2016年3月30日水曜日

追記「復活:自然啓示と特別啓示」

たまたまでしょうか、ちょうどこのトピックに関連する記事がINTERPRETATIONで「ただで読める」、ということで追記します。

1. Robert John Russell (The Center for Theology and the Natural Sciences, Berkeley, CA)
   Resurrection, Eschatology, and the Challenge of Big Bang Cosmology
2. Anna Case-Winters (McCormick Theological Seminary, Chicago, IL)
   The End? Christian Eschatology and the End of the World
※ただの期間は2週間!!だそうですので、お早めに。 

2016年3月29日火曜日

復活:自然啓示と特別啓示

先日、久し振りに銀座の教文館を訪れた。

本を置くスペースが狭くなっていた。

平積みになった新刊書・近刊書を何度も眺めながら、ついに購入したのは一冊だけに終わった。

しかし購入しなかった中で気になった本はあった。


そのことを書こうと思ったのは、イースターの説教で語ったことと、(後から紹介する)この本の主張(原書である英書の紹介文によればだが)とが多分に重なるのを感じたからだ。

しかし、先ず、きっかけはこのツイートだった。

以下吉田さんの連ツイをまとめて紹介。
1. 私の呟きは、マルコ福音書読者の周囲では既にイエスの復活が語られていたことを前提としていましたが、これはマルコ福音書の成立がイエスの死と復活から随分と時間が経っていると考えられているからです。

2. 多くの研究者はマルコ福音書の成立を70年前後と考えていますが、つまりマルコ福音書の成立はイエスの死と復活から40年後も経ってから、ということにな ります。それではこれ以前にイエスの死と復活はどのように語られていたのかと言いますと、これはパウロの書簡が参考になります。
3.パウロが著した『コリントの信徒への手紙一』15章3節から少なくとも5節には、彼がコリントの教会にかつての伝道に際して伝えた教えが再録されてい ますが、そこでパウロはこの教えを「私も受け取った」ものとして、つまり彼が信仰の先達から受け取った伝承として紹介しています。

4.パウロがコリントを訪れた時期或いは『コリントの信徒への手紙一』を著した時期はイエスの死と復活からおよそ20年後と考えられていますから、マルコ 福音書より20年は古いことになります。さて、その15章3節にはこの教えをパウロ「も受け取った」ものと記されていますから、

5.教え自体はパウロ以前に既に在ったと、つまりイエスの死と復活にかなり近い内に成立したものと考えられます。尤も、いつ誰がどのようにして作成したのかは不明でして、この点に関しては様々な研究が行われていますが、

6.所謂「キリスト教」のそもそもの始めがキリストの死(一コリ15:3-4a「キリストが…死んだこと、葬られたこと」)と復活(一コリ15:4b-5 「聖書に従って三日目に起こされたこと、…に現れたこと」)を信じることにあったことをこの伝承が語っているという点では見解が一致しています。

7.イースターをただのお祭りとして楽しむのも良いですが、その始まりを知ること、そしてその歴史に思いを馳せることもその楽しみに加えて欲しいなぁ、と思ったりなどもします。

先日出版されたT・ピーターズ他『死者の復活:神学的・科学的論考集』(小河陽訳、日本キリスト教団出版局、2016年)は、「復活を科学的および神学的にどのように評価すべきであるか」との問いに関する18本の論文をまとめたもの。

 「宇宙の終末において我々はいかに変容するのか?物理学、生物学、神経科学、哲学、聖書学、エジプト学、教会史、組織神学…多彩な学問領域の研究者18名が「体の復活」の可能性を考究した学際的対話の試み。」

(以下まだ少し続くが略。訳者の小河陽の『あとがき』も含めて実質19論文であると『あとがき』をイントロとして読むことを推薦している。)
訳書ということで値段がいかにもだが、 原書である、Resurrection: Theological and Scientific Assessments、は2002年の出版だからライトの『キリスト教起源』シリーズⅢ『復活と神の子』より一年前ということになる。(逆だったら少し面白かったとは思うが。)



ところでその「紹介文」だが、「前半」はこうなっている。
A team of scientists and theologians from both sides of the Atlantic explore the Christian concept of bodily resurrection in light of the views of contemporary science. Whether it be the Easter resurrection of Jesus or the promised new life of individual believers, the authors argue that resurrection must be conceived as "embodied" and that our bodies cannot exist apart from their worldly environment.
この「身体的復活」に焦点を当てる、というのは神学と(自然)科学との「共同作業」としては当然だが、ライトが、Surprised By Hope、で指摘するように、西洋近代において「からだの よみがえり」がかなり薄められたり、曖昧になったり、歪められたり、矮小化されてきた歴史から言えば、なかなか意欲的な取組みではないかと思う。

