2015年12月3日木曜日

FB読書会 2015年11月近況

恒例の月例報告です。

11月はまあまあの進行振りでした。



さて10月月例報告では、6章の最後の部分がまだ残っていました。それを小嶋が担当しました。


第6章「イスラエル」
ヤハウェのしもべ/ナザレのイエスに(127-130) 

第6章最後の部分に当たるわけですが、「旧約聖書のストーリーが全体としてどこに向かっているのか」、ということを最後にまとめて(スレッドを束ねて、といってもいいか)「新約聖書のメッセージ=ナザレのイエス」に繋ぐ・・・という役割をしているように思います。
(最初に一箇所引用)

 イスラエルの神は王であり、バビロンの神々はそうではない、という政治的メッセージの中心で、捕囚と回復の物語が、ある人物に関する預言へと向けられて いるのが分かる。それはあたかもその先にある、神、イスラエル、世界のそれぞれの物語の流れが一つにまとまる在処(ありか)を示す、霧の中に立つ不思議な 道しるべのようのようである。(128)
ライトにとってイザヤ40―55は、ダニエル7章とともに「イエスに焦点を合わせて聖書全体のナラティブを読み解く」上で特別重要な箇所だと思うのです が、ここでは特に「苦難のしもべ」を中心に、イザヤ40―55の主要物語りスレッドをどう読み解くか、という攻め方(アプローチ)のあらすじを提供してい ると思います。
といったようなことを書きました。

そしてようやく第7章に入るわけでしたが、担当者が決まるのにてまどりゆっくりペースで進みました。

第7章「イエス」神の王国の到来 

イントロ(131-133)をMH氏が担当しました。 

氏の感想は
この部分は、キリスト教とその周辺(特に西ヨーロッパとアメリカ大陸)での”キリスト教”への誤解をきっぱり言い切っているように思いました。日本の教会 でこれを明白に言うと、”炎上”することは覚悟せねばなりませんが、案外、我々がキリスト教だと思っていることに対して、それはそれでいいのか?というこ とを、西ヨーロッパを背景としたN.T.ライト先輩がきちんと突き付けているという意味で、この部分はあっさり読み飛ばしそうになる部分ですが、非常に大 事な部分だと思います。
というものです。

イエスについてどこまで知ることができるのか(134-138)、はI氏が担当しました。
 結論的には、イエスは1世紀のユダヤ人でしたが、1世紀のどのようなユダヤ人であっ たか、という問いかけられています。その前に、1930年代のドイツの神学者たちのイエス像にも触れられています。反ユダヤ的とさえ形容できるほどユダヤ 人とかけ離れた人物としてイエスが描かれていたことに言及されています。日本のキリスト教界では余り知られていないことかもしれませんが、ルターの時代か ら、キリスト教からユダヤ的な要素を排除する傾向はありました。その延長線上で1930年代にナチスが台頭した当時、ドイツの神学者たちの間で反ユダヤ的 色彩は著しかったようです。学問というものが、必ずしも純粋な意味での真理探究ではなく、様々な世相や思惑に影響されることは良くあることです。そして、 神学も聖書学も、けっして例外ではありません。
と締めくくっています。


11月は読書会メンバーが関わっている学会の発表会や講演会等があり、その報告がありました。

1. 第18回 神戸改革派神学校・神戸ルーテル神学校 合同神学シンポジウム
 日時:2015年11月6日
 場所:神戸ルーテル神学校
 橋本昭夫教授(神戸ルーテル神学校)が「N.T.ライトの義認論」、で発表されました。

2. 日本福音主義神学会東部部会
 日時:2015年11月16日
 場所:お茶の水クリスチャンセンター
 安黒務氏が「義認と審判に関する一考察」で講演なされたようです。


その他、いよいよライトの『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版)がいよいよ12月10日に発売予定です。

クリスマスプレゼントに是非。

また、11月の入会者数は2名で、トータル190名となりました。

 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年11月15日日曜日

ライトのカナダ時代(マッギル大)

この記事は少しずつ書き溜めている《伝記》関連の断片的記事である。

一番最初にライトの伝記?で、カナダ、マッギル大時代のことを書いた。
ライトが「コロサイ・ピレモンの註解(ティンデル聖書註解シリーズ)」執筆中に
By the time I finished it in 1985 I had undergone probably the most significant change of my theological life.
と言及している、「回心的」出来事がある。

この体験前には「リアリティーは二つの領域に分裂したまま」で、「福音のリアリティーが一方にあり、他方に世界と政治のリアリティー」が別々に並存して体験されていた、というのである。

その「分裂したリアリティー」が一つのものになったのが、マッギル時代であり、特にコロサイ註解執筆を通してであった、というのである。


この伝記的文章はとても短く、どのような形でそうなったのかは殆ど説明されていない。

今のところ推測するしかないが、幾らか光を当てる材料がネットに提供されているので少しずつ紹介していこうと思う。


J・リチャード・ミドルトン(J Richard Middleton)は日本では殆ど無名だと思うが、ノースイースタン神学校の「聖書的世界観/釈義」担当教授である。

1976年ごろ、リチャードは「被造世界全体が神の贖いの対象であり、それが新約聖書が目指しているゴール」であることを、ライトとは独立して把握するようになった。

しかし、そのポイントは周り(生徒たち)からは「奇異な見解」の持ち主と見られていた。

しかし、「ほぼ同様の聖書理解」の持ち主であるライトの登場で、状況は変わった。

共通の友人であったブライアン・ウォルシュ通じてライトと親しくなっていった。


その経緯をリチャードが自身のブログで4回に分けて書いている。

トム・ライトとのつながり、その1

トム・ライトとのつながり、その2

トム・ライトとのつながり、その3

トム・ライトとのつながり、その4

このレポートの中で、リチャートが挙げる具体的なコネクションは、
 (1) (リチャードの友人・共著者)ブライアン・ウォルシュ、そして妻のシルビア・キースマートがともにライトの(博士課程の)学生であった。
 (2) 1988年と1989年のライトの講義(Institute for Christian Studies in Toronto)
 (3) ライトがリチャードとブライアンの共著、The Transforming Visionから「世界観の4設問」をNTPGとJVGに活用したこと。
 (4) (そして最も肝心な)ライトが二元論的世界観を脱却する媒介となった
ことなどである。

興味深いエピソードも含めて、詳細は4連記事を読んで頂くとよい。


ただ肝心の「ライトの二元論的世界観からの脱却」に関してリチャードの観察を少し引用しておこう。
As Brian tells it, he kept challenging the sacred/secular dualism with which Wright was reading Colossians. Wright kept separating salvation in Christ from life in the mundane realm (including the political realm). But according to Colossians 1:15-20, the same Christ through whom all things were created, and in whom all things hang together, is the one whom all things are reconciled. The creator and redeemer are one.
これによると、ライトとブライアンがコロサイ1章15-20節をどう理解するかで「意見の交換」したことが大きな要因となっている、というものである。

ライト側はどうだったのか聞きたいが、NTPG, JVG, PFGでも「そのこと」の詳細には触れていないようである。

2015年11月1日日曜日

FB読書会 2015年10月近況

恒例の月例報告です。

10月は「第4回N.T.ライト・セミナー」があったにもかかわらず、こちらFBの方かなり
進展しました。
※ライト・セミナーの報告はこちらをご覧ください。



さて9月の月例報告では、小嶋が担当した「イントロ」を紹介しました。


次の、第6章「イスラエル」―アブラハムの召し(105-108)、の部分も小嶋が続けて担当することになりました。

ということで、ここでほぼ一部抜粋します。
木工が趣味の私が、この部分を読んでいて心情的に繋がる部分と、それが故に測りがたく感じる部分、それは一生懸命製作している作品が取り返しのつかないような失敗をしたとき、その作品を見ながら茫然自失(少し大げさだが)している姿である。

