言葉を使っていた。世の支配者は二人並存し得ないのである。(『聖書と物語(The Book and the Story)』※)

キリスト教会の長い伝統では、ロマ書は「義認」や「聖化」の救済論的テーマを中心に読まれることが多く、政治的トピックとしては「13章の国家に対する服従」が限定的に扱われるのが常でした。

しかしロマ書全体は(始まりと終わりの部分を注意して読むと)「異教文化との対抗的」文脈を意識した宣教的な文書であることを意識しながら「皇帝崇拝」のエコー(反響)を文面から読む必要があるのではないか、ということを学びました。

ディスカッションでは(皇帝崇拝と)日本の天皇制との類似点なども話し合われました。

戦中のホーリネス系牧師たちへの迫害のことも話題に出ましたが、治安維持法側からキリスト教信仰が国体を脅かす「政治的含意」を指摘されて(信仰者側が)初めてそのことに気づくとはどういうことか、なども話し合われました。


閉会後は記念写真を撮って散会しました。


(二次会の巣鴨駅前大戸屋でのランチには5名参加しました。こちらでも色々な話題で盛り上がりました。)

[2017/6/2 追記]

上に『聖書と物語(The Book and the Story)』から引用しましたが、ちょうど読み始めた『使徒パウロは何を語ったのか』に適切な文章が見つかりましたので、追加しておきます。
 パウロの福音の歴史的背景をとらえれば、伝統的な宗教史研究における観念的な分類は、あまり役に立たないことがわかります。パウロの「福音」をよりユダヤ教的に理解しようとするなら、その福音は、皇帝礼拝や、「宗教的」であれ「俗的」であれ、あらゆる異教文化と対決するのです。それは、「王ではなく神」というユダヤ人の唯一神信仰のためです。・・・カエサル(またバビロン、ペルシアやエジプト、シリアなど)が王であるという主張に対して、イスラエルの神の主張は戦いを挑むのです。ヤハウェが王であると告げ知らせることは、カエサルは王ではないと主張することなのです。(77-78ページ、強調は原著)

2017年5月18日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 2

さてなるべくサクサクっと進めて行きたいと思いますが、まず
Salvation by Allegiance Alone: Rethinking Faith, Works, and the Gospel of Jesus the King
の紹介サイトに出ていた「書評」 の一つから見てみます。

※スクロールダウンして「Reviews」のところの「3番目」のものです。そして掲載されたのはスコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」ブログです。冒頭マクナイトによる「書評シリーズ」開始の説明と、書評者の簡単な紹介があります。

 
チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

新約聖書由来のことばで、「kingdom」「grace」「salvation」「heaven」と同様「faith」も実は聖書全体の文脈で理解しているとは言い難い。この本はそのような理解を助けてくれるもの。
と紹介しています。

西洋キリスト教の伝統では、救いにおいて「信仰」と「行い(功徳)」の関係が議論されてきたわけですが、宗教改革において「信仰義認」原則が確立されると、「信仰」からあらゆる「行い」の要素を取り除こうとする動きが強くなりました。

すると、キリスト者となってからの「聖化」や「道徳的成長・努力」をどのように位置づけたらよいのかということが、神学的にも実践的にも微妙な問題として扱われてきました。

「福音」に対して「律法」が対立的に理解される問題や、「聖化」が「行い」に人間的努力にならないように、とかそう言う問題です。
Bates is careful to nuance what this entails. This does not “sneak” merit into salvation in some Pelagian or Semi-Pelagian construct. Pistis/allegiance, Bates clarifies, is not “works,” but rather “pistis is the fundamental framework into which works must fit as a part of our salvation” (109).
「信仰(ピスティス)」に「アリージャンス(allegiance)」のニュアンスが加えられることによって、福音の理解が広がり、「救い」を受けたところにとどまらず、よりコミットした「キリスト者生活(イエスに従う弟子の生活)」へと繋がる、そういう視界・展望を与えてくれるだろう・・・そんな感じの評価をしています。
There is much more to this book that defining faith. Bates has in mind setting biblical soteriology straight concerning the future eschatological fate of the people of God, the place of justification in an allegiance-based understanding of faith, a biblical-theological understanding of “election,” rooted in the Bible’s context rather than later theological debates, and the connection between allegiance to Jesus and the Bible’s teaching concerning the image of God in humanity. What Bates has accomplished in such a small book is admirable. His writing is clear and accessible, yet rooted in solid scholarship. This books gets to the heart of the Bible’s vision on salvation, faith, works, and the gospel.