後半はこうなっている。
Yet nothing in today's scientific disciplines supports the possibility of either bodily resurrection or the new creation of the universe at large. Bridging such disciplines as physics, biology, neuroscience, philosophy, biblical studies, and theology, Resurrection offers fascinating reading to anyone interested in this vital Christian belief or in the intersection of faith and scientific thought.
アマゾン・コムの紹介文では省略されているが、間にはこう言う文章が挿入されている。
Cosmology, for example, only forecasts an end to the universe. If persons and the cosmos are to rise up anew in the eschaton, such an event will have to be a willful act of God. Thus, while modern science can offer aid in constructing models for picturing what resurrection of the body could mean, the warrant for this belief must come from distinctly theological resources such as divine revelation. Christian faith ultimately gains its strength not from modern science but from Gods promises.
科学は「身体的復活」を視覚化するモデルは提供できるが、現在の理論では「身体の復活」の可能性も、「新創造」の可能性もともに悲観的な見通ししか提供できない。

ゆえに「神学的根拠」が残されるが、それはどこに・・・、という問題提起になっている。

...such an event will have to be a willful act of God.
とあるように「イエス」を「死者の中から復活させた神(その神の力)」というところにキリスト者の信仰と希望は集まる・・・ということをイースター・メッセージでは語ったわけだった。

少々蛇足だが、『論集』中にはナンシー・マーフィーの、The Resurrection Body and Personal Identity、もありこのブログでも「イエスの復活の身体④」で取り上げた 
①「復活の身体」の連続と非連続の問題
『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。
辺りの問題にどんな見通しを示しているか興味深い。 

2016年3月1日火曜日

FB読書会 2016年2月近況

第8章「イエス――救出と刷新」

イエスとその神性 (167-171)をMH氏が担当。

一応ライトのコントロバーシャルな新約聖書解釈の一つである「イエスの神性」について簡単に触れられている箇所をMH氏は以下のようにまとめている。
・・・イエスの評価として、イエスにおいて天と地が出会い、神殿にとって代わる生きた神そのものとしての体現者、という理解の確信性がpp.168-169で指摘されてありました。

 ただ、物議を醸しかねないのは、p.169の”イエスが生涯の間、自分が「神である」ということに”気が付いていた”という従来の理解が間違っていた、という指摘であると思います。これは、キリストの神性と公生涯での神性がないと下手をすると受け取られかねない議論としての立論をしているようです。


 但し、”イスラエルの神のみが可能とされる行いとそのあり方を、自分の召命として、使命として、自覚していた”(169ページ)と記載しておられます。つまり、神からの Call やVocation(召命や使命)そのものを受けているがゆえに神であり、人であるということが成立するのだ、という立場をかなり明確に出しているようで す。この辺の神学議論は、ほとんどわかんないので、どなたかお願いします。
これを受けて、ライトの『イエス』論文翻訳以来、少しくライトの解釈を追ってきている小嶋がコメントした。
 ライトの「史的イエス」と「キリスト論」と「神の問題」がどのように絡むのか、そしてその「論争的」な含意を自覚するようになったのは、ライト読書会の《翻訳》のところにある『イエス』論文を翻訳しているときです。

 以下に「メシア」「神の子」「召命」「イスラエルの神の体現」を述べている部分(6)を引用してみます。

*****
6. 受肉の教理は、パウロが登場する頃(ピリピ2:5-11参照)には既に初代教会に定着していたが、その「意味付け」はどこに起源があるかと言えば、それは この十字架の物語の枠内に見つけることができる。(外部から取って付けたようなものではない。)

イエス自身が自覚し、かつ忠実に果たしたその使命は、旧約聖書から言えば、ただ神ご自身が果たしえるものであった(イザヤ59:15-19、63:7-9、エゼキエル34:7-16)。

イスラエルの神ご自身が果たすべき仕事であることを自覚しつつ、人間イエスは信仰と従順のうちに、時に間接的、時にはっきりと(偽りであれば神への冒涜に値するような事柄を)主張しつつこの仕事を遂行した。イエスは誰の権威も借りずに発言し行動した。

この光に照らす時、「神の子」の意味が明らかになる。旧約ではイスラエルとメシヤに使われた称号だが、新約ではそれら二つを含んだ上、それ以上の真実を伝えている。イエスの宣教と、特にその死において確かに働いておられた神は、契約通り憐れみと信実に満ちた、まさにイスラエルの神ご自身であった。病める者、罪人に直に触れられ、汚れを身に帯びる(それによって逆にいのちを与える) 「愛」は、十字架の上で十二分に神ご自身の内実を顕にし、ユダヤ人の王として神の民を率いてその真の敵に勝利したのである。
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第9章「神のいのちの息

 ※9章からREADER/LEADERの担当のやり方を変えました。セクション(数ページ)ではなく1ページくらいの量で各自の印象深い部分をマーク(アンダーライン)し、適宜コメントするという、より簡便なフォーマットにしました。(これでより多くの人が担当してくれるようになれば、と期待しています。)