[... ...] しかし、神はその場面(創世記12章から)で、アブラハムを選び彼と契約を結ぶ。そして世界の救出計画を始動させる。

ところが、今度はアブラハム/イスラエルが「難破した船を助ける救命ボートが座礁し、救出を必要とする」ような苦境に陥る。

「たどり着きたい大団円がいつまで経っても到来」せず、それでも「奴隷状態からの救出」「捕囚からの回復」の場面を繰り返しながら、「究極の救出=イエス」にたどり着くまで、それがイスラエルが受け持つ物語り章ではないか、とライトは示しているのだと思う。
とこんな感じでした。

次の部分は、「旧約聖書の中心テーマ」―捕囚と帰還(109-115)、となっていますが、こちらはYさんが担当でした。

この部分では「捕囚」ということで、ダニエル9章のことが取り上げられていますが、Yさんの解説を少し紹介します。
・・・ダニエルは、エレミヤ書からこの神の怒りの時代、バビロン捕囚の期間が70年で終わることを知り、今こそ民の罪を赦してくださいと祈ります。
 しかし、この祈りに対する神からの答えは意外なものでした。神の民の咎が贖われるのは、この70年目ではなく、7の70倍、つまり490年も先(これ を象徴的に解釈する人々にとっては「気の遠くなるほどの期間」ということになります)になる、というのです。この時にこそ、神の遣わされたメシアは神の民を虐げる獣の国を滅ぼし、神の国を打ち建てるのだ、という理解が一世紀のユダヤ人たちの間で広まっていましたので、でははたしてこの罪の赦されるという490年後とは何年なのか、という議論が当時のユダヤ人たちの間でたたかわされていました。
この「長引く捕囚」は「・・・ライトを理解する上でカギとなるものですが、それだけでなく、旧・新約聖書を一つのストーリーとして読むためにも非常に有益な視点であろうと思われます。」、とYさんは結んでいます。

次、今度はMHさんが、神の民を支える4つのテーマ(pp.115-126)、を担当しました。
この部分では、旧約聖書および新約聖書の聖書の物語の骨格、あるいは核となる概念である4つのテーマが出てきます。
核となる概念は、王、神殿、トーラー、新しい創造 の4つです。
ということですが、感想として、神殿について以下のようにおっしゃっています。
これは、第2回N.T.ライトセミナーで「神殿」ということで、鎌野先生がお書きの論文や講演DVD(残念ながら売り切れ)お話されたこと、まさにこれです。
教会も天と地が交わるところ、という理解が私の背景となったプロテスタントでは案外弱い様な気がします。しかし、今年、ロシア正教会の礼拝にお伺いし、この前、横浜のロシア正教会で○○司祭から教えを乞うたのですが、東方正教会では、儀式として、この天と地がつながったということの表現とその形での表現が 非常に強い様に思いました。まぁ、聖具が置いてあるところを至聖所と呼ぶなど、天であり神の在所を設け、それの扉が開かれることで、天と地がつながる、と いうことを表現しておられました。
以上簡単に紹介いたしました。

その他ライトの新刊や、動画についての紹介もありました。

その中で日本語で読めるものとして月刊雑誌『舟の右側』10月号に、当読書会のメンバーでもある○○さんのインタヴューがあり、その中でライトのことに言及されているよ、と紹介がありました。

 
 
また、10月の入会者数は7名で、トータル188名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。 

2015年10月29日木曜日

「継続する捕囚」補記2

また一つ材料が見つかったので紹介します。

Stephen Kuhrt, Tom Wright for Everyone: Putting the Theology of N. T. Wright into Practice in the Local Church (SPCK、2011)


1章が、The career of Tom Wright: emergence, scholarship and non-engagement、となっていて目下ライトの伝記的なものが殆どない中では参考となるまとめになっています。

(当ブログでの「伝記」関係記事はカテゴリーを見ていただくと二つあります。) 

1章で、カート氏は1970年代、1980年代、福音派のアカデミックなサークルではある程度名が知れていたが、広範には殆ど無名であったライトが次第に注目すべき聖書学者・神学者として台頭してくる様子をまとめています。
1990年代初期から中期にかけて、ライトが次第に英国国教会の重要ポストを歴任し始め、『キリスト教起源』シリーズを刊行し始めると、状況は一気に変わった。

特に『イエスと神の勝利』(シリーズ第2巻)によって、そしてその後の『イエスのチャレンジ』等で、「史的イエス」研究で非常に斬新な視点が突然出現した。

Initially what made the lagest impact here was Wright's claim that first-century Israel understood herself to be still in a state of exile, and his presentation of Jesus as an eschatological prophet proclaiming the end of this exile. At this stage Wright was seen within the Christian world primarily as an academic with a gift for communication, and the emergence of his thought was initially regarded with favour by most evangelical Christians. While his views on 'Israel's continuing exile' and his rather different interpretation of Jesus' parables did cause some 'eyebrows to be raised', most evangelicals were very happy to see the confident challenge he was making to the scepticism of other writers on Jesus.... Those within the more academic world, whose suppositions Wright was also challenging, on the other hand, were inclined to see him as a rather eccentric churchman whose 'interesting ideas' needed taking with a rather large 'pinch of salt'.
と叙述しています。

2015年10月26日月曜日

「継続する捕囚」補記

先日の「ライト・セミナー」のDVDが発売となりました。

(近日中にウェブでも紹介しますが、お急ぎの方はあめんどう社へ直行ください。)

その伊藤講演の背景となる重要モチーフ「継続する捕囚」についてまだまだ「理解が難しい」ことが何人かの方からの感想で聞き及んでいます。

しっかりとした解説をするのは無理ですが、小出しで申し訳ありませんが、また一つ「理解のための材料」を紹介します。

英語の動画ですが。



デンバー神学校の新約学教授のクレイグ・ブロンバーグの講演です。

ヴェリタス・フォーラムという、大学キャンパスでの「キリスト教の弁明」活動的なことをやるプログラムでのものです。

聴衆はノン・クリスチャンを念頭にしてますから、「史的イエス」入門としても聞きやすい、ざっくりとしたものです。

特に「現代の史的イエス研究」のリーダーの一人としてN.T.ライトの研究を紹介しているのですが、まさに「継続する捕囚」を終わらせるイエスの神の国宣教、として解説しています。(動画では大体37分過ぎ頃)

The problem is the problem of exile, of not living in freedom. Many Jews were literally in exile even though they were living in their homeland, they were not living in freedom.
Jesus came announcing that the exile was over, without one Roman soldier having been removed from his post.
The exile is over、捕囚は終わった。

神の国は到来した。(慰めの時、回復の時)



と言ったあたりを、短くですが解説しています。


ところで「10月月例報告」の方に書きますが、continuing exileを他のメンバーの方が「長引く捕囚」と訳していましたね。まさにそんな感じです。

2015年10月22日木曜日

「継続する捕囚」

先日もたれた第4回N.T.ライト・セミナーの第Ⅱ部で、伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)氏が「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」と題して発表した。


セミナー案内記事で少し解説した文を先ず以下に再掲する。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。
特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

と書いておいたが、標題の「継続する捕囚」とは、
このガラテヤ3章を解釈する枠組みとして「契約」、特に申命記に書かれている契約に伴う「呪い」の結果である「捕囚」が、第二神殿期ユダヤ人の世界観の中で「依然として終わっていない、継続していた」、という歴史的理解の前提をさす用語
である。