以上短いですが、今回はこの書評一本だけにします。

(次回に続く)

2017年5月9日火曜日

2017 第2回目のライト読書会

既に「2017年度」全体の案内はしました。

《第2回目ライト読書会》については

日時: 2017年5月27日(土)午前10-12時
場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
テキスト: Paul and Caesar: A New Reading of Romans 
とご案内しました。


2017年は「政治と宗教」というテーマで「(リアルの)ライト読書会」を計画したわけですが、4月1日の第1回目は「政治」と「宗教」が分離してきた(特に啓蒙主義近代以降の)歴史的背景をライトの個人史に沿って考えました。

日本においては自由主義と保守主義が対立することで、前者が社会正義や政治に関心を集中する一方、後者はその反動で「救霊」に専念するようになりました。それがどんな影響を及ぼしてきたのか、当日の出席者に語って頂きました。

第2回目は「政治や社会正義」に取り組む時、特に福音派が大事にしている「聖書の権威」をどのように実践に活かすのか、というテーマになります。

福音派のいわば土台となる「聖書釈義」を十全に用いた「神学」がどのように構築されるべきか、と云う課題、そしてそのテストケースとして「ライトのロマ書釈義」を読んでみたいと思います。

この「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」と云う論文は、所収された論集

A Royal Priesthood?:
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に付けられた「A Royal Priesthood」と云うモチーフの含蓄もさることながら、「世界観レベルでの政治的対抗」を導き出すため、「伝統的なロマ書の読み」だけでなく、「NPPの読み」もまだ不十分だ、と云う批判的テーゼを含んだプロポーザルになっています。

そのように「ロマ書全体の展望」をどう見るかということが「肝心な問題」なので、皆さんと読む部分はかなり限定的になりますが、意識は論文全体の趣旨、即ち「A Fresh Perspective」に向けたいと思います。

そのため僭越ながらこの「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」論文を「当日、実際に目を通し読み合わせる部分」と「アウトラインだけ見て本文は通り過ぎる部分」とに分離・圧縮したもの(※)を出席者に配布したいと思います。

※当日用に出席予定者に配布する縮小版は「Paul and Caesar、ライト読書会用(PDF)」で、後日お送りします。

当日まで3週間を切りましたが、この「案内」を読んで関心を持たれた方は是非お問合せください。(※英語が苦手な方は傍聴だけで大丈夫です。)

※問合せ・出席希望者は「小嶋」までご連絡お願いします。
「問合せ連絡先」は左コラム(←)を参照ください。 


2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、

2017年5月2日火曜日

FB読書会 2017年4月報告

いよいよ『シンプリー・ジーザス』を読み始めました。
(『はじめに』は既に読んでいたのですが・・・)

(日本)国外の方々に本が届くのはまもなくらしいですが、既に手中にした100名を越える(?)現在アクティブなフェイスブック読書会のメンバーたちと一緒に読み進めています。

4月中に「セクション」に分けて読んだ部分を、キーワード等を付けた「小見出し(水色文字)」と、フォーカスした「引用」だけですが、以下ご紹介します。


第1章(17-29)

