2014年2月26日水曜日

イエスの復活の身体③

「続く」とした後大分経ってしまった。

前回ライトが復活後のイエスの身体の状態を指す造語として使用した、トランスフィジカリティーについて紹介した。

まだ訳語が見つからないのでカタカナで表記しておく。

ルカ文書では、イエスは復活後40日間弟子たちに現れた後、「天に上げら」れて見えなくなる。
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11節、新共同訳)
昇天から着座と言う事になるわけだが、ライトはSimply Jesusで、「イエスが天にいることによって、地上に遍在することができるようになる。もし地上に留まっていれば、そういうことは出来ない。イエスの昇天とは、イエスが地とは隔絶した天に消えていなくなるのではなく、天において主として地を統治をなさるためだ」と言う趣旨のことを書いている。

では天におられる間、イエスのトランスフィジカリティーはどのように保たれ、また「遍在」はイエスのトランスフィジカリティーとどのように関わってくるのだろうか。

イエスの復活の身体① では、イエスのトランスフィジカリティーはSimply Jesusでも継続されている、と書いたが、今読んでみたが発見することは出来ない。
どうやら視界から消えているようだ。

今回イースター後のイエスのトランスフィジカリティーを考える上で念頭にある聖書箇所は使徒言行録の二箇所だ。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(使徒言行録3章21節、新共同訳)
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(使徒言行録7章55-56節、新共同訳)
かなり強引なこじつけになるかもしれないが、敢えて補助線として「ライティアン」な筋でまとめるとこうなる。

①復活したイエスは「新しい神殿」として天と地を結びつける存在である。

②天と地は時空間的連続の中にはないが、「扉を隔てて行き来できるような異なる次元の領域である。」(Simply Jesus)

③復活したイエスは天に上げられ、そこから地を統治する。

④最終的に「天と地が合一する時」まで、すなわち御子がすべての統治権を父に返還するまで、御子・イエスは天に留まって統治を完了しなければならない。(Ⅰコリント15章24-25節)

イエスのトランスフィジカリティーは、ではどんな意義があるのか。

今回は取上げないがその身体性はパウロの回心体験が「霊的」なものではなく、復活のイエスの証人として目撃者証言者のリスト(Ⅰコリント15章)に加えられている点でも重要である。

ステパノの幻はそのパウロのような目撃者証言とはみなされていないようだが、クリストファー・ローランドがThe Open Heavenで指摘しているように、「真正な幻体験」とすると、イエスのトランスフィジカリティーを例証するものと受け止められるのではないだろうか。

2014年2月15日土曜日

「死後のいのち」再考

現在、フェイスブック読書会の方は、
Surprised By Hope、の10章に入ったところです。

進行速度は大分落ちました。

この本を紹介する動画は幾つもあると思いますが、今回はカルヴィン大学で収録されたインタヴューを紹介したいと思います。


2014年2月1日土曜日

ライトとヘイズ

マイク・ゴーマンが司会するこのヴィデオで、ライトとヘイズがガラテヤ2章と、ローマ8章の釈義について討論している。



見ていると、ヘイズは少しナーバスに見える。

このブログでも紹介したが、二人の間には新約聖書、特に「史的イエス」アプローチに関して見解の相違があり、ヘイズの方がそれをまだ引きずっているように見える。

一点紹介すると、「義認」に関して、ゴーマンが「義認とパーティシペーション」についてヘイズに質問したのに対し、ヘイズはガラテヤの文脈では二つは同義(synonymous)、と発言したのを捉えて、ライトが二つは同義ではない、勿論二つは緊密に関係しているけれども、義認は区別されなければならない、と指摘していた点だ。

どちらにしてもこのように二人が同じテーブルについて討論している姿を見るのは興味深い。