2014年12月18日木曜日

イエスの復活の身体④

ライトにとって「復活」がキリスト教の中核的メッセージであることは、彼のキリスト教の包括的把握が「創造→新創造」であると見做すことで、ある程度明らかではないかと思う。

しかし、
①中世以降のキリスト教がギリシャ思惟的二元論に浸透されて、「死んでからあの世に行く」救済教になり、
さらに、
②啓蒙主義の支配下で「私的、敬虔主義的信仰」に閉じ込められた後、
③もう一度「本来の使徒的な福音」である、「全宇宙を視野に入れた包括的レスキュー・ミッション」に再起動されるために、

ライトがことさら主張したポイントは
④単に「復活」ではなく「身体を持った復活」であり、
⑤罪と死に隷属されているとは言え、依然として全体として贖われるべき被造世界に対する「イエス」のメッセージ

であった。

ここまではライトの主張は説得力があり、特に欧米のキリスト教圏における受容は(理解度において深浅はあろうが)広範なものがあるように思う。

しかし脱キリスト教化した、世俗化した層への到達度・浸透度となるとどうなのだろう、との疑問はあるだろう。

キリスト教内にあっても、同じ新約聖書学のギルドにいるジョン・ドミニク・クロサンやマーカス・ボーグとの討論によって、どれだけ感化できただろうか。

もちろんライト一人に「本来の使徒的な福音」のアポロジストとしての役割を押し付けるのはどうかとは思う。
既にこれまでの旺盛な著作活動、講演活動で、ライトは多くの者たちを啓蒙してきたし、それによって「キリスト教が新しく感受できる」ようになった人はかなりの数に上るだろう。

しかし、敢えて、ここで「身体の復活」の含意を掘り下げるとどんな問題が出てくるだろうか。

幾つかのも問題はぼんやりとは脳裏に上るが、余りしつこく議論されてきていないものが幾つかあると思う。

①「復活の身体」の連続と非連続の問題
所謂、死後の2段階移行において(ある意味分離した)『身体』と『意識(たましい)』はどのような再統一を与えられるのか、と言う問題。
ライトが好んで用いる比喩が、ジョン・ポルキングホーンの、「今のハードウェアが死んでなくなっても、(神のもとに)保存されたソフトウェアーは維持され、(死者の復活で与えられる)新しいハードウェアーに再インストールされる」、というものである。

『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。

このような疑問にライトが用いるのが、「人間の身体は細胞レベルで考えれば7年くらいで殆ど全部入れ替わるが、7年前も今も同じ『自分』として保持されているではないか」、と言うものだ。

②「万物が更新」した世界が最早朽ちることなく、永遠に続くとすると、果たして人間は一体何をして過ごせば充実感を得られるのか。「終わりがない」ことは却ってつまらなくないか。


以上のような、より哲学的な問題をライトと、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が討論している動画を紹介しよう。


※ケーガン教授は身体的復活を信じないけれども、少なくともその可能性まで否定するつもりはない。ただ彼にとってもし「復活の身体」があったとしても、そのような「生」がとても魅力的であるようには思えない。そのような疑問をライトにぶつけている。



※この動画を見ながら「ライトの後に来るキリスト教アポロジスト」はかなり高レベルの知性やユーモアが必要だろうなー、と思いました。

2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年12月8日月曜日

FB読書会 2014年11月近況

10月近況」に続いて、11月近況を掲げられるとは・・・。

季節は早くも待降節に入りました。

最終章、15章 Reshaping the Church for Mission (2)、は(個人的な印象だが)残ったものを全部積み込んだ感じの長い章。

読書会の方も進展具合が緩慢になり、息の長いラストストレッチである。

さて、この章の、Resurrection and spirituality、と言うセクションを進んでいる。

New birth and Baptism(初担当のTさんがリード・・・ほぼ全訳してくださった)

ここでの討論は洗礼の形式(浸礼と滴礼) の違いが教会内で統一していないことで、他教会からの転入時、果たして異なる形式の洗礼を受容するかどうか・・・と言う問題に集中。

なかなか議論としては興味深かった。

Eucharist

洗礼に続いて聖餐ということで、サクラメント神学が話題になったが、聖餐の方では「職制」もかなり議論になった。

読書会に参加している方々はどちらかと言うとロー・チャーチ系で、さらに職制を認めない群れも加わっている。
「聖体」の象徴説か現臨説も議論されたが、プロテスタント教会史を大きくカバーする話題なので討論参加の方々のウンチクが披露された感もあり。

Prayer

この部分は余り討論が盛り上がりませんでした。
消化未了か・・・。

Scripture

霊性との関わりでの「聖書(を読むこと)」がテーマであったが、「ディスペンセーション主義」の話題に火が点いて、別スレッドでも議論が続いた。

11月の中では一番盛んな、ホットな話題となった感あり。


※どうやら最後の、Love、までリーダーの方の投稿がなされたので(討論はまだ進展していない)、年内には一応の「終了」宣言が出るかもしれません。

2014年11月11日火曜日

復活:学問と信仰

「イエスの復活の身体」と言うテーマで何回か投稿したのがそのままになっている。
イエスの復活の身体 ①
イエスの復活の身体 ②
イエスの復活の身体 ③
しばらく前、ネットでこんなものを見つけた。
原口尚彰『新約聖書の死生観』
本稿は2013年8月26日に東北学院大学で開催された「第7回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナー」で行った講演原稿に加筆したものである。
とある。まだ最近のものと言うことだ。

新約聖書(福音書、パウロ書簡、黙示録、)文献に沿って「死生観」について概観したもので、ドイツ語、英語、日本語による研究文献を参照している。

その中にはN. T. Wrightのものは何も見当たらない。

あっさりとした概観の印象だが、「まとめと展望」の中に以下のような感想と言うか観察が加えられている。
現代の教会も教理としては,世の終わりにおける死者の復活の思想を維持しているが(使徒信条第三項やニカイア・コンスタンティノポリス信条第三項を参照),信徒が現実に持つ信仰において,終末の到来の切迫感や死者の復活の希望のリアリティは薄れ,死後は天に召され,他の召天者たちと共に神の御許で憩うイメージを漠然と抱いている場合が多いのではないだろうか。(強調は筆者)
少なくともこの観察は、ライトがSurprised By Hopeで指摘した、Going to heaven when you die、神学が日本でも踏襲されている、と言うことを傍証するものではないか。

2014年11月7日金曜日

Richard Hays's New Book

NTW endorses Richard B. Hays's new book,

Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness 

The book site at Baylor University Press.