「継続する捕囚」については、小嶋がセミナー当日の資料のイントロに「簡単な解説」を付したが、ここで少し引用してみよう。


 「一世紀、イ エスやパウロ時代のユダヤ人は地理的には捕囚から帰還し、約束の地に戻り、神殿も再建していた。にも拘らず、政治的独立を奪われている情況では預言者たちが約束した『捕囚からの帰還』は成就していない。依然として捕囚は続いている」という当時のユダヤ人の歴史認識、世界観の一部を指します。今回伊藤氏が翻訳した部分の直前、パウロの「呪いと契約」枠組みの歴史的「前置き」としてライトがプロポーズしているものです。
 ライトは、パウロはガラテヤ3 章を「契約」(・・・)の枠組みで議論していること踏まえ、メシアがイスラエルを代表して呪いを受けることによって捕囚が終わり、アブラハムの祝福をブロックしていた律法の呪いが終了し、異邦人への祝福(その結果である聖霊 の賜物)がメシア(アブラハムの『末(seed)』)を通して到達した、という見通しを示します。 

『契約のクライマックス』(1991年)は「パウロ研究」の本だが、「継続する捕囚」は「史的イエス」研究でも、そしてライトの《新約聖書神学アプローチ》全体でも、重要なモチーフの一つであり、「第二神殿期ユダヤ教」の世界観を構築する上での大切なビルディング・ブロックとなっている、と言って差し支えないだろう。


『クリスチャンであるとは』の叙述では「継続する捕囚」という表現は出てこないが、「イスラエルの物語」を織りなす「繰り返される」スレッドとして「捕囚と回復」のパターンが指摘されています。(126ページ)

以下、「継続する捕囚」が解説・議論されている代表的なものを挙げておきます。

1. NTPG, 268-272.

2. Continuing Exile: Paul and the Deuteronomy/Daniel Tradition (2010年11月、Trinity Western Universityでの講演)

3. Justification: God's Plan and Paul's Vision, 41-45. (上記講演の簡易版)

4. JVGでは「捕囚からの帰還(Return from exile)」で、沢山の箇所で議論されている。



5. Carey C. Newman編の、Jesus the Restoration of Israel: A Critical Assessment of N. T. Wright's Jesus the Victory of Godでは、特にCraig Evansが扱っている。

6. 新約聖書ブロガーのMike Birdが,自身の Euangelionブログで扱っている。これ、とこれ

最近では、
7. アンドリュー・ウィルソンが今年の英国新約聖書学会(BNTC)で、「捕囚の終わり」のテーマでフィリップ・アレキサンダーとライトの発表ノートを記事にしている。

興味深いところではユダヤ人学者で死海写本研究で名高いローレンス・H・シフマンが、
"Exile and Return in the Dead Sea Scrolls"(「死海写本での捕囚と帰還」)
を自身のブログで記事にしているが、基本的に「継続する捕囚」の見方を支持している。

Perhaps one of the most interesting aspects of our study will be the observation that from the point of view of the Qumran sectarians, and indeed in some other Second Temple sources as well, the return that took place during the Persian period and the creation of a Jewish commonwealth at that time, and even the rebuilding of the Temple, were not considered to be the fulfillment of biblical prophecies of return. Indeed, we will see that our authors write as if the exile continues in their own time, despite the fact that they are living in the land of Israel.

以上関心のある方へ、ご参考までに。

2015年10月13日火曜日

N.T.ライトFacebook読書会 ver.3.1

2012年3月に始まった、フェイスブック上のN.T.ライト読書会。
 

※それより5年前に、リアル(f2f・・・フェイス・トゥー・フェイス)の方の読書会はスタートしました。

年々ライト読書会は大きくなり、今ではFBライト読書会の方は180名を越すほどの「非公開グループ」になりました。

今年は特に『クリスチャンであるとは』の出版以降、入会者が増えています。

 
それで以前アップしたフェイスブック読書会の説明を更新する必要が出てきたようです。

既に2冊のライトの著作を読了しました。
 1. How God Became King
 2.  Surprised By Hope
現在
 3. クリスチャンであるとは(邦訳が出る前はSimply Christian)
を読んでいます。

2015年10月に入った時点で、第6章「イスラエル」のところを読みすすめています。

 (進行具合はライト読書会ブログで月例報告をアップしていますので、ご参考までに。)


「N.T.ライトFacebook読書会」
に入会希望する方へのお願い

さて、ここからが「今後新たに入会を希望」する方々へのお願いです。

以下の事項をご理解の上、「入会申請」へお進みください。
 1. 読書会ですので、対象となる本(現在は『クリスチャンであるとは』)を購入しているか、購入予定あるいは希望している方が対象となります。(ディスカッションを読むだけの方はご遠慮ください。)
 2.  (任意ですが)入会時か、入会後適当な時に「自己紹介」をお願いします。
 ※「管理人」が「入会申請」を受け付ける際、ごく簡単に以下の二つのことについて質問しますのでご回答いただきます。
  (a)入会希望のきっかけ、特にN.T.ライトに関わること。
  (b)信仰・教会・宗教的背景
 以上、ご理解いただけましたら、N.T.ライト読書会のページで「参加」ボタンを押し、「管理人」からのコンタクトをお待ちください。

 よろしくお願いします。

 ご質問・問合せは、(管理人)小嶋崇、t.t.koji*gmail.com(*を@に変換してください)まで、お気軽にどうぞ。
 

2015年10月12日月曜日

ライトのパウロ研究をめぐる論集

N.T.ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズは、現在、
Paul and the Faithfulness of God(以下PFG)
で予定6巻中の第4巻を刊行した。

そのつど論集が組まれプロもコンも含めた学者たちが、ライトの野心的な新約聖書神学研究を分析評価している。

このブログでもPFGへの書評はそのつど目に付いたものは紹介してきた。

1. ダグ・ムー (ホィートン大)
2. ベン・ウィザリントン (アズベリー神学校)
3. ラリー・フルタドフルタド2フルタド3 (エディバラ大)
4. アレクサンドラ・ブラウン (ワシントン・リー大)

ここでやめてしまったが、実はPFGに対する最も厳しい書評がセントアンドリュース大の同僚ダーラム大のジョン・バークレーから出された。 (ついでといっては悪いが、クリス・ティリングの書評も好評。)
5. ジョン・バークレー
6. クリス・ティリングティリング2

さてここまでは前段。

ライトのPFGに対する本格的な論文集が、マイク・バードら若手の学者たちによって企画されている。論文を寄せるのは英語圏のみならず、ドイツ語圏の学者たちも含まれる、より国際的な視野によるものだ。

(※中に一本韓国の学者によるものも含む。)

God and the Faithfulness of Paul

※PFGではなく、GFPですから、お間違いなく。
紹介文に
N. T. Wright’s Paul and the Faithfulness of God is the culmination of his long, influential, and often controversial career – a landmark study of the history and thought of the Apostle Paul, which attempts to make fresh suggestions in a variety of sub-fields of New Testament studies
とあるが、「引き締まった議論」という点で1700ページのPFGは大分批判を受けているが、多様な背景を一箇所に集めて「厚い描写(thick description)」を施すという人類学的手法に近い観点から言うと、新約聖書学の諸分野への波及が評価される点になるのかもしれない。

マイク・バードとともに編者のひとりとなっている、クリストフ・ハイリッヒはセント・アンドリュース大でも少し学んでいるが、今回の論集にドイツ語圏の学者たちも引き入れいれる役割を果たしているのかもしれない。