173ページ
・・・神による創造の香りが・・・新しいいのちの出現を待っている。
・・・古代の創造物語のイメージを借りて、・・・秩序といのちの誕生をもたらしたのだと語った。
[コメント] 新創造(New Creation)は(新創造によって古くなるはずの)世界を焼却処分して出現するのではなく、その世界の只中から(苦難と死をくぐり抜けて)出現する。
174ページ  
イエスに従う者たちは、・・・、イエスのよみがえりに大いに困惑した。次に何をしたらよいか分からないほどだった。神が次に何をなさるのか、先が読めなかった。そのためか、一時は漁師生活に戻った。
[コメント] ヨハネ福音書の方はライトがここで採用しているエピソードにあるようにイースター後の弟子たちが深い混乱と混迷の霧の中にあったことを示唆しています。
ある意味、初代弟子たちの「ポスト・イースター症候群」は依然としてわたしたちとともにあるように思います。
174-5ページ
聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。今より少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから 連想されるかもしれないことだが、神はディズニーランドの一日のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えるのではない。

同じように、教会の務めも聖霊なしには果たされない。イエスのうちで業をなした神は、次は私たちが独力で聖任を果たすのを願っているかのようにクリスチャ ンたちが語っているのを聞いたことがある。しかし、それは大変悲しい誤解である。それは、傲慢に行き着くか、燃え尽きに行き着くか、あるいはその両方にな るだけである。神の霊なしに神の王国に関することはできない。神の霊なしに教会は教会でありえない。
175-6ページ
私はここで「教会(チャーチ)」という語を幾分重苦しい思いをしながら使っている。多くの読者もこの用語で、大きな暗い建物、尊大な宗教的宣言、見せかけ の厳粛さ、ひどい偽善を思い浮かべることを知っている。しかし、それに代わる言葉を見つけるのは容易ではない。私もまた、否定的イメージをつよく持っている。

多くの人にとって「教会」は、先に触れた否定的イメージと反対のものを意味している。教会は、人を受け入れ、笑いがあり、癒しと希望をもたらし、友であることや、家族、義、新しいいのちの場であるというイメージだ。

人々は、そこに、それぞれの小さな信仰を携えてきて、他の人たちと共に神の神を礼拝するために集まる。全体でまとまるのは、ここバラバラの単なる総計より もはるかに大きな意味があることを見出すのである。どの教会もいつもこのようではない。しかし、驚くほど多くの教会で、たとえ部分的であっても、頻繁にこ のようなことが起こっている。
[コメント] 教会は信仰におけるシナジー効果を生む部分もあるかもしれません。おそらく、ロバート・パットナムという社会学者の『孤独なボウリング』の第1章 米国における社会変化の考察 に教会のことがかなり出てくるあたり、こういう部分と関係しているかもしれません。
176-7ページ
多くの愚かさや失敗にも拘らず(関わらず)、病院、学校、刑務所、その他たくさんの場所を含め、そこにはいつも教会があった。「神の民の家族」とか、「イ エスを信じ従うすべての者」とか、「聖霊の力によって神の新しい創造を生み出す者の群れ」とかいう長々しい言い方より、私はむしろ、「教会(チャーチ)」 という言葉を再生させたい。
[コメント] まあ軽い皮肉とともに「伝統」的な呼び方を捨てないライトの保守的な姿勢が感じられます。
177ページ 
実際聖霊が与えられているのは、イエスが神のおられるところ、すなわち天に昇られたいまにおいて、教会がイエスご自身のいのちと、いまも続いているイエスの働きを分かち合うためである。
[コメント] 《いのち》と《働き》
教会は、聖霊によって、イエスの《いのち》と《働き》を分け与えられている。
178ページ 
 これが最も初期のクリスチャン・ライターであるパウロが来たるべきものの保証、あるいは手付金と聖霊のことを読んでいる理由である。ギリシア語のアラ ボーン(arrabon)がそこでは使われているが、その現代ギリシア語での意味は婚約指輪であり、来るべきものの現在のしるしなのである。
[コメント] 最近になって読み始めた家内は、ここが面白かったといっておりました。花婿なるキリストからの婚約指輪としての聖霊、というのがなかなか、あぁ、そうか、となんとなくスっと理解できたようです。
   

 フェイスブック上でのライト読書会もまもなく開始4年になります。

 昨年ライトの本翻訳2冊を受けて「ライト元年」スタートしましたが、今年はさらに多方向に進展するかも・・・と期待しています。

 ただそうなると最早「ライト読書会」は、その中のひとつ(One of Them)ということでそれ程「旗を振る」必要もなくなり、もっと気楽にやっていけるようになるかと思っています。


2月の入会者数は3名で、トータル195名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。