 


and this is NTW's comments:
"Twenty-five years ago Richard Hays launched a quiet but highly effective revolution on how Paul read Israel's scripture. Now he turns his attention to the four gospels, and we may confidently predict similar results. With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews
日本のアマゾンでは4,288円。まだ予約受付中の段階。
 

 

2014年11月3日月曜日

FB読書会 2014年10月近況

先日メンバーの方が、どんどんウォールへの投稿が増えて行き、後から(遅れて)読もうとしても簡単じゃない、と言うコメント(ツイート)があった。

その時FB読書会2013年6月近況のような記事があれば助かる、とも書き加えてあった。

なるほどこの記事以降、同種のものは出していない。

と言うことで少し不定期になるかもしれないが、「遅れてくる人のための要約」っぽいものをば・・・。



実は「14章、Reshaping The Church For Mission (1) : Biblical Roots」に入ったのが、7月の頭だから、最近はなかなかペースダウンなのだ。

14章の「イントロ」担当の方が、ほぼ全訳してくれたので、一部を抜粋。
近頃ミッション重視の教会について語られるとき、必然的に、そして当然のことなのだが、そのほとんどが教会生活の実際的側面に関わることになる。たとえば、ミニストリーや教区の再構成や、私たちが召されている使命をよりよく進めるための働き方、などのように。・・・
その代わり、希望を中心に据えたミッション(a hope-shaped mission)に焦点を合わせ直した教会の、聖書的&霊的優先事項と思われる事柄を取り上げる。そうすることで、これからの教会にとって必要不可欠で重要な働きを補強したいと思う。それがないと、教会の働きは単なるプラグマティズム(実用主義)に陥りかねない。
ライトはイエスの復活に基盤を置く『新創造』と言うパラダイムから(つまり従来の「死んだら天国へ行く」式伝道からシフトする)宣教を再考しようとするので、実際論にすぐ入らないで(迂回して)、聖書的基盤を掘り下げる必要を解く。
伝道実践の前に、新しいパラダイムのもとでの宣教のための聖書と神学が必要だと言うこと。

イントロの次は新約聖書のうち、福音書と使徒の働きを取り上げる。
復活は、分水嶺のようなもので、復活がなければ、聖書の物語は未完のイスラエルが希望を混沌とした世界の中でも持ち続けることになる、エマオへの下向の二人が語るように悲劇でしかなかったのである。しかし、復活を認めれば聖書全体を見通せる話になる・・・。
全ての過去の約束が実現する、すなわちダビデの王権が立てられ、イスラエルが最大の流浪から帰還し、マタイ、ルカ、ヨハネでは明らかに示されているが、アブラハムの末によりすべての国民へ の祝福が実現した時点だったのだ。
イエスの復活は、聖書全体のストーリーが「新創造」に転じて行く「発射台」とライトはよく表現する。ここでは「分水嶺」のたとえで、物語が一気に動いて行く「成就と展開」のポイントであると指摘する。 

※福音書と使徒の働きの次に、パウロ書簡があるのだが、これはアクシデントでスキップしてしまった。

暑い夏もようやく終わり、9月に入る頃、「15章 Reshaping the Church for Mission(2): Living the Future」 、最終章に到達した。

15章のイントロは、『イースターを祝う』と言うこと。
 我々はもっとイースターを盛大に祝うために、新しい讃美歌や新しい芸術に取り組む必要があるのではないか。イースターの良い讃美歌は、初代教会時代からあるが、悪い讃美歌は19世紀に入ってからが大半である。新しい方法で、イースターを祝うべきなのではないか。
 ※ライトが言う「悪い讃美歌」とは、キリスト者の希望が死後「あの世」に行くことを歌詞としているもので沢山ある。讃美歌の歌詞については度々話題となった。


次のセクションは、Space, Time, Matter: Creation Redeemed

※「スペース・タイム・マター」とは、ライトが神が造られた「世界」に言及する時、対立する二元論的思惟を意識しながらより「コンクリート」に把握させようと用いられる表現のようだ。
 だとすれば、教会のミッションがまさに空間、時間、物質の世界において、またそれらの世界のために、刷新されるのであれば、その同じ世界を無視したり軽 視したりすることはできないだろう。むしろ、神の国のために、イエスのlordshipのために、そして御霊の力によって、それを自分たちのものとすべき である。そうして初めて、出て行って未来にのために働き、イエスが主であることを宣言し、その力によって変化をもたらすことができるようになるのだ。
とあるが、教会のミッションを(最大限)『文脈化』すると
 (1)「場所・空間」
 (2)「時間」
 (3)「物質」
における「刷新と再生」に関わることになる、との指摘。

このうち、(1)「場所・空間」に関して、"thin places"と呼ばれる場所の例を挙げながら、
老朽した教会が取り壊されたりといったことはあるが、長年祈りと礼拝に用いられてきたことで、聖別された場所というものは確かにあることが、今日多くの人 たちに認められている。そういう場所は、多くの人にとって、自然に祈れる場所、神がもっと自然と身近に感じられる場所になっている。場所や土地を手放して しまう前に、すべての被造物を新しくするという神の約束を思い出し、場所と空間についての適切な神学について、じっくりと考えるべきである。
と、老朽化した教会建物を簡単に解体しようとするような「宣教論」を牽制している。