とにかく、このようなかたちで取り上げられるライトはいろいろな批判があっても、それだけ学問の分野の幅を広げたり、新しい視点を提供したり、貢献しているのだろう。

それがライトの影響力ということではないだろうか。

2015年10月4日日曜日

FB読書会 2015年9月近況

恒例の月例報告です。

9月は余り進展はありませんでした。



というのも10月は第4回N.T.ライト・セミナーがあるので、そちらの準備と案内・PRに大分エネルギーを持っていかれました。

8月で5章が終わったので、いつものように第6章『イスラエル』を幾つかに分解し、それぞれ「リーダー(reader/leader)」担当者を募集したのですが、それに手間取ってしまって開始が遅れました。

結局、最初のイントロ部分(102-5ページ)を小嶋が担当することになり、9月はそこまで、となりました。

イエスは好きだがキリスト教(教会)は嫌いだ、と言うような言い方がよくなされる。
制度的教会への嫌悪感は、制度と言うもの一般への不信感と共通する感情があるようだ。

それと同じではないが、イエスとイスラエルも内的・必然的関係がないように(現代西洋キリスト教では)見られている、と一種の哀歓を感じさせるような文章で6章は始まっている。
Why should we spend an entire chapter discussing the nation within which, as a matter of historical accident, Jesus of Nazareth just happened to be born?
「イスラエルの長い物語において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。」(102)

ということは現代西洋キリスト教では、イエスが語られるとき、旧約聖書歴史は殆ど捨象されている、ということか。(あるいは単なる背景)

しかし、逆にイスラエル民族史をイエスと繋げるとき、キリスト教史の暗黒部分がのしかかってくることになる。

特にホロコーストと言う現代史がとてつもなく重苦しいものとして・・・。

イスラエルの歴史を語る、と言うことでは旧約聖書の歴史的信憑性という問題もまたくっついてくる。

以上の問題があるにしても、イエスとイスラエルの関係を語るために、旧約聖書以外の史料、特にヨセフスの著作のようなイエス時代に近い歴史文書も用いて、イエス時代に語られていた「イスラエルの物語」を再構成することは可能である。

以上が「イントロ」的前置きです。

感想としては、たとえばこんな質問をしてみたいと思います。

「あなたの教会では『イエス』と呼び捨てみたいな呼び方は憚られますか。絶えずイエス様と尊称でないとだめですか。」

質問の狙い・・・『ナザレのイエス』や『イエス』は「歴史上の人物」として意識(潜在意識も含む)されているかどうかの目安の一つになるのではないかと思います。

逆に『イエス様』一辺倒は、多分に「歴史のイエス」が「子なる神・イエス」に覆われてしまっている感じです。
(これは英語の場合には当てはまりませんが)
反ユダヤ主義の問題については米国留学中も、日本においても、それほど深刻に考えたことはありません。

しかしホロコーストについては様々なものを通して間接的には「感じて」きました。
また個人的にインパクトがあったものとしては、エリー・ウィーゼルの『夜』。10時間ものドキュメンタリー『ショア』など。

ボンヘッファーの伝記を読んでもひしひしと「感じ」ました。

また勉学関係などで多くの知識人の生い立ちを知るとき、「あの人も、この人も」と言う感じで「ユダヤ人」背景に触れることになります。

ということでした。


ディスカッションとしては、「イエスの呼称」について幾つか投稿がありました。

「ナザレのイエス」という語を好んで使いますが、それでも、敬意が足らない、と同じ教会の人から怒られたり、御小言を賜った経験が何度もございます。

日本では、以前○○○○○○○○のN先生の講演に連れて行かれた時、「イエス、イエス」とおっしゃるので「へえっ〜」と思いました。

かつては完全に「イエスさま、神イエスさま」1色でした。僕のなかでイエスとキリスト教信仰が歴史と結び合わされたのはアブラハム・ヘシェルによる預言の解説によってでした。
イエス様とナザレのイエス、この間Gentle Healer 日本語にして歌った時に、混ぜました。はじめ、村人目線のナザレのイエスで、最後は弟子の目線混じってきてイエス様で。言葉数の関係もあって混ぜたのですが、大変興味深い結果になったかなぁ、と思ってます。

この他ライトについての勉強会の案内が投稿されましたので、ここにも掲載。


また、9月の入会者数は14名で、トータル181名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年9月3日木曜日

第4回 N.T.ライト・セミナー

9月を迎えました。

第4回 N.T.ライト・セミナーまで1ヶ月となりました。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)


簡単にご紹介します。

Ⅰ. 開会講演

スピーカー:上沼昌雄(『クリスチャンであるとは』訳者)

テーマ:「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」

趣旨:
「聖書を読む時、私たちはこれまで『16世紀が設定した問題に、19世紀が回答する』枠組みを用いてきた。しかし今や『1世紀が設定した問題に、21世紀が回答する』枠組みに取り替えるべきときである」
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf

という決まり文句を使って、ライトは「現在の混迷する(西洋)キリスト教の所在と、そこからの脱出のヒント」を示唆する。

ライトの著作に流れるこのような(歴史認識のずれた神学論争に対する)問題意識を無視してライトを読むと大変な読み違いをすることになるだろう。

いかに「1世紀の視点で、そして21世紀の問題意識をもって聖書を読む」か。その作業の重大さと難しさを覚える。

その困難さを『クリスチャンであるとは』から紹介しながら、ライトという人の歴史観とはいかなるものか考えてみたいと願っている。 


Ⅱ. 研究発表

スピーカー:伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)

テーマ:「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」

趣旨:
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。

特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

参加費千円を当日受付にて係りの者にお支払いください。

チラシも間もなくできることと思いますが、しばらくお待ちください。



問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


セミナー実行委員一同

2015年8月30日日曜日

FB読書会 2015年8月近況

恒例の月例報告です。

先ずは本書の方から。


進展具合から言うと、第5章が(担当者発表分までは)終わりました。

 
今回が2回目の担当となるのか、Yさんが担当したのは、
第五章『神』、81-85ページ。

Yさんは特に「・・・神を片隅に追い込み、押さえ込んで・・・」(84)のところに注目しました。「押さえ込み」が原文ではpinned downとなっていることに関して、
あたかも生きている蝶を捕まえて殺して標本にして「ピンでとめて」コレクションに加えて鑑賞する、そんなイメージが湧きました。人間の知的営みの犠牲となる「神」のイメージです。
 クリスチャンもそれぞれ神についてのイメージを持っていて、「神なんてもうわかってるよ」と思いがちだと思います。しかしその態度それ自体がまさに神を「ピンでとめる」ことであり、神の自己開示を拒絶する、これがイエスの受難そのもの。
と感想を述べておられました。

その後この「ピン・ダウン」についてのディスカッションがかなり続きました。



次に、レギュラーのMHさんが、続く86-92ページを担当されました。 



ここはこの本にも多用されている「天と地がどのように関わる(関わらない)か」についての「神論」的に見た場合の3類型(汎神論、理神論、ユダヤ・キリスト教神観)が導入されている箇所です。

その前置きの部分、「天」と「地」がどのように交差するか(しないか)について以下のようにコメントくださっています。

 聖書では、私たちの世界を地と呼ぶ。天は空を示す事もあるが、通常は私たちの現実に対する神の現実の次元を示すことが多い。
 この「次元」(原著 Dimension)というのは案外大事だと思います。つまり、3次元が2次元や1次元を包括するように、神の次元、天の次元は、 人間の現実次元を包括するということを言いたいのかなぁ、と思います。単に別世界という意味での次元間の交差がほとんどない異次元ではなく、きっちり地の 世界を内包するものとして、天の次元をとらえている様な気がします。
ここは概念的にもなかなか理解が込み入りやすいところだと思いますが、先ずは「なるべくやさしく解説している」部分だと思います。


