2016年1月31日日曜日

FB読書会 2016年1月近況

まだ晦日ですが恒例の月例報告です。

1月は少しのろのろの進行振りでした。


以下(いつものように)順に担当者の文章を一部抜粋して紹介します。

第8章「イエス――救出と刷新」

神殿・晩餐・そして十字架へ(155-159)を小嶋が担当。
いわゆるイエスの「最後の一週間」です。
象徴(的)という表現が目に付きます。
 「最後の一週間」は「象徴的行為」がさらに凝縮し、意味が充満する感じです。

①「最も象徴的行為」(156)としての『(伝統的名称では)宮きよめ』
・・・「これは単に神殿をきよめるのではなく、神殿そのものが神のさばきのもとにあることのしるし」
さらに
「神殿を破壊することによって、ユダヤ国家を全体的に擁護するのでなく、イエス自身と彼に従う者を擁護する」もの
②最後の晩餐が提示する「象徴的解釈」
 「神が自分の民と全世界を単に政治的な敵から救い出すのではなく、悪そのものから、人々を捕らえていた罪から救い出す」
 イエスの「神の国」樹立の戦略は、山上の垂訓にあるように「愛敵」によって「悪」に勝利するというものであったが、それを十字架で悪そのものを一身に受け「苦難のメシア」を成就する形で「実行に移し」た。
といったようなことを書きました。

最初のイースターは(159-167)をKYさんが担当。下記のような感想を書いてくれました。
復活をどう捉えるかということは単に歴史や科学の領域にとどまらず、それに直面する私たちに対して世界観の刷新を求めているのだということを強く感じまし た。
今回の箇所を何度も読みながら、実は認知的不協和現象を起こしているのは2000年前のユダヤ人ではなくて今を生きる現代人ではないか、と問うています。私たちの持っている世界観や信条に合わせてイエスの復活を否定しようとしたり、あるいは「死後の命」と関連付けようとしたり、あるいは「最大の奇跡」 と捉えようとすることは、皮肉にも認知的不協和と言えるのかもしれません。
 このスレッドには久し振りに充実した内容のコメントが続きました。こう言うスレッドが発生するだけでも、FB読書会を続ける甲斐があるというものです。(最近閑散としたウォールを見ることが多いのでなおさらそう感じたのですが・・・。)
 

この他、今月新しく加入したKMさんが「パウロ研究」で継続中の「NP対AP」についての感想を投稿してくださいました。(現在北米の神学校で研究中の課題のようです。)
※「NP対AP」についてはこちらの記事を読んでいただくと少し様子が掴めるかも知れない。


1月の入会者数は1名で、トータル192名となりました。(どうも2名ほど退会なさったようです。)
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。 



2016年1月26日火曜日

信仰義認メモ: ジョン・ウェスレー

(断り書き)
 これは反射的なメモです。まだちゃんと読んでも、考えてもいません。

最初にこのツイートに反応したのだ。

これを読んで、「えっ」と思い、「でもやっぱりそうか」と頷いたわけ。

アン・アウェイクンドとは「認罪」の段階に至っていない、つまり「福音(信仰義認)」を聞く必要に至っていない段階であることを示唆しているウェスレーの言葉なのだろうと取ったわけです。

つまりライトの信仰義認の理解の枠組みとは異なるわけで、そこにまず反応したわけです。

※しかし、ウェスレーの救済論が基本的に「宗教改革神学」に基づき、「救いの順序(オルド・サリューティス)」に則って展開されているわけですから、ウェスレーの理解自体は不思議でもなんでもないのです。

ただある期間ライトの信仰義認論を聞いてきた後でこのような文章にいきなり接すると、やはり、まず「えっ」となるわけです。


さてそれから次に試してみたことなのですが、この文章全体ググってみたら、グーグル・ブックスで、スティーブン・ウェスターホルムの『Perspectives Old And New On Paul: The "Lutheran" Paul And His Critics』のページがヒットしました。

(以下の画像はその関連部分を切り取ったもの)



この本は2003年のもので、「彼の1988年の著作『Israel's Law and the Church's Faith』をさらに深めたもの」とのブルース・ロングネッカー評があります。

この本では「ルター的パウロ(信仰義認)解釈」をアウグスティヌスから、ルター、カルヴィンとたどり、さらに「第4章 ジョン・ウェスレー」までトレースしています。

そう言う本なのですね。まさに引用された文章(実際の引用は同ページの脚注にあります)は「ルター的ウェスレー」を示すものなわけです。

先ほどの「オルド・サリューティス」でいうと、まず「自然状態(まだ福音を聞くには相応しくない段階)」、それから「律法」による「認罪」、そして福音提示→「回心=救いの開始」という順序が垣間見られます。