次の、Resurrection and Mission、と言うセクションでは、最近福音派も「社会変革」や「社会正義」に取り組むようになってきているが、それよりははるかに広い視野で教会の取り組む「回復」のミニストリーの領域とポテンシャルを具体例を挙げながら描こうとしている。

※現在(10月末)はここまで進んでいる。残すところ18ページ。

この期間で、Surprised By Hope、以外で盛り上がった話題は、(Love Japanと言うイベントがあったことと関係するが)ジョン・パイパー牧師のこと。
※今から7年ほど前に「義認」について、ライトとパイパー牧師の間でその理解と位置づけに関し突っ込んだ応酬があり、それぞれが1冊ずつ本を書くまでとなった。


10月は色々あって、「第3回 N.T.ライト・セミナー」があったり、新メンバーが続々出たり、忙しかった。

と言ったところが、FB読書会の近況レポートです。

2014年10月17日金曜日

PFGに対する批判的な書評、アレクサンドラ・ブラウン

まだ本当に出たばっかりの書評だ。

ワシントン&リー大学宗教学部教授、アレクサンドラ・ブラウン

Paul and the Faithfulness of God (クリスチャン・センチュリー誌、2014年10月16日)

2014年10月9日木曜日

Recent European Philosophy's Turn to St. Paul

I mentioned Alain Badiou in this blog before (here and here).

I was just listening to this video below in which NTW discusses some of the recent and contemporary backgrounds of Pauline studies.

In relation to the Pauline Studies themes, Paul and Philosophy and Paul and Politics, NTW mentions some of the names of what I called Recent European Philosophy's Turn to St. Paul: Giorgio Agamben, Slavoj Žižek, (and of course) Alain Badiou, and Jacob Taubes.

Listen to what NTW has to say about why those philosophers are now turning to St. Paul (about 12 minutes into the video).


2014年7月13日日曜日

N. T. Wright on Jimmy Dunn

You can read NTW's Foreword to

Jesus and Paul: Global Perspectives
in Honour of James D. G. Dunn.
A festschrift for his 70th Birthday
(Library of New Testament Studies)

just by "Click to Look Inside" button.

(Warning: There are some differences as to how much you can read from the book's Amazon site. If you go by "Click to Look Inside" button, you can't read NTW's Foreword in full. But if you click the link at the top, you can read all. Or at least I could.)

Since the festschrift itself is priced at $133.00, those who are only interested in reading what NTW has to say about his senior NT scholar will find this time and money-saving.

In fact, it's quite amusing!
For example, NTW has this to say about differing interpretations of the identity of  the "wretched man" in Romans 7:
Ironically, I had already changed my mind by then on one of the things about which, when I first heard Jimmy lecture, I was most excitedly in agreement with him. I had been arguing for some time, against the majority, that the 'wretched man' in Romans 7 was Paul the Christian; here was a scholar senior to me, and a very lively thinker and lecturer, who set out the case as energetically as I had ever heard it, in his own Tyndale lecture of that year. Alas, by the time I completed my thesis I had come to see things very differently: not that I ever agreed with the normal 'majority' reading then prevalent particularly in Germany, but that I had tried to develop a different way again, taking into acount what seemed to me then, and still seem, fatal objections to the 'Christian' reading. Jimmy and I have not revisited that subject for many years now, but I still recall the amused frustration I felt on realizing that one of the things I thought I actually agreed with him on had now become yet another disagreement.
At any rate, even in these several pages of Foreword, you can get a good biographical data about and between the two of the most distinguished British NT scholars of our period.

2014年7月10日木曜日

アラン・バデューのインパクト

大和郷にある教会
ブログで紹介したこともある、
ベン・マイヤースのFaith and Theologyで、
Alain BadiouSaint Paul
が紹介されていたのが2007年8月。 
実に7年も前だ。

当時の彼はアラン・バデューの「発見」を興奮しながら何回かその後のブログで投稿している。
ベンは「聖パウロ」から以下を引用している。
“With Paul, we notice a complete absence of the theme of mediation. Christ is not a mediation; he is not that through which we know God. Jesus Christ is the pure event, and as such is not a function, even were it to be a function of knowledge, or revelation…. Christ is a coming; he is what interrupts the previous regime of discourses. Christ is, in himself and for himself, what happens to us. And what is it that happens to us thus? We are relieved of the law. But the idea of mediation remains legal…. [This idea is] a muted negation of evental radicality” (pp. 48-49).
Theology with Alain Badiouから。

2014年7月4日金曜日

フライブルグ大学でのライト

たまたま検索していたら、もう終わってしまったが、スイスのフライブルグ大学で、ライトをメイン講師とした神学会議(講演会と言うよりは大きい)があった。
Paul In History & Theology
N. T. Wright
2014年6月10-13日
at the Uiversity of Fribourg, Switzerland

神学会議のサイト

ドイツ語だけでなく英語でも説明等があるので興味深い。

神学会議のパンフレットが何ヶ国語かで用意されているが、英語のものダウンロード完了まで暫く時間がかかる) それによると会議期間中にアラン・バデューによるパウロのアンテオケ事件を題材にした演劇が上演されると言う。

なかなか手の込んだものになったようだ。

The Incident At Antioch (A Play Based On Alain Badiou)

Theater is event, is matter of state, is idea incarnated. With this premise that Alain Badiou wrote the play “The Incident at Antioch” in 1989. Therein he draws on motives from the life and writings of Paul the Apostle to come to terms with the political upheaval in Europe and shifts in his own world view.

Based on this play, students from the faculty of Freiburg (Switzerland) will organise an evening production, guided by the director Simon Helbling and the author Maja Tschumi. To bring Paul to the stage means to rediscover him in new ways. It is about encountering him at a place of relevance in the here and now, with body, voice, heart and mind engaged – not only in the conventional reading of his letters.

Badiou writes: “In the end, Paul himself teaches us that it is neither signs of power nor an exemplary course of life which matter. That which truly matters is the effect of a conviction – here, now and for ever.”