第5章の残り(92-101ページ)は、小嶋が担当しました。

(ですので半分だけここにも掲載します。)

その①
「天と地は重なり合い(overlapping)、かみ合っている(interlocking)」

『天と地が重なり合い、そうすることで神は天を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさ にここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(・・・選択肢1と2・・・)で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾して さえ見えるだろう。しかし、正しい枠に戻して見るなら、まさに意味が通じるようになる。』(95)
一つ具体例からこの議論にアプローチしてみます。

カウンセリング対象の方でこう言う方がいました。まるっきり宗教音痴なのです。親が宗教に関心がなく、およそ信仰とか宗教とか無縁で育ちました。精神的な悩みで世俗のカウンセリングを受けていたのですが、宗教的な信仰を勧めらきした。

「祈り」をしたい、どうしたらいいか・・・と言うことでアドバイスしたのですが、先ず「神に向かって祈る」といってもその感覚が分かりません。その存在も 意識できないものに向かって祈るということが不可解なためです。まるで壁に向かってごにょごにょやるようなことが何の役に立つのか・・・。

しかしそれでもトライしようということで「何を祈るか」となった時、思いつくのは「祈ればすぐ目に見えてその効果が分かるような祈り」なのです。まるでマジックでもするみたいな・・・。

この人にとって「壁に向かって祈るような・・・」は、《選択肢2、理神論》のようなものです。余りにも自分の場である地と神の場である天とが全く接触点がないので祈りという行為にリアリティーを見出せないのです。

次に、もしトライするとするとその祈りはまるで「マジックのようなもの」になるとは、《選択肢1、汎神論》に近くなります。殆どスイッチポンの自動機械の ような感覚です。祈る、というよりただ「開けゴマ」を口にするようなもので、(人格的な)神というより日常的リアリティーにある様々な因果関係の仕組みを また一つ覚えるようなものです。

二つの選択肢(汎神論と理神論)をこのような具体例で考えてみても何となく分かると思いますが、結局一種の合理主義的なリダクショニズム(単純化)になっ てしまうのです。それに対して旧約聖書が示す「神と世界の関わり」は(天と地の重なり合い)はかなり複雑で多様であり、簡単な形式ができません。

それが「もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえ見えるだろう。」ということになるのだと思います。

四つの声の響きが「真正なもの」であるとは、キリスト教的世界観からいえば、神が造られた世界と人間は、複雑で多様な「神と人とのあり方」を抱合する関係 なのだ、ということでしょう。それはやはり神と人との「人格的な交わり」を暗示する複雑さであり、多様性であり、旧約聖書の「セオファニー(神が世界に、 人に顕れる)」はその様々な例証である、ということに繋がるのだと思います。


前回の報告でも『クリスチャンであるとは』の書評を一つ紹介しましたが、今回も一つ。
木原活信ブログ
おすすめです。
 

この他目立ったものでは、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」 関連の記事(と言うより警戒注意を含んだ感想のような・・・この読書会の方ではありません)が紹介されました。

それで少し「パウロ研究」、特にNPP(ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ)についての現況を討論しました。


また、8月の入会者数は6名で、トータル167名となりました。
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年8月2日日曜日

FB読書会 2015年7月近況

恒例の月例報告です。

先ずは本書の進展について。

まだ入会新しいMさんが担当したのは、

第四章『この地の美しさのために』、59-68ページ

Mさんのアプローチは、
第一部「ある声の響き」は、伝統的神学の用語でいえば、自然啓示の部です。自然啓示とは、神は外的自然・内的自然(理性)をとおして、私たちに語ってくださるという教理です。
というもので、キリスト教神学に慣れた方々が読むとそういう印象を強くもたれると思います。

こちらでも
『クリスチャンであるとは』は「神の存在証明」の現代(ポストモダン)版、ではないか。
との見立てをいわれた方がおりました。

一見「オーソドックスな啓示論に基づいた弁証論(キリスト教的な視点から『神はいる、そしてご自身を自然等を通して啓示している』と証明する議論)」に見えますが、そして確かに内容的にはかなり重なる部分もありますが)、アプローチとしてはポストモダンの懐疑主義やニヒリズムを意識した(彼らの内懐に入ろうとする)議論ではないかと思うのですが・・・。

その点を意識していただくと、もちょっと面白く読めるのではないかと思います。


次に、MHさんが、4章の残り『美と神と・・・』以降、68-77ページを担当されました。 
最高傑作の実態は作曲家の頭の中に在って、現時点で人間の側で演奏する準備がない、という表現で、本書冒頭に在った在る作品の部分譜が見つかった話と結び付けていて、我々の世界の不完全さを示しています。
と、その後イザヤ11章の箇所(創造された良き世界が回復されたイメージ) と続くわけですが、プラトン的な「イデアの世界」方向に完全を求めるか(結果は物質世界の軽視否定)、それとも現状不完全ながらも(将来に回復を希望する)世界肯定にとどまるか、選択が分かれます。

複雑な世界に、複雑な人生に』、71-77ページ、についてMHさんは
 「複雑さと単純さ(our complexity and our simplicity)を、次の5つの事をし続ける事で誇りに思い、そして楽しみ、祝う。即ち、私たちは物語を語る。儀式を執り行う、美を作り出す。コ ミュニティで働く、信仰を表明し、考える。」p.74は個人的にあぁ、N.T.ライト先輩はやっぱりアングリカンコミュニオンの人だなぁ、と思ったのです。
この辺りの複雑さを喜ぶということは、単純さ、分かりやすさを主眼に据えたアメリカ的なキリスト教のかなりの部分と違うなぁ、と思ったのです。特に、 「儀式を執り行う、美を作り出す。コミュニティで働く」という部分は、割とプロテスタントでは弱い部分なので、そこらをどう考えるのか、というのは個人的な問いです。
という感想をもたれました。

この「生活の細部」まで意味と意義に満ちた人生が、すなわち神の造られた世界に対する「イエス(肯定)」ではないかと、思われるのですね。


本書の方の進展は7月中はここまででした。
8月に入って早速第5章に進みましたが、それは次回ご報告します。


その他のことで言うと、当ブログで案内や報告したとおり、7月は『クリスチャンであるとは』の訳者上沼氏が来日して各地でセミナーや勉強会、キリスト教書店での講演会が催され、賑やかな月でした。


また、『クリスチャンであるとは』書評として、長田さんのブログ記事を紹介しました。

章ごとに要約されていて、ところどころご自分の「気づき」や「疑問」を挿入されています。
 
注意深く本書の視点と内容を掴まえていると思いますし、「ニュアンス」について今後の理解の課題とされている箇所も重要なポイントが挙げられています。

おすすめです。

また7月の入会者数は8名で、トータル161名となりました。 


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年7月30日木曜日

(リアル)読書会報告 2015年7月

予定外の「雑談会」風な読書会でした。

『クリスチャンであるとは』出版祝!
訳者を囲んで雑談会!