さてライトの信仰義認論はというと、(ここではメモの役割なので論じませんが)先ずウェスターホルムのことを名前を挙げてライトが自分のことを間違って解釈している人物として言及している文書を紹介しておきます。


CTR: In what way do you feel your adversaries have misrepresented your teaching on the NP?
WRIGHT: Starting at the top ...the most remarkable misrepresentations—remarkable because they come from an internationally famous scholar—are those of Stephen Westerholm in his recent book. He insists on a complete disjunction: either Paul’s language about justification is all about how sinners get saved by God’s grace, or it’s all about how Gentiles get in to the community without being circumcised. The silly thing is that, though some NP advocates may sometimes have implied something like this, I certainly have not. My commentary on Romans in the New Interpreters Bible should make this clear.


次に、ライトが「伝統的信仰義認論」(つまりオルド・サリューティスの順でいうと、回心と義認を同一時期のものと扱う論) に対して、「召し」(回心に相当するものだが、敢えてパウロの語彙を使う)と「義認」とは異なるフェーズのものであることを端的に説明している文書を紹介しておく。


2016年1月5日火曜日

FB読書会 2015年12月近況

2016年となりました。

今年もよろしくお願いします。
 
さっそく恒例の月例報告です。

12月はまあまあの進行振りでした。


以下順に担当者の文章を一部抜粋して紹介します。


第7章「イエス」神の王国の到来 

イエスについてどこまで知ることができるのか(134-138)をI氏担当。 


 イエスは1世紀のユダヤ人でしたが、1世紀のどのようなユダヤ人であったか、と問いかけられています。
 その前に、1930年代のドイツの神学者たちのイエス像にも触れられています。反ユダヤ的とさえ形容できるほどユダヤ人とかけ離れた人物としてイエスが描かれていたことに言及されています。・・・
 ルターの時代から、キリスト教からユダヤ的な要素を排除する傾向はありました。その延長線上で1930年代にナチスが台頭した当時、ドイツの神学者たちの間で反ユダヤ的色彩は著しかっ たようです。
 学問というものが、必ずしも純粋な意味での真理探究ではなく、様々な世相や思惑に影響されることは良くあることです。そして、神学も聖書学 も、けっして例外ではありません。
福音書は信頼できるのか(138-143)をY氏担当。

なぜトマス福音書などの外典に正典性が認められないのか?・・・
それは四福音書が旧約聖書のイスラエルの物語(原文ではストーリー)の延長線上に、そしてそのクライマックスとしてイエスのストーリーを語っているのに対し、外典にはそのようなストーリーが存在しない、あるいは全く別のストー リーを語っているからだ、ということです。   
神の王国、それではイエスは(143-149)は小嶋が担当。

 世界はついに正しい方向へと向かうことになった。神の王国がいま到来したと語ることは、すべてのナラティブが集約されることであり、そのクライマックスに至ったことの宣言である。まさに神の未来が、現在に突入しようとしている。天が地に到来しようとしている。(144)
イエスの神の国運動は「イスラエルに全く新しいチャレンジを与えた。」(145)と指摘しています。その一つが「愛敵の教え」に代表される山上の垂訓の教えです。
 これは非常に理解されるに、受容されるに困難なチャレンジあったことが強調されています。イエスの取った戦略としては、①象徴的行動と、②物語りでこの困難なチャレンジの浸透を図るというものでした。

第8章「イエス――救出と刷新」

イントロ(150-155)をMH氏担当。

ちょうど、メガネ屋が度数の異なるレンズを何度も取り換え、目の前のスクリーンの文字が読めるようになるまで調整するように、私たちもイエスが何のため、 またなぜその任に招かれたのか、それをどのように信じていたのかを理解するためには、これらすべてのテーマとイメージを、こころにしっ かり理解しておく必要がある。
(案外大事なのは、イエスが何のために来たのか、それをどう旧約聖書から読み解いたのか、そして、その最終目的とは何か、ということを考えることは実に大事なような気がします。そして、案外これがなされていないような気がします。)
その他「パウロ」スレッドにT氏が「ピリピ2章6-11節の背景にイザヤ53章を見るというライトさんの解釈の釈義部分だけ」ですが投稿してくださいました。

またライトの神学についての講演が案内されました。
2016年1月19日(火) 13:30~16:00
「N・T・ライトの神学ーその一断面ー」
場所 聖契神学校チャペル
講師 山﨑ランサム和彦師 

その他、ライトの『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版)のクリスチャントゥデイ記事の案内がありました。

12月の入会者数は3名で、トータル193名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。