It is a play about the transformative power of a conviction, which can act politically - lapsing into neither riot nor conformity - to change the world. A trans-formative power that is Paul.


2014年6月2日月曜日

Tim Gombis's Reflection on the "Plight and Solution" Framing in the NP.

Since I put the post's title in English, I follow.
(If I have more time left, I'll wrap up in Japanese.)

First, the NP or NPP.

By now there are so many things to read about the issue(s) of the New Perspective, or rather Perspectives, on Paul.

Here in Japan, among the evangelical scholars or pastors, the NPP issues have not been given much attention until, say, a few years ago.

The tide, it seems, has finally turned.
The topic for the Spring Meeting of Japan Evangelical Theological Society Eastern Block, which will be held in Tokyo on June 16, 2014, is on NPP.

Alas, one of the presenters of the Meeting has warned the expected attendees from our N.T. Wright Reading Group that NPP has already become an old topic among top-notch Pauline scholars (in the West, mostly I think).

The dinner has been served and the feast is over; the early arriving guests are already full so they don't have much appetite for it anymore.

The late-comers like us in Japan, however, are not quite sure what the fuss is all about.
They want to know what they have missed in the Pauline scholarship in the last 20 to 30 years or so.

But, the scene has changed a bit by the arrival of NT Wright's magnum opus, Paul and the Faithfulness of God in 2013.

Fellow NT/Pauline scholars have been digging through the 1600 pages to see whether any new light will yet to be noticed.

The searching and finding something new is not so simple but some scholars like Tim Gombis are getting a fresh insight from reading Tom who has read Paul for about 50 plus years.

In N. T. Wright on Paul's "Plight" and More on "The Plight" from Wright, Tim's take (contra NPP critics) is how the soteriological framework is reframed--from the Older Perspective's (individualistic?) sin-salvation framework to the Newer Perspective's "plight-solution" framework in a cosmic scale.

(I might add that the aforementioned presenter cautions us that NTW doesn't much care about how his Pauline interpretation is labeled as New or not.)
(I might also add that I found somewhere NTW saying "there are, to count, 17 or so new perspectives on Paul.)

NPP may be an old topic but you can take it afresh by reading NTW's PFG as Tim Gombis suggests, I think.

と言うところで時間が来てしまいました。

「旧」か「新」かの議論はともかく、ライトの大著から得る視点はまだ色々ありそうです。
斯く言う筆者はその後PFG読書の方は進展していません。あしからず。

.

2014年5月19日月曜日

Alain Badiou's "Contemporary" Paul and Radical Universalism

Well, this is just a shot at what contemporary philosophers are doing with St. Paul.

Alain Badiou, is a French philosopher at the European Graduate School (EGS) with colleagues such as (only those I can tell by name) George Agamben, Judith Butler, and Slavoj Zizek.

He has a website created by his admirers, mostly I think, at Badiou Studies.

Alain Badiou is:
[o]ne of the most original French philosophers today. Influenced by Plato, Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Jacques Lacan and Gilles Deleuze, he is an outspoken critic of both the analytic as well as the postmodern schools of thoughts. His philosophy seeks to expose and make sense of the potential of radical innovation (revolution, invention, transfiguration) in every situation. (from "biography")
Why I have picked up Badiou is because he has written a book utilizing Paul's thoughht in the NT epistles.

Saint Paul: The Foundation of Universalism

I haven't read him or this book but an article like this one tells that contemporary philosophers/thinkers outside the NT guild reading Paul in unexpectedly productive way, perhaps.
Paul, as noted, works on the basis that anyone at all convinced of the rising of the son is thereby capable of entering into the production of this new praxis wherever they are, whoever they are and despite customs, rites, sex and class and so on. Equality is declared here and now and indeed it‘s this declaration that renders the subject (always) out of time with its time. It provides all Paul‘s 'teachings' – no doubt he remains in his action a Pharisee – with an orientation that makes them untenable as such before the Law. (1)
Well, I don't know how to make of this kind move to make Paul contemporary to our world, but we may listen to what they can tell us about, e.g., "a series of doublings" (or, for some, dichotomies) like: "Law/faith, flesh/spirit, Jew/gentile, truth/knowledge and so on." (2)


For those who are interested in listening to a strange voice with French accent in the wilderness...


**********

(1) A. J. Bartlett, "Refuse become subject: The educational ethic of Saint Paul," Badiou Studies, Vol. 3, No. 1 (2014), pp. 210. (http://badioustudiesorg.ipower.com/cgi-bin/ojs-2.3.6/index.php/ijbs/article/view/76/full%20text.)

(2) Batrett, ibid., p. 209.



2014年5月18日日曜日

ついにPFG読書開始

暫く前入手したN. T. Wrightの
Paul and the Faithfulness of God (ご存知略称、PFG)
をついに手に取って読み始めました。!!!

先ずは「序」から、幾つか紹介。

これだけの長さ(1600ページ)ともなると「序」だけでも書くことは色々あるだろうと思うが、そんなに長くない。

先ずPFGのoverall argumentを押さえておくために大事だと思われる部分を引用する。
My proposal is that Paul actually invents something we may call 'Christian Theology', in this particular way (Jewish beliefs about God, reworked around Messiah and spirit), for this particular purpose (maintaining the new messianic people in good order). We only understand the need for Part III, in other words, when we have understood Part II; and we only truly understand both of these together when we see them within the wider world mapped in Part I and engaged with in Part IV. (p. xvi)
なーんだ「ちゃんと全部読め」と言うことじゃないか、と思われるだろうが、確かにそれは違いないが、何しろこれだけの長さだから、「見当をつける」と言うことは非常に大事だ。

それでやはりこの指摘には、全体を読みこなす時に覚えておいたほうがいいヒントが幾つかあると思う。

先ず小嶋がキーワードだと思うのが、
Christian Theology
そして「パウロ研究」と言うことで言えば、特に「パウロ神学」に関心が高い研究者は、勢いパート3の9、10、11章に意識を集中しやすいと思うが、その時に
for this particular purpose
と断っている部分が効いて来るのだと思う。つまりこの「クライマックス部分に当たる章」を理解するためには、6、7、8章の読解が不可欠だと。
(更に言えば、ライトの最近の動画で指摘しているように、「6章で展開しているテーゼの重要性にこれまでの書評者たちの多くは気が付いていない」、を考え合わせると、ここを丁寧に読むことが大切のようだ。)