「リアルなイエス」とは誰か
イエスは本当にそう言ったのだろうか?
彼は本当にそれをしたのか?
その意味するものは何だったのか?
・・・(疑い・否定の声の中で)
私がこれからも説教を続け、
さらにはイエスを信頼し、
イエスを個人的に知るようになるようにと人々に勧めていくためには、
こうした問いに向き合わないわけにはいかなかった。(23)
還元主義(リダクショニズム)の問題
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者 [reductionists] なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化 [reduced] してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。(24-5)
微妙な立場(curious position)
 イエスを適切な歴史の流れに位置づけようとするとき、私たちは自らが微妙な立場(curious position)にあることに気づかされる。私たちは彼の人生の終局について非常に多くのことを知っている一方、前半生については何も知らない。・・・・・・しかし、もしイエスが実在の人物でなかったのなら、また記者らにイエスについて書くことを動機づけるような人物でなかったとしたら、どうしてこのような福音書が存在するのかを説明するのは極めて困難である。(28-9)
第2章(30-36)


「謎めいたイエス」三つの理由:世界観/ストーリー

・・・・・・イエスは当時も謎であり、それは今日においても変わらないのだ。
 イエスが謎めいているのには三つの理由がある。第一の理由は、ほとんどの人にとってイエスの生きた世界が未知で異質な世界だからだ。・・・・・・イエスが理解していたように私たちも理解したいのなら、彼の生きたその世界の中に入っていかなければならない。(31)
「謎めいたイエス」三つの理由:「神」「イエスの権威」
 二つの難問の背後に隠れている [hidden] 第三の難問は、イエスがその公生涯を通じて支配者であるかのように語り、行動したということである。(33)
 この運動は、西洋世界がここ二百年ものあいだ考えてきたような意味での「宗教」ではなかった。・・・・・・すべてに関わるものだった。さらに、政治、哲学、文化に関するものである。それは現代における普通の宗教的な意味での「神」より、はるかに大きな「神」に関することである。(34)

第3章(37-58)

「文化戦争の嵐」に乗り出す小船(ライト、と読者)
 ボートに乗って、さあ船出しようというとき、これら二つの突風が別々の方向から吹き付けているのに気がつけば、心穏やかでいられないだろう。信じてほしいのだが、私はこのような状況の中で四十年間過ごしてきた。風は唸りをあげて私たちの周囲を舞っていて、自分がどう考えているのか分からなくなり、そして両陣営とも相手の話が聞こえていないのではないかと疑いたくなる。これではまるで対話にならない。
 西からの風は、これまでの二百年間の合理 [主義?] 的な懐疑主義を意味し、北からの高気圧は、「保守的」クリスチャンからの近代主義への反発だとすれば、・・・。(39) 

「文化戦争の中のイエス」は小さく歪んでいる
 文化という戦争の狭間で集中砲火を浴びている「イエス」は、初期キリスト教文書の中に、そして紀元一世紀の実際の歴史に見られるイエスより、ずっと小さいように思える。結局のところ、懐疑主義者たちが間違っているのと同じくらい、イエスの熱心な信従者たちも間違っている可能性がある。・・・だからこそ、イエスその人に目を向けることが極めて重要なのだ。(43)
神話
・・・「神」と呼ばれる超自然的な存在は、超自然的な「子」を私たちの世界に処女降誕によって遣わした。この世界は「子」にとって本来の居場所ではなかったが、この世界での自らの死によって、人々をこの世界から救い出すことが出来るようにした。秘められた神としての本姓を示し証拠として、この「子」はありとあらゆる途方もない、不可能に思われる「奇跡」を行ってみせた。その究極の奇跡は、自分を信じるすべての人を死者の中から復活させ、「天国」へと連れ戻すことである。「子」は、自分に忠実な者たちが死んだ後、そこに来るのを待っている。(44)
「神話」とは、厳密にはある種の「歴史」として語られるストーリーである。それを語り継ぐ共同体が抱いている固い信念を要約し、補強するのが神話なのである。(47)

以上目下のところは小嶋がリードを担当していますが、第4章からは担当を分担して行きたいと思っています。多分5月半ば頃からになるでしょう。


最後に「新規入会メンバー」について。
 
2017年4月は、入会7名、退会1名で、トータル218名となっています。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。