2015年10月29日木曜日

「継続する捕囚」補記2

また一つ材料が見つかったので紹介します。

Stephen Kuhrt, Tom Wright for Everyone: Putting the Theology of N. T. Wright into Practice in the Local Church (SPCK、2011)


1章が、The career of Tom Wright: emergence, scholarship and non-engagement、となっていて目下ライトの伝記的なものが殆どない中では参考となるまとめになっています。

(当ブログでの「伝記」関係記事はカテゴリーを見ていただくと二つあります。) 

1章で、カート氏は1970年代、1980年代、福音派のアカデミックなサークルではある程度名が知れていたが、広範には殆ど無名であったライトが次第に注目すべき聖書学者・神学者として台頭してくる様子をまとめています。
1990年代初期から中期にかけて、ライトが次第に英国国教会の重要ポストを歴任し始め、『キリスト教起源』シリーズを刊行し始めると、状況は一気に変わった。

特に『イエスと神の勝利』(シリーズ第2巻)によって、そしてその後の『イエスのチャレンジ』等で、「史的イエス」研究で非常に斬新な視点が突然出現した。

Initially what made the lagest impact here was Wright's claim that first-century Israel understood herself to be still in a state of exile, and his presentation of Jesus as an eschatological prophet proclaiming the end of this exile. At this stage Wright was seen within the Christian world primarily as an academic with a gift for communication, and the emergence of his thought was initially regarded with favour by most evangelical Christians. While his views on 'Israel's continuing exile' and his rather different interpretation of Jesus' parables did cause some 'eyebrows to be raised', most evangelicals were very happy to see the confident challenge he was making to the scepticism of other writers on Jesus.... Those within the more academic world, whose suppositions Wright was also challenging, on the other hand, were inclined to see him as a rather eccentric churchman whose 'interesting ideas' needed taking with a rather large 'pinch of salt'.
と叙述しています。

2015年10月26日月曜日

「継続する捕囚」補記

先日の「ライト・セミナー」のDVDが発売となりました。

(近日中にウェブでも紹介しますが、お急ぎの方はあめんどう社へ直行ください。)

その伊藤講演の背景となる重要モチーフ「継続する捕囚」についてまだまだ「理解が難しい」ことが何人かの方からの感想で聞き及んでいます。

しっかりとした解説をするのは無理ですが、小出しで申し訳ありませんが、また一つ「理解のための材料」を紹介します。

英語の動画ですが。



デンバー神学校の新約学教授のクレイグ・ブロンバーグの講演です。

ヴェリタス・フォーラムという、大学キャンパスでの「キリスト教の弁明」活動的なことをやるプログラムでのものです。

聴衆はノン・クリスチャンを念頭にしてますから、「史的イエス」入門としても聞きやすい、ざっくりとしたものです。

特に「現代の史的イエス研究」のリーダーの一人としてN.T.ライトの研究を紹介しているのですが、まさに「継続する捕囚」を終わらせるイエスの神の国宣教、として解説しています。(動画では大体37分過ぎ頃)

The problem is the problem of exile, of not living in freedom. Many Jews were literally in exile even though they were living in their homeland, they were not living in freedom.
Jesus came announcing that the exile was over, without one Roman soldier having been removed from his post.
The exile is over、捕囚は終わった。

神の国は到来した。(慰めの時、回復の時)



と言ったあたりを、短くですが解説しています。


ところで「10月月例報告」の方に書きますが、continuing exileを他のメンバーの方が「長引く捕囚」と訳していましたね。まさにそんな感じです。

2015年10月22日木曜日

「継続する捕囚」

先日もたれた第4回N.T.ライト・セミナーの第Ⅱ部で、伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)氏が「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」と題して発表した。


セミナー案内記事で少し解説した文を先ず以下に再掲する。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。
特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

と書いておいたが、標題の「継続する捕囚」とは、
このガラテヤ3章を解釈する枠組みとして「契約」、特に申命記に書かれている契約に伴う「呪い」の結果である「捕囚」が、第二神殿期ユダヤ人の世界観の中で「依然として終わっていない、継続していた」、という歴史的理解の前提をさす用語
である。