この関係は別な角度から言えば、「救済論」に焦点を当てた「パウロ神学」の解題に、「教会論」が不可分に付いてくる、と言う主張になる。


あと少しマニアックでマイナーなことになるが・・・。

「PFGと日本」の関係:
①「謝辞」の中に、わが読書会のメンバーで、ライトのもとで博論を書いている山口希生兄の名前が出てくる!
②二分冊を繋ぐ「ポエム」のようなものを、知友の、Michael O'Siadhail(ミホール・オシール)、に問い合わせたところ、 近作のTonguesから3篇を寄せてくれた。で、この詩集は日本語漢字から着想を得ているとのことだが、ライトのPFGに寄せた詩は「中」から。
※二分冊なので二箇所に「中」の漢字が出てくる。ご確認あれ!

最後に、自伝的エピソード。
ライトが聖書を読み始めたきっかけは、1953年6月2日、エリザベス女王戴冠式の日に、両親から記念聖書がライトと姉(?)に贈られた時。

二人は早速読み始めたわけだが、その文書は一番短い「ピレモン書」だったのだ。
そのピレモン書の講解を導入としてPFGが書き始められているのは、如何に適切か・・・と言う事。

なるほどそう言う訳か。納得。


2014年4月14日月曜日

『大衆』向けPFG書評

 これは余りいい書評じゃないが(アンダーステートメント)、ライトのポピュラリティーが拡大すればするほど、こう言うことは当然出てくるし、ある意味異なる読者層間での批評空間が必要になることを示唆するものだろう。

 とても一つの批評空間で一つの作品(ここで言えばPFG)を論評することは難しい。
 その好例として、フランク・ヴァィオラの、N.T. Wright: Paul and the Faithfulness of God – A Review December 1, 2013(リンク)を紹介する。

 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。

 と言う命題を立ててから考えてみよう。
 フランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」と言う点で、自分のものと、ライトとのものが、簡単に比較できるもののように思っているようだ。
N.T. Wright holds to a grand narrative of Scripture (as do I, as set forth in From Eternity to Here).
特にフランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」における『永遠の目的』と言う部分にこだわりがあるようだ。
 そのためフランクの書評は殆んどこの『永遠の目的』規準から、ライトがどこまで書けているか、或いは書けていないか、と言う叙述に堕してしまっている。
 何しろD・L・ムーディーやウォッチマン・ニーが同一線上で議論されるという恐ろしい展開になっているが、本人はあまりその辺のことに「違和感」や、ある種の「認知的不協和」を感じていないみたいである。(だからこんな書評が架けるのだろうが・・・。)

 実はフランクは書評でこのような引用をしている。
On Wright’s scheme, one critical reviewer remarked, “Wright seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT. To my mind the risks in this include imposing such a narrative monolithically upon texts.”
しかしフランクは言及箇所を示さない。
 多分彼のブログの読者には「難しい」とでも思ったのだろうか。
 
 しかしグーグル先生(と言う表現は私のものではないが)にかかれば出典はほぼ判明する。
 この記事だ。
 悪いことに(或いは一種の隠蔽か)、この段階ではフルタド教授はPFGを受け取っただけで、PFGのデカさに言及しているだけで、書評はしていない!
 しかもこの引用は記事本文ではなく、コメントセクションでのものである。
I’d say that one difference between Wright and me is that he seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT.... imposing such a narrative monolithically upon texts.

最後の部分は文法的に不備で言い足りていない。

 そんな書評前の少し不用意な発言を引用してフランクは次のように続ける。
This is true. The fact that Wright’s grand narrative is somewhat different from mine is an example of this.
書評もしていない前の(多分に先入観的判断の可能性もある)言葉を捉えて、「本当」も何もないだろう。「ライトと自分のとは違う」も何もあったもんじゃない、と感じても致し方なかろう。

 現在PFGに関してはラリー・フルタドの連載記事書評を紹介しているが、フランクの書評は全然次元の違うものであることは一読してすぐ分かるだろう。

 フルタドの書評は、ほぼ同じ学術領域で研究して来た者の「批判的、エンゲージングな書評」であり、他方フランクはフルタドと肩を並べるかのような読解をしたような印象を与えるが、要するに『大衆』向けの言っちゃ悪いがウエメセ的読書指導に近い。

 しかし既に指摘したようにフランク本人がPFGをどこまで理解できているか甚だ疑わしいので、一応大雑把なアウトライン的要点ポイントを提示されても、それがフランクのうちでどう解釈されたのかは、「フランクの解釈枠組み」に引き付けて読まれたであろうこと以外は、つまりPFGに即した批判的な読みは殆んど分からない、と言って良いのではないかと思う。
It’s a work for the academic community, primarily. However, readers of dense material can profit from it. Those who live on a steady diet of Max Lucado, Francine Rivers, and Beth Moore can use the book as a door stop or a nice fire-starter.
マックス・ルケードという日本でも知られた「大衆的作家」の名を挙げているが、そんな簡単に「有用・有益」になるなどと言えたものやら・・・。
 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。
と言う命題に戻ろう。読む価値のある本とは「自分が住み慣れた理解」をチャレンジするような本であり、じっくり読むことによって次第に自分の「意味地平」と著者の「意味地平」との間にある壁に気付き、それと格闘することによって「新たな意味の地平」が築かれるような本であろう。

 簡単に自分の懐に収まるような本など、大した本でないか、(フランクとPFGにおいては)殆んど読めていないか、と言うことになるだろう。

 コメンターの一人が「critical realism」について質問しているが(ベン・マイヤーと宗教社会学者のクリスチャン・スミスとの相違について)、恐らくフランクは「面倒臭いから説明を省く」のではなく、もっと単純に「分からない」のであろう。