 (日時) 7月23日(木)、15-17時(14時30分開場)
 (場所) 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)


ライトの『クリスチャンであるとは』の訳者である上沼昌雄氏が7月に来日し、大阪、名古屋、山形、東京、を回られて各地でライト関連のセミナーや学び会をしています。

まあそれに便乗して小嶋が主宰する「ライト読書会」でも一つ。
ということで、週日の午後。
普通に仕事を持っている人には出にくい設定ではありましたが・・・。



出席者はご覧の6名でした。

最初に各自の聞きたいこと、討論したいこと等をリストアップして始めました。
(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。
(I) 『あとがき』のコメント(338ページ「訳者はここ10年ほど・・・」以下の部分)をもう少し解説して欲しい。
(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したこだわりを解説して欲しい。
(U) (N氏へ)「ライトを越える」とはどういう意味か教えて欲しい。
(N) ライトの英国教会内での影響力がどのようになっているか、特にダラム主教からセント・アンドリュース大に転進した辺りの経緯を知りたい。
(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。
といったところです。

以下要約とまで行きませんが、興味深かった点などピックアップして紹介します。 

(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。

(脈絡はあいまいだが)第4章最後の部分「複雑な世界に、複雑な人生に」は、第1部全体の要約となっていて、第2部への橋渡し部分であるといった指摘がなされた後、訳者が指摘し、編集のO氏がこだわった箇所として以下のくだりが紹介された。
この世界、すなわち音楽と性、笑いと涙、山岳と数学、鷲とわらじ虫、彫刻と交響曲、雪の結晶と残照などのある世界・・・(73ページ)
この部分は韻を踏んでいて、読んで楽しい。 

(I) 『あとがき』のコメントをもう少し解説して欲しい。


 自分の神学の行き詰まりを覚えていたときに、ギリシャのロゴス(論理)中心的性格に貫かれたキリスト教思想の歴史に思いをいたすようになり、かえって旧約の物語りが描き出す全人的世界に開眼するようになった。

 ライトの(新約聖書の)読みは、旧約聖書を深く読むことで成り立っている。そこに魅力を感じた。

(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したわけ。

 ライトを読み始める前にレヴィナスを読んでいた。
 2千年たったキリスト教がギリシャ思想に深く浸透されていることを思った。

 ギリシャ思想は自己中心。「巡礼」のように絶えず元の場所に帰ってくる。しかしユダヤ思想はアブラハムの旅のように故郷には戻らない旅だ。

 そのことを意識して「巡礼」とは訳さず「旅」とした。

(U) (N氏へ)「ライトを越える(※)とはどういう意味か。

(※)「ライトを越える」とはN氏が講師のセミナーでのタイトルに使ったフレーズ


 『クリスチャンであるとは』は「神の存在証明」の現代(ポストモダン)版、ではないか。

 ポストモダン状況のヨーロッパで、「キリスト教」が生き延びられるか、深刻な疑問の中にある。
 誰かが正面切ってキリスト教の真理性・絶対性を弁証しなければならないが、知性と教養に溢れたライトがそれをやった。(しかし、それ以上でもそれ以下でもない。)

 U師は「ファンダメンタリスト」の枠組みで神学をやっていて行き詰まったのではないか。最初からライトのように広い世界でやっていれば良かったのではないか。やっとライトに来てくれたか、という感慨がある。

(中略)
 ライトは学者で歴史家で、神学者である。幾つかのスタイルを自由に組み合わせることができる。

 しかし日本でそのような必要があるだろうか。
 日本の平均的牧師たちができることは、ただ聖書を物語ることで、解説したり議論したりする必要は余りないのではないか・・・。

 ライトは取っ掛かりで、聖書66巻を展開すればそれでいいのではないか。

 (U師のレスポンス) 訳者の「神学遍歴」に関し、今回の各地での勉強会の場で、あるとき指摘されたのが「(聖書)無誤論」との関わりだった。

 ライトの受容はその人の「神学スタイル」で(それに合うか合わないかで)判断する傾向がある。

(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。

 やはり翻訳が続いて行われ、自然とディスカッションが盛んになれば、反対者たちも認めるようになるだろう。(原理的に)認めない人たちはどこまで行っても認めないだろうから回心させようとなどしないほうが良い。

 自然神学のアプローチとしては、科学が教えることはそのまま受け容れてよいだろう。無理に「信仰対科学」などと対決させる必要はない。

 無誤性の問題で言うと、(私たちの教会グループでは)依然として「文言」は踏襲しているが、もはや規範的には機能していない。だから議論が縛られていない。(もちろんそうではない立場のグループもあるにはあるが。)

 無誤性に関連してだが、ライトは「創造・新創造」つまり創世記と黙示録を「文字通り」に受け取っている。つまりこの中にすべての一般史の出来事も含めたリアリティーを受け止めている。

 救済史と一般史、という風に分けていない。この受け止め方を吸収するのはなかなか大変だが・・・。

 この「物語性(創造→堕落→イスラエル→イエス→教会→終末)」についてはほぼコンセンサスがあるのではないか。この物語のフレームの中で提示されたものを(ライトを踏襲するにしてもしなくても)そのまま出せばよいのではないか。


・・・とこの後、日本の福音主義神学における隠れた1ページの述懐が始まった。

 この記事を書いている小嶋としては、ここが最も関心深いところであり、詳しく紹介したいところなのだが、簡単な説明と資料の紹介に留めておく。

実は『クリスチャンであるとは』が出てブログの書評に訳者とかつての「無誤性」論争における役割についての言及があったので、「今となっては・・・」といったような「振り返り」が聞けるかと思っていた。
それで、今度はもう一方の当事者であったN氏に次のように振ってみた。
「ところで(N氏は)神学遍歴の中で行き詰まりとか躓きとかありませんでしたか?」
「(N氏)それはもうU氏と私はみなさんご存知だと思うけど、30年前の・・・ある人が言うんだけど、私の神学はU氏と(もう一人の)U氏への「恨みを晴らすものとして」やっていませんかといわれるけど、別にそんなことはないんだけど、30年前無誤性のことで議論したとき、完璧に挫折ですよね。そう言う意味では(私は)一度葬られているんですよ。・・・」
と言うことであった。

この後、「現在においても日本の福音派における神学論争にはしばしば陰湿さ、不透明さ、煮え切らなさがつきまとうこと」、について話された。

それで今回ライトのおかげでめぐって来た、かつては「無誤論」で敵味方に分かれてやりあった二人の歴史的再会について、少しハイライトして書く気になったのである。
ちなみにN氏は30年前の「無誤論」論争の経緯についてご自分のウェブサイトで文章化されているので、紹介しておく。

聖書の無誤性の論争をめぐって (pdf)
 

2015年7月15日水曜日

NTW伝記的断片 2014/10/14

かなり時が経ってしまいましたが、ライト教授(英語だとプロフ・ライトですね。最近いろいろ呼び名を試していますが今回はこれで。)を伝記的に綴ったり、ライト教授の横顔が知れる文章に触れるとメモしています。

以下のリンクにある文章はエルスペス・バーネットさんの「信仰と神学的研鑽」についての回顧になっています。

現在は表示されていないようですが、小嶋がメモした時点(記事がアップされた数日後以内)にあった読者のコメントの一つに「ケンブリッジ時代のライト教授」が登場します。

そう言うわけで、現在表示されていないものを引用するのは技術的に多少問題あるかと思いますが、(架空ではないであろう)一つのエピソードとして読んでいただければ、と思います。

Will Studying Theology Undermine My Faith?


Because God is gracious, I BECAME evangelical by studying Theology at Cambridge 1978-81! Tutors included "Honest to God" JAT Robinson & "Taking Leave of God" Don Cupitt. In my first year, I did a paper on the history of biblical criticism as it related to the life of Jesus. This taught me the simple truth that the results you get at the end tend to depend on the presuppositions you put in at the beginning, e.g. assume that the miraculous doesn't happen, discount or explain away all texts in which miracles happen, then conclude that, surprise, surprise, miracles don't happen!