「継続する捕囚」については、小嶋がセミナー当日の資料のイントロに「簡単な解説」を付したが、ここで少し引用してみよう。


 「一世紀、イ エスやパウロ時代のユダヤ人は地理的には捕囚から帰還し、約束の地に戻り、神殿も再建していた。にも拘らず、政治的独立を奪われている情況では預言者たちが約束した『捕囚からの帰還』は成就していない。依然として捕囚は続いている」という当時のユダヤ人の歴史認識、世界観の一部を指します。今回伊藤氏が翻訳した部分の直前、パウロの「呪いと契約」枠組みの歴史的「前置き」としてライトがプロポーズしているものです。
 ライトは、パウロはガラテヤ3 章を「契約」(・・・)の枠組みで議論していること踏まえ、メシアがイスラエルを代表して呪いを受けることによって捕囚が終わり、アブラハムの祝福をブロックしていた律法の呪いが終了し、異邦人への祝福(その結果である聖霊 の賜物)がメシア(アブラハムの『末(seed)』)を通して到達した、という見通しを示します。 

『契約のクライマックス』(1991年)は「パウロ研究」の本だが、「継続する捕囚」は「史的イエス」研究でも、そしてライトの《新約聖書神学アプローチ》全体でも、重要なモチーフの一つであり、「第二神殿期ユダヤ教」の世界観を構築する上での大切なビルディング・ブロックとなっている、と言って差し支えないだろう。


『クリスチャンであるとは』の叙述では「継続する捕囚」という表現は出てこないが、「イスラエルの物語」を織りなす「繰り返される」スレッドとして「捕囚と回復」のパターンが指摘されています。(126ページ)

以下、「継続する捕囚」が解説・議論されている代表的なものを挙げておきます。

1. NTPG, 268-272.

2. Continuing Exile: Paul and the Deuteronomy/Daniel Tradition (2010年11月、Trinity Western Universityでの講演)

3. Justification: God's Plan and Paul's Vision, 41-45. (上記講演の簡易版)

4. JVGでは「捕囚からの帰還(Return from exile)」で、沢山の箇所で議論されている。



5. Carey C. Newman編の、Jesus the Restoration of Israel: A Critical Assessment of N. T. Wright's Jesus the Victory of Godでは、特にCraig Evansが扱っている。

6. 新約聖書ブロガーのMike Birdが,自身の Euangelionブログで扱っている。これ、とこれ

最近では、
7. アンドリュー・ウィルソンが今年の英国新約聖書学会(BNTC)で、「捕囚の終わり」のテーマでフィリップ・アレキサンダーとライトの発表ノートを記事にしている。

興味深いところではユダヤ人学者で死海写本研究で名高いローレンス・H・シフマンが、
"Exile and Return in the Dead Sea Scrolls"(「死海写本での捕囚と帰還」)
を自身のブログで記事にしているが、基本的に「継続する捕囚」の見方を支持している。

Perhaps one of the most interesting aspects of our study will be the observation that from the point of view of the Qumran sectarians, and indeed in some other Second Temple sources as well, the return that took place during the Persian period and the creation of a Jewish commonwealth at that time, and even the rebuilding of the Temple, were not considered to be the fulfillment of biblical prophecies of return. Indeed, we will see that our authors write as if the exile continues in their own time, despite the fact that they are living in the land of Israel.