 もし分かっていたら、つまり「キリスト教起源」シリーズの方法論的意図や意義を理解していたら、こんな書評は書かないと言うことだ。

 以上依然としてPFGを手にとって読んでいない、その意味ではフランクのフルタド引用の仕方と同罪の、小嶋の「偉そうな」解説でした。

 

2014年4月7日月曜日

フルタドPFG書評3

 ラリー・フルタド教授(エジンバラ大)のブログで連載されている、ライトのPFG書評紹介の続きです。

 さて今ライトの聖ミレタス大学でのレクチャーを聴きながら書いているので、集中力が分散していますので、支離滅裂なところが出てくるかもしれませんが、とにかくフルタド教授のブログ記事を読んで頂ければ、と思います。

 今回のフルタド教授の疑問は「イスラエル民族と教会(イエスをメシアと信じた者たちの共同体)の関係」についてです。
That is, ironically, in Paul’s view it was the appearance of Jesus and the preaching of the gospel that produced any failure on the part of Israel.  The failure was specifically to refuse to acknowledge Jesus as God’s new eschatological revelation, and in this way their “zeal for God” is “not according to knowledge” (Rom. 10:2).  So, I don’t see anything in Paul that supports Wright’s grand narrative of the national failure of Israel that Wright posits.  And that means that I see no basis in Paul for Wright’s notion that Jesus assumed the role and responsibility of Israel.
と論難しているように、フルタド教授は、ライトのグランド・ナレーティブの「イエスが神の民としての使命を失敗したイスラエルの役割と責任を一人で負った」、と言う部分を俎上に挙げ、そのような理解はパウロ書簡(特にロマ書)には見当たらない、と主張しています。

 これは釈義とは別な神学議論で言うと、「教会によって民族的イスラエルの役割は取って替わられた(だからイスラエル民族の歴史における宗教的意味は最早なくなった)」と言う解釈(スーパーセセッショニズム)に関わってくるものです。

 フルタド教授は「新約」後も、イスラエルとの契約はなくならず、「二つの契約」は並行して継続される、と言う観方に否定的な点ではライトと同じですが、民族的イスラエルの意義が全然なくなったわけではない、と言う点でライトのロマ書9-11章解釈をチャレンジします。

 フルタド教授はライトの解釈(イスラエルの役割がイエス一人に集中して代理される)がロマ書2章25-29節の解釈から大きく影響されたものではないか、と疑問を投げかけています。
    It’s clear that for Wright his reading of Romans 2:25-29 is crucial to this notion that the oneness of the people of God cannot accommodate a continuing ethnic entity of “Israel”.
イエス・キリストによって実現した「アブラハムの家族」が一つである以上、イスラエルは教会と民族的イスラエルに二分されない、と言うことでしょうね。

 フルタド教授は、民族的イスラエルは教会と並存しながら依然として約束の実現を待っている、と言うのがパウロの観方だ、とロマ書解釈でライトに対抗します。
To be sure, their respective identities were to have no negative impact upon accepting one another, for they were all “one in Christ Jesus” (Gal. 3:28).  But along with that oneness there remained (for Paul) the significance of “Israel” as fellow Jews, who were (as he saw it) heirs of divine promises (Rom 9:4-5).  Although at present, most of his fellow Jews were “enemies” (so far as concerns the gospel), they were, nevertheless, “beloved” by God, whose gifts and calling were irrevocable (11:28-29).

 残念ながら小嶋はまだPFGを持っていないので、フルタド教授の提出している疑問がPFGにおけるライトを正確に解釈したものかどうか判定できません。

 しかし聖書の引用箇所だけで言うと、「イスラエルの不信仰=失敗は、イエスの出現と福音宣教の結果」であって、イスラエルの失敗がメシア・イエスを生じさせたのではない、と言うポイントはどうも「ライトのグランド・ナレーティブ」の読み方を時間軸と逆行して読んでいるように思うのです。

 あるいはフルタド教授は(ライトの解釈に対抗するために)ロマ書11章の解釈からスタートしてパウロのナレーティブを構築しようとしているのではないか、とも思えます。


 既にお持ちの方はどんな感想をお持ちになるでしょうか。

 では連載はまだ続いているようなので、次回に。

  

2014年4月5日土曜日

最近の日本語ブログ圏における「ライト」に関する話題

 ここ1-2年でN・T・ライトが話題にされることが増えてきたように感じる。

 少しずつ(もともとライトを読んでいた方々が)それをブログなどで出すようになってきたのだろうか。

 恐らくライトについて一番早くにブログで取り上げていたのは「のらくら者の日記」ではないかと思うが、先ずは最近の記事を紹介しておこう。
「欧米では、仮説を打ち立てる学者の方が尊敬される」(和田秀樹氏)。確かにそうだと思う。だからN. T. ライトも尊敬されるのだろう。ペテンでないとの確信があるならば、小保方さんも圧力に屈せず、論文取り下げは最後で最後の決断とした方が良い。

「ポストモダンはモダンの否定ではなく、その必然的な帰結である」との池田信夫氏の洞察はそのとおり。

そうしてみると、神学の世界も同様だ。神学論文の大半は「研究発表」ではあっても「論文」ではない。皮肉なことに、今日の神学界で「論文」を書いているのは聖書学者だけ、それも N. T. ライトだけかもしれない。(リンク
本当はもっと解説していただけるといいのだが本業がお忙しく、スパッと切り口だけ提供している。
まっそれだけでも面白いのだが。