The radically critical mindset that Elspeth describes certainly did cause damage and I'm still on the journey of dealing with it. However, I also had the privilege of having Tom Wright as New Testament tutor for 2 years: it was so helpful to be taught by someone much cleverer than I am who had a high view of Scripture and who continues to demonstrate that you don't need to leave your brains outside when you're an evangelical. In fact, most of the liberal views I struggled with as a student, he has subsequently demolished by better arguments.

I studied later at All Nations Christian College, where we were given tools for working in a cross-cultural situation, exactly what one needs for handling Scripture accurately and not something that seemed to be a priority for many in the Divinity Faculty at Cambridge. There, I perhaps harshly concluded, people were out to show how clever they were, rather than concerned to submit their undoubtedly gifted minds to God's revelation in its original context. Clearly this is a broad generalisation, but contains at least a grain of truth.

One final comment: we are so fortunate now to have a depth and breadth of evangelical scholarship that simply was not available when I was a student. We can be extremely grateful to our gracious God for it!

2015年7月11日土曜日

PFGへのロードマップ

2013年に出版された、ライトのPaul and the Faithfulness of God、はその余りのボリューム(約1700ページ)ゆえ、二分冊となった。

既に何本かブログ等に発表された書評を紹介した。

専門の学者たちも書評を書くために結構きつい読書をしたと思うが、我ら常人ではなかなか読み通すのが大変。

そこでロードマップを提供します、ということになった。

Derek Vreeland
さんは牧師さんのようだが、このたび

Through the Eyes of N.T. Wright: A Reader’s Guide to Paul and the Faithfulness of God (Doctrina Press 2015)

『N.T.ライトの眼:読者のためのPFGガイド』

という本を出しました。

100ページほどらしいですが、中身はブログで発表した記事をまとめたもののようです。

今回紹介するのは、このブログ記事の方です。

これを読んで本を購入するかどうかを決めてもいいのではないかと思って。

N.T. Wright and the Faithfulness of Paul: 
Part 1: Charting the Course 
Part 2: Birds in Paul's Head
Part 3: Paul's Worldview
Part 4: Monotheism Redifined in Light of Jesus and the Spirit
Part 5: Election, Righteousness, and Faithfulness
Part 6: Election, the Spirit, and Justification
Part 7: Eschatology and Ethics
Part 8: Eschatology and Romans 9-11
Part 9: Paul in History

となっています。

ともあれご覧になってはいかがでしょうか。

2015年6月29日月曜日

FB読書会 2015年6月近況

6月に入りいよいよ本格的に『クリスチャンであるとは』の読書が進行しています。


第3章 互いのために造られて」(45-58ページ)

関わりの複雑さ(47-51)・・・T・K担当

コミュニティーをミクロからマクロまで眺めながら、祝福であり同時に呪いとなりうるようなパラドキシカルな性格を指摘する。

特に「民主主義」政治の問題をカバーしている。

性について(51-54) ・・・S・N担当
(一部を抜粋)
 「性的アイデンティティー、すなわち男性であり女性であることは、人間として自分がどういう存在かという中心に近いところにあり… このことを理屈でも行動でも否定することは、人間関係を非人間化することに繋がり、生きたまま死を抱えることになる」(54) 
ここはなかなか内容が含みを持っていて、ディスカッションもまだ進行中です。(ただ今スレッドには53個の意見があります。)

死そして人であること(54-58) ・・・H・K担当
(一部を抜粋)
この命のはかなさ、義の問題、霊性、人間関係、美の問題、いずれも、この命のはかなさと類似していて、それが長く続くことが望ましいと思いつつも、それを 手にしたと思った瞬間、それが壊れてしまうという性質が極めて共通するものを持っているものとして存在することから、この4つを取り上げているような気が するのです。
ここはまだ始まったばかりのところです。
現在被造物管理(あるいは経営とかケアー)をめぐってディスカッションが進んでいます。


6月は9名が入会し、トータル150名を越えました。 

読書会メンバーではありませんが、『クリスチャンであるとは』の書評がどこかに泉が湧くようにブログ主さんによってアップされています。 

 

2015年6月9日火曜日

(リアル)読書会報告 2015年6月

今年2回目の読書会でした。

ほぼすべて予定通りと言っていいでしょうね。

しかし、2時間はやはり短い。

課題論文の半分もカバーできませんでした。




ご覧のように(私も含めて)9人の出席者でした。

なお今回の読書会の進行ぶりや、ディスカッションの様子をかなり細かく報告されているこちらの記事をご参考ください。


最初の自己紹介では、それぞれの信仰や教会背景を、「終末」「終末論」に絡めて簡単にご披露していただいたが、殆どの人は「千年王国」に関して「前・後・無」のどれを取るか・・・を一つの参照枠として使われていた。


その後のことは、上掲リンクのMH氏の記事が詳しいので、ご参照いただくとして、残りは個人的な感想を一つ二つ。


(1)聖書を「神の言葉」として受け取る者たちの責任

ライトはアポカリプティックな『言語表現』を理解する時に、『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』との区別をベース(第一ステップ)にしろ、と提案する。

これは普段余り注意しないで聖書を読む人への提案としては、普段以上に『言語表現』の複雑性・多様性を意識させる意味では一定の効果があるかもしれない。

と言うよりも、既に一定の枠で理解してきた(聖書)箇所を、「あらためて見る」ときの「作業」として役立つだろう。

しかし、実際には『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』の区別だけではアポカリプティックな出来事として描写されている事柄を理解するには到底間に合わないように思う。

やはり『黙示文学』と言うジャンルのまとまった理解が必要と思われる。

課題論文ではアポカリプティシズムの問題にどう対応するか、と言うのが主眼であったため、アポカリプティック表現解釈に関するもう少し立ち入って論述するまでの余裕はなかったと思われる。

いずれにしても、ライトがたびたび『リタラル』を「フラット(平板)」と形容するように、文学的に平板で、マニュアル的で、簡単に操作可能な文字の羅列とみなすような惰性的態度が「聖書の権威」を高調する者たちにあるとすれば、それは深刻な反省を必要とすることではないか。

むしろ聖書の文学性の豊かさや多様性を(解釈するのはそれなりに大変になるが)積極的に受け止めることが大切ではないだろうか。

(2)言語表現とイメージ

黙示録等にある「アポカリプティックな出来事」が、現代でもっぱらハリウッド映画を通して大衆化している。(List of Apocalyptic Filmsによれば、10年毎の本数では、2000年以降さらに増える傾向がある。)

映像による理解が、どの程度原典である新約聖書の『言語表象』に影響を及ぼすのか分からないが、やはり映像を一つの解釈として批評することは大切だろうと思う。

『リメイニング』という「携挙」を題材にした映画をプロモートする側(と思われる)は、この映画を評して次のように語っていたようだ。

「これは神を信じない者への裁きであり、そして“赦し”に関してもこの作品はきちんと描いてる。細かい描写も、聖書に忠実なんです」と説明。 「実は、聖書が予言していることが、実際に起こり始めているのです。例えば“ヨハネの黙示録”に書かれている軍隊の数は2億人。それは、現在の中国軍隊の 数と偶然にも同じ。巨大地震や日本のマイナンバー制度も、聖書には神の予言として、同じようなことが書かれている」と会場をどよめかせた。

そもそも「携挙」(Ⅰテサロニケ4章)は「残され(てしまった)者」たちについては何も語っていない。

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(4章16-17節、新共同訳)
ここで描写している「残された者」は、「非信者」ではなく、「キリストの来臨のとき生き残っている者」、即ち「信者」である。

 (実際に鑑賞したわけではないので控え目に言うが)『レフトビハインド』や『リメイニング』が悲観的な終末像を、新約聖書の様々な箇所から寄せ集めて合成しているとすれば、それらの聖書箇所をもう一度聖書自身の文脈に戻し、その上で解釈の妥当性が評価されるべきだろう。