以上関心のある方へ、ご参考までに。

2015年10月13日火曜日

N.T.ライトFacebook読書会 ver.3.1

2012年3月に始まった、フェイスブック上のN.T.ライト読書会。
 

※それより5年前に、リアル(f2f・・・フェイス・トゥー・フェイス)の方の読書会はスタートしました。

年々ライト読書会は大きくなり、今ではFBライト読書会の方は180名を越すほどの「非公開グループ」になりました。

今年は特に『クリスチャンであるとは』の出版以降、入会者が増えています。

 
それで以前アップしたフェイスブック読書会の説明を更新する必要が出てきたようです。

既に2冊のライトの著作を読了しました。
 1. How God Became King
 2.  Surprised By Hope
現在
 3. クリスチャンであるとは(邦訳が出る前はSimply Christian)
を読んでいます。

2015年10月に入った時点で、第6章「イスラエル」のところを読みすすめています。

 (進行具合はライト読書会ブログで月例報告をアップしていますので、ご参考までに。)


「N.T.ライトFacebook読書会」
に入会希望する方へのお願い

さて、ここからが「今後新たに入会を希望」する方々へのお願いです。

以下の事項をご理解の上、「入会申請」へお進みください。
 1. 読書会ですので、対象となる本(現在は『クリスチャンであるとは』)を購入しているか、購入予定あるいは希望している方が対象となります。(ディスカッションを読むだけの方はご遠慮ください。)
 2.  (任意ですが)入会時か、入会後適当な時に「自己紹介」をお願いします。
 ※「管理人」が「入会申請」を受け付ける際、ごく簡単に以下の二つのことについて質問しますのでご回答いただきます。
  (a)入会希望のきっかけ、特にN.T.ライトに関わること。
  (b)信仰・教会・宗教的背景
 以上、ご理解いただけましたら、N.T.ライト読書会のページで「参加」ボタンを押し、「管理人」からのコンタクトをお待ちください。

 よろしくお願いします。

 ご質問・問合せは、(管理人)小嶋崇、t.t.koji*gmail.com(*を@に変換してください)まで、お気軽にどうぞ。
 

2015年10月12日月曜日

ライトのパウロ研究をめぐる論集

N.T.ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズは、現在、
Paul and the Faithfulness of God(以下PFG)
で予定6巻中の第4巻を刊行した。

そのつど論集が組まれプロもコンも含めた学者たちが、ライトの野心的な新約聖書神学研究を分析評価している。

このブログでもPFGへの書評はそのつど目に付いたものは紹介してきた。

1. ダグ・ムー (ホィートン大)
2. ベン・ウィザリントン (アズベリー神学校)
3. ラリー・フルタドフルタド2フルタド3 (エディバラ大)
4. アレクサンドラ・ブラウン (ワシントン・リー大)

ここでやめてしまったが、実はPFGに対する最も厳しい書評がセントアンドリュース大の同僚ダーラム大のジョン・バークレーから出された。 (ついでといっては悪いが、クリス・ティリングの書評も好評。)
5. ジョン・バークレー
6. クリス・ティリングティリング2

さてここまでは前段。

ライトのPFGに対する本格的な論文集が、マイク・バードら若手の学者たちによって企画されている。論文を寄せるのは英語圏のみならず、ドイツ語圏の学者たちも含まれる、より国際的な視野によるものだ。

(※中に一本韓国の学者によるものも含む。)

God and the Faithfulness of Paul

※PFGではなく、GFPですから、お間違いなく。
紹介文に
N. T. Wright’s Paul and the Faithfulness of God is the culmination of his long, influential, and often controversial career – a landmark study of the history and thought of the Apostle Paul, which attempts to make fresh suggestions in a variety of sub-fields of New Testament studies
とあるが、「引き締まった議論」という点で1700ページのPFGは大分批判を受けているが、多様な背景を一箇所に集めて「厚い描写(thick description)」を施すという人類学的手法に近い観点から言うと、新約聖書学の諸分野への波及が評価される点になるのかもしれない。

マイク・バードとともに編者のひとりとなっている、クリストフ・ハイリッヒはセント・アンドリュース大でも少し学んでいるが、今回の論集にドイツ語圏の学者たちも引き入れいれる役割を果たしているのかもしれない。