 ライトの「キリスト教起源」シリーズ(現在までに4巻刊行、NTPG, JVG, RSG, PFG)の重要性を評価する「のらくら者の日記」さんがいる一方で、ライトの著作のうち「より一般的」なものを評価している「どこかに泉が湧くように」さんがいる。
  明日からはマルコによる福音書の学びが始まります。私は、トム・ライト(Tom Wright)の MARK for EVERYONE(SPCK/WJK)を、個人的なガイドにするつもりです。新約聖書の全巻が完結しているライトの ……for EVERYONE シリーズは、「万人のための」とうたわれているように、専門的な解説を避け、読みやすさが心がけられています。ただ、ウィリアム・バークレーの建徳的なシリーズのように、説教者にすぐに役立つといった性格のものではありません。
 
 時にはライトの解釈を理解するためには、彼の聖書全体の理解や黙示的な御言葉の読み方を知る必要も感じることもあります。私自身は、こういう意味だろうと納得していた御言葉が、思いがけない光に照らされて——ライトの解釈を鵜呑みにするかどうかは別にして——とても考えさせられ、時にはまったく違った御言葉の理解に導かれることもあります。

 最近、必要があって、ルカによる福音書を調べる機会がありました。何冊かの詳しい注解書から学ぶこともありましたが、最も目を開かれ、今もそのことを考えさせられているのは、ライトの LUKE for EVERYONE の理解でした。毎日のデボーションのために、すべてを読むのは難しいでしょうが、折に触れてライトのマルコに目を通すのもこれからの楽しみです。(リンク
「どこかに泉が湧くように」さんのような方でもそうであるように、ライトが一般向けに書いたものであっても、基盤となっている解釈学的枠組みを理解していないと、十分に当該箇所で註解されている意味を汲み取ることが出来ない、ということもままあるだろう。

 今年は少なくとも1冊はライトの邦訳が出る予定だが、翻訳中のNTPG(第一分冊)のものも含めて、今後ライトの著作が次々と出てくれば、やはり何かしら「ライト入門」のようなものが必要になってくるだろう。

2014年4月3日木曜日

ライト入門、のようなものをアップしました

リアル読書会のメンバー、関係者には配布したのですが、リバイバル・ジャパン誌(現在は月刊船の右側)に掲載された文章を、編集長の谷口さんにネット掲載許可をいただきましたので、ここにリンクを貼らせていただきます。

自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、N.T.ライトを中心に
 [※リンク切れしていましたこちらに小論を全文掲載しました。]

何しろN・T・ライトについて日本語で読めるものはまだまだ少ないので、こんな文章でも少しは役に立つかと思って・・・。

何かご感想などあれば、お寄せください。
小嶋

2014年3月30日日曜日

どれを読んだらいい?

先日ある相談を受けた。

仮にその方をAさんとしておこう。

Aさんとはかれこれ1年以上の知り合いである。
Aさんは現在キリスト教主義学校の学生である。

今から1年以上前、Aさんからの最初の相談は、「まるっきりライトのものを読んだことがないのだが、(また英語でさくさく読めるわけでもないが)、何かライトの書いたもので手頃なものはないだろうか」、というものだった。

それ以来何度か読書ガイダンスみたいな相談を受けた。

先日受けた相談をここに紹介して、小さなライト読書会が、あるキリスト教主義学校で始まっていることと、「ライト読書ガイド」の一例を書いてみたい。

以下にAさんからのメール文章を要約し(しかし大胆に編集・改変して)、更に『インタヴュー形式』に翻訳した上で、簡単な「ライトの『救済論』読書ガイド」としてみたい。

Aさん:
またご相談させてください。
今度学校の方で組織神学の「救済論」の授業が始まるんです。
多分カルヴァン主義の立場からの救済論だろうと思います。
でも自分は、カルヴァン主義の救済論と言っても、今までちゃんとその系列の本を読んだことがないのでどうしたもんかなー、と思っています。

小嶋:
Aさんは確かご出身の教会はウェスレヤン系だったよね。

Aさん:
えー、確かに母教会の牧師はウェスレヤン系の神学校を出ていますが、自分としては穏健なカルヴァン神学の影響を受けているのではないかと思っています。

小嶋:
えーそうなんだ。しかしある程度まで(プロテスタントの中の)どの神学的立場から影響を受けているかは分かるが、それがどう言う神学的内容なのか説明しろ、となるともう一つはっきりとしない、そんな感じですかね。

Aさん:
ところで、ジョン・マーレーの「キリスト教救済の論理」をご存知ですか。
やはり自分が影響を受けた母教会の牧師の立場である穏健なカルヴァン神学の救済論を理解することから始めるのがいいかなと思っているのですが。

小嶋:
うーん、たしかジョン・マーレーの本は何か1冊持っていたと思うけれど、それがその本だったかどうかはよく思い出せないなー。どっちにしても英語の本、原書だけれどね。
ところで「オルド・サリューティス(ordo salutis)」知っている? 日本語だと「救いの順序」って訳されていると思うんだけど。

Aさん:
えーとどうかなー。多分聞いたことないと思いますけど。
ところで小嶋先生、先日の「ライト読書会案内」で、
    既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
と書いているのですが、やはりライトの「救い」の理解はカルヴァン神学とは違うのでしょうね。その違いも知りたいと思っているのです。

小嶋:
今までライトを読んだ中で、「救い」に関してはどんな事柄をカバーしましたか。

Aさん:
そうですねー、これまで「天国」や「義認」については多少はかじってきたとは思いますが・・・。
やはり断片的でしたね。ですから、ライトがキリスト教の救いをどのようなものとして捉えているか、その本丸を知りたいわけです。


と、ここまではある程度「インタヴュー形式」にするためかなり編集した箇所もありますが、以下が小嶋の回答そのままです。
そんなことも考えて「オルド・サリューティス」をベースに選定しました。
救済論を組織神学的に展開する時、大抵この「救いの順序」を使って叙述されます。
これはカルヴィン系もウェスレヤン系も共通です。
ですから先ず「オルド・サリューティス」に慣れることが前提かな。

で、ライトですが、彼のスタンスは「聖書」が先で、神学的伝統(カルヴィン系、ウェスレヤン系、その他)はその後です。

で結論から言うと、この論文です。
http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm

そしてニュー・パースペクティブとかニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(略してNPP)が目下の論争ポイントで、(途中略)