個々の箇所が「リタラル」に解釈され(映像描写に反映)ているかどうかだけでは、「細かい描写も、聖書に忠実」、 とされる根拠とはならない。

さらに、例えば所謂「携挙」の場面で言うと、描写の中心は「来臨のキリスト」であり、「キリストにあって眠っていた聖徒」と「地上で生き残っていた聖徒」とが、キリストと一同に会する、という晴れやかで栄え輝くシーンが前面に出ているかどうかも、文脈に沿った「忠実な描写」としては欠かせないことは明白である。

(3)「終末」の啓示(アポカリプス)の中心は何か

簡単に言えば「終末」の出来事の中心は既に起こったこと。

神がキリストにおいて世と和解したこと。

キリストにおいて、終末は「既に」の域に突入したのであり、新創造が開始したのである。

この既に起こったキリストの出来事を足がかりにして、「未だ到来していない」終末、究極の完成までのプロセス全体が見渡されなければならないはずだ。

足がかり、とは足がこの地に着いていなければならないことを意味する。

ここに力点を置いていないと、「神の民」は「来臨」までの間をふわふわ浮いたようになり、現在に対して疑いを抱いたり、やきもきしたり、気落ちしたり、所在無さそうにしたり、となってしまう。

新創造の働きに従事することから逸脱してしまうことになる。

地に足の付かない状態は、「再臨時期」を予測することに一生懸命になったり、僕が従事すべき務めをないがしろにしてしまうことになるであろう。



といったようなシナリオに見えるのだがどうであろう・・・。

FB読書会 2015年5月近況

5月はちょうど、『Simply Christian』から『クリスチャンであるとは』に切り替わるところで、殆どページ進行はありませんでした。

『クリスチャンであるとは』を出版したあめんどうのOさん(読書会のメンバーでもあり、ライト・セミナーの運営委員でもあります)から、出版直前の報告や案内などがウォールを賑わしました。

さて、MH氏が『クリスチャンであるとは』に切り替え後、最初の部分をリードしてくださいました。

「互いのために造られて」(45-47ページ)

イントロ部分では、結婚における人間関係の難しさが取り上げられている。
我々は互いのために造られているものの、現実には関係をうまく保つためには、困難であり、社会的なものとしてつくられているのに、それにうまく対応できないでいる。
と、「関係に生きる人間」のパラドックスな面を指摘して今後の考察を進めることになる。

担当のMH氏は「感想」で《霊性の問題とコミュニティの問題》を扱った本として以下の3冊を紹介した。
ヘンリー・ナウエンの「愛されている者の生活」
http://amendo.ocnk.net/product/7
ジャン・ヴァニエの「コミュニティ」
http://www.ichibaku.co.jp/cgi-bin/cart/cart.cgi?pid=28
ディートリヒ・ボンヘッファーの『共に生きる生活』
http://www.shinkyo-pb.com/2014/05/08/post-1193.php



その他「ウォール」で目立ったものと言うと・・・

ライト・セミナーin大阪の案内

『クリスチャンであるとは』出版間近ということもあったのか、新規会員が急に増えてきました。
5月中に8名くらい増えたみたい。


といったところです。

ではまたご報告します。

2015年5月25日月曜日

ライト・セミナーin大阪

『クリスチャンであること』の出版までもうカウントダウンに入りました。

訳者の上沼昌雄氏をゲストにセミナーが開かれます。

日時:2015年7月13日(月)、午後1時30分~4時
場所:大阪市立総合学習センター 





『クリスチャンであること』をご購入いただいて読み始めるにあたり、ライトについてより広範に知る機会かと思います。
どうぞ大阪近辺の方、ご参加ください。

詳細等についての問合せは・・・
 川向肇(かわむかい はじめ)
 kawamukaihajime*gmail.com(*を@に変換)
までよろしくお願いします。

2015年5月18日月曜日

2015年度(リアル)読書会、その2  ガイド②

6月6日(土)の読書会まであと3週間となりました。

課題論文、Apocalypse Now?の後半部分を簡単にガイドします。


Apocalypse and apocalypticism
ブランチ・ダヴィデアンや終末カルトの歴史的実例を参照しながらアポカリプティシズムの問題を論じます。

一応聖書の「黙示思想」言語を淵源とする「世界観」運動としてのアポカリプティシズムをこのように定義しています。


the worldview in which certain people come to believe that their group is set apart from the rest of humanity, that it is righteous and all others are sinners, and, more particularly, that an event will soon occur which will sort things out once and for all.
かなり一般化した表現ですので、ここだけ一読すると「オウム真理教」を連想するかもしれません。

《聖書言語》がそのオリジナルな文脈を離れて、様々に使われる(特に「世の終わり」関連の連想)例として
William Dalrymple’s spectacular From the Holy Mountain: A Journey in the Shadow of Byzantium (London: HarperCollins, 1997)
が挙げられています。

正教以外のキリスト教信者その他が「地獄の業火」に、正教信者は「携挙」に、・・・と言う場面が引用されています。

また、「世の終わり」のイメージを彷彿とさせるので有名な「第二ペテロ3章10節」の釈義問題も取り上げられています。

ライトは《聖書言語としてのApocalypseと《アポカリプティシズム》を次のように交通整理して、問題解決の方向を探ります。

Apocalyptic language, using cosmic language to invest historical events with their full significance, draws together the heavenly world and the earthly world;
“apocalypticism” forces them apart.
Apocalyptic language exploits the heaven/earth duality in order to draw attention to the heavenly significance of earthly events;
apocalypticism exploits apocalyptic language to express a non-biblical dualism in which the heavenly world is good and the earthly bad.
この中でのキーワードである「heaven/earth duality」を次に解説します。


Heaven and Earth

区別①・・・天と地は、two placesではなく、two different dimensions of the total reality of the world.
区別②・・・天と地は、dualityであって、dualismではない。
※アポカリプティシズムの問題は、dualismに行ってしまうこと。

Christian Future Hope
・キリスト者の「希望」は、進歩への「楽観」ではない。
・聖書的「希望」の根拠の中心は「イエス・キリスト」だが、アポカリプティシズムはこの希望の根拠を再臨時の携挙に縮減してしまっている。
・「人の子が雲に乗って」の釈義的問題について。
 
The Present Challenge to Future Hope  
現代のキリスト者の課題が次のような質問で提示される。

The question must be:
how can we read apocalyptic language without collapsing into apocalypticism?
How can we respond to the heavenly dimension of the world without lapsing into an anti-earth attitude? And, faced with the Millennium, 
how can we co-operate with what God intends to do in our world, producing earthly events with heavenly meanings?
And how can we in our turn describe what God may be doing in our world, in such a way as to invest earthly events with their heavenly significance? 
How, in other words, can we do for our own day what the apocalyptic writers were trying to do for theirs?

一方で「イエスの復活」に基礎を置き、どのように「将来の復活の希望」に繋げるかは、
 ・橋渡しのようであり
 ・サインポストを示すようであり
 ・現代の「黙示思想」言語を探すよう
Only poetry, art and music can begin to do justice to such things; the flat one-dimensional language of ordinary post-Enlightenment analysis into economic or political forces will remain earthbound.
現代の文化は千年紀の切り替えとともに「ポストモダン」に突入するかのようである。
その中で希望を切り拓く(ある意味)《言語と思想》の文化創造の戦いに飛び込むのだ。
ーーー要約は以上ーーー




参加希望者はその旨、6月1日までに、お知らせお願いします。

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


 
N.T.ライト読書会主宰
小嶋 崇