とにかく、このようなかたちで取り上げられるライトはいろいろな批判があっても、それだけ学問の分野の幅を広げたり、新しい視点を提供したり、貢献しているのだろう。

それがライトの影響力ということではないだろうか。

2015年10月4日日曜日

FB読書会 2015年9月近況

恒例の月例報告です。

9月は余り進展はありませんでした。



というのも10月は第4回N.T.ライト・セミナーがあるので、そちらの準備と案内・PRに大分エネルギーを持っていかれました。

8月で5章が終わったので、いつものように第6章『イスラエル』を幾つかに分解し、それぞれ「リーダー(reader/leader)」担当者を募集したのですが、それに手間取ってしまって開始が遅れました。

結局、最初のイントロ部分(102-5ページ)を小嶋が担当することになり、9月はそこまで、となりました。

イエスは好きだがキリスト教(教会)は嫌いだ、と言うような言い方がよくなされる。
制度的教会への嫌悪感は、制度と言うもの一般への不信感と共通する感情があるようだ。

それと同じではないが、イエスとイスラエルも内的・必然的関係がないように(現代西洋キリスト教では)見られている、と一種の哀歓を感じさせるような文章で6章は始まっている。
Why should we spend an entire chapter discussing the nation within which, as a matter of historical accident, Jesus of Nazareth just happened to be born?
「イスラエルの長い物語において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。」(102)

ということは現代西洋キリスト教では、イエスが語られるとき、旧約聖書歴史は殆ど捨象されている、ということか。(あるいは単なる背景)

しかし、逆にイスラエル民族史をイエスと繋げるとき、キリスト教史の暗黒部分がのしかかってくることになる。

特にホロコーストと言う現代史がとてつもなく重苦しいものとして・・・。

イスラエルの歴史を語る、と言うことでは旧約聖書の歴史的信憑性という問題もまたくっついてくる。

以上の問題があるにしても、イエスとイスラエルの関係を語るために、旧約聖書以外の史料、特にヨセフスの著作のようなイエス時代に近い歴史文書も用いて、イエス時代に語られていた「イスラエルの物語」を再構成することは可能である。

以上が「イントロ」的前置きです。

感想としては、たとえばこんな質問をしてみたいと思います。

「あなたの教会では『イエス』と呼び捨てみたいな呼び方は憚られますか。絶えずイエス様と尊称でないとだめですか。」

質問の狙い・・・『ナザレのイエス』や『イエス』は「歴史上の人物」として意識(潜在意識も含む)されているかどうかの目安の一つになるのではないかと思います。

逆に『イエス様』一辺倒は、多分に「歴史のイエス」が「子なる神・イエス」に覆われてしまっている感じです。
(これは英語の場合には当てはまりませんが)
反ユダヤ主義の問題については米国留学中も、日本においても、それほど深刻に考えたことはありません。

しかしホロコーストについては様々なものを通して間接的には「感じて」きました。
また個人的にインパクトがあったものとしては、エリー・ウィーゼルの『夜』。10時間ものドキュメンタリー『ショア』など。

ボンヘッファーの伝記を読んでもひしひしと「感じ」ました。

また勉学関係などで多くの知識人の生い立ちを知るとき、「あの人も、この人も」と言う感じで「ユダヤ人」背景に触れることになります。

ということでした。


ディスカッションとしては、「イエスの呼称」について幾つか投稿がありました。

「ナザレのイエス」という語を好んで使いますが、それでも、敬意が足らない、と同じ教会の人から怒られたり、御小言を賜った経験が何度もございます。

日本では、以前○○○○○○○○のN先生の講演に連れて行かれた時、「イエス、イエス」とおっしゃるので「へえっ〜」と思いました。

かつては完全に「イエスさま、神イエスさま」1色でした。僕のなかでイエスとキリスト教信仰が歴史と結び合わされたのはアブラハム・ヘシェルによる預言の解説によってでした。
イエス様とナザレのイエス、この間Gentle Healer 日本語にして歌った時に、混ぜました。はじめ、村人目線のナザレのイエスで、最後は弟子の目線混じってきてイエス様で。言葉数の関係もあって混ぜたのですが、大変興味深い結果になったかなぁ、と思ってます。

この他ライトについての勉強会の案内が投稿されましたので、ここにも掲載。


また、9月の入会者数は14名で、トータル181名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。