ライトのJustificationはパイパーの批判に対する反駁として書かれた本ですが、依然としてニュー・カルヴィニスト系の人たちからの批判は絶えません。
 
その一例としてライトの上記論文を批判分析したブログ記事を紹介しておきます。余裕があれば読んでみてください。

http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2007/07/analysis-4-bishop-nt-wrights-ordo_02.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/08/wright-and-righteousness.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/07/wright-in-general.html 
 
三つ挙げましたがそのまま優先順位と取ってもらって結構です。オルド・サリューティスをメインにしました。

ついでにこのライト→ヘルム→バードの流れで以下を紹介しておきます。

http://euangelizomai.blogspot.jp/2007/07/nt-wright-paul-helm-and-ordo-salutis.html
と言うわけで、Aさんは今頃これらの論文を読んでいることと思います。

それにしても小嶋が主宰する(リアル)ライト読書会の他に、このような学生たちのライト読書会が出来ているなんて、嬉しいですね。

2014年3月24日月曜日

Jewish Creational Monotheism: BW3's Take on PFG

I'm lately blogging somehow about monotheism and high christology by way of introducing PFG review articles.

This morning I found in BW3's blog yet another post discussing the topic from PFG.

But first, this is what BW3 thinks the important argument for monotheism in PFG:
Those who wish to argue that Christianity is not a monotheistic religion will have to come to grips with Tom Wright’s recent massive tome entitled Paul and the Faithfulness of God particularly the first major section in Part Two where he discusses early Jewish and early Christian monotheism at great length (over 150 pages worth).
and he goes on to make, basically, 2 key points.

1. The Israelites monotheistic affirmation is NOT about its internal nature but about affirming their God, YHWH, the only one god who made the universe, against polytheisms (esp. "any and all forms of dualism") of their surrounding nations.

2. This, in Wright's word, "creational monotheism," is the framework in which we should understand what Jewish and Gentile followers of Jesus believed about his deity. So
...Jesus was never seen as a second deity alongside of God the Father, or a human or an angel promoted to divine glory by means of the resurrection. He was on the Creator side of the ledger when the universe was made says John 1, and he made the universe with God the Father...
So my question is exactly when was Jesus firmly established as with the One God of the universe, YHWH, by the early followers?

Historically speaking, depending on the synoptic gospels, Jesus was held by the disciples, first as the eschatological prophet (mighty in words and deeds), and then (or at the same time) the Messiah, and finally as the Messiah and Lord (co-equal with the Creator God) after Easter, though there was a brief period of loss of faith between the death and the post-Easter appearances.

And my next question is exactly when and how was this Jesus-included creational monotheism "traditioned" by the first followers?

Is the brief summary gospel statement in I Corinthians predicated on the creational monotheistic framework? And since that already-presupposed monotheistic framework came to be in need of explicit expression later when the gospel message was brought to the Gentile world with less and less Jewish biblical background, was the Trinitarian formula (or its near equivalent) surfaced on the scene as in the Apostle's Creed?

2014年3月22日土曜日

(リアル)ライト読書会レポート

今年1回目の読書会。
(2014年3月22日、巣鴨聖泉キリスト教会の隣、活水工房ティールーム)

参加者は小嶋も含めて4名でした。
(写真も撮ったのですが、2枚ともとんでもないピンボケで使い物になりません。)

予定していて来られなかった方や、来ようとしていたのだが仕事が入ってしまって、と言うことで久し振りのこじんまりとした会でした。

最初にゆったり時間を取って自己紹介から。

それからテキスト(A4、5ページ)を段落ごとに区切って、内容チェック、キーワードの解説や理解のポイント確認、と言う風にして進めておよそ1時間20分ほどで終了。
キーワード: actors, eschatology, the eschatological drama, the Temple, the new exodus, YHWH return, vocation
一応大事な部分だけ読み上げました。
以下その部分を抜粋してみます。
Jesus believed it was his vocation to bring Israel's history to its climax. Paul believed that Jesus had succeeded in that aim. Paul believed, in consequence of that belief and as part of his own special vocation, that he was himself now called to announce to the whole world that Israel's history had been brought to its climax in that way. When Paul announced `the gospel' to the Gentile world, therefore, he was deliberately and consciously implementing the achievement of Jesus. He was, as he himself said, building on the foundation, not laying another one (1 Corinthians 3:11). He was not `founding a separate religion'. He was not inventing a new ethical system. He was calling the world to allegiance to its rightful Lord. A new mystery religion, focused on a mythical `lord', would not have threatened anyone in the Greek or Roman world. `Another king', the human Jesus whose claims cut directly across those of Caesar, did.

Jesus was bringing Israel's history to its climax; Paul was living in the light of that climax. Jesus was narrowly focused on the sharp-edged, single task; Paul was celebrating the success of that task, and discovering its fruits in a thousand different ways and settings. Jesus believed he had to go the incredibly risky route of acting and speaking in such a way as to imply that he was embodying the judging and saving action of YHWH himself; Paul wrote of Jesus in such a way as to claim that Jesus was indeed the embodiment of the one God of Jewish monotheism.
最初に参加者のお一人から、「どう言う意味でイエスとパウロがintegrateされているのか、知りたい」、との要望がありましたがこの二つの段落でほぼ見当が付けられると思います。

それから二つ目の段落の最後に下線をしたところは、「ハイ・クリストロジー」と「ユダヤ教唯一神観」とがどのように歴史的に形成されたのか、と言う問題に関わる、ライトの福音書資料から跡付けられる「史的イエス探求」による「下からのキリスト論」を圧縮して提示しているものと言えるでしょう。
鍵となる概念はイタリックしたようにembodyと言う受肉の歴史、と言えるでしょう。

※キリスト論についての歴史的アプローチとしては、原始キリスト教史におけるイエス・キリスト崇拝の実際的表現を証拠としてアプローチするラリー・フルタド教授のLord Jesus Christのようなものと(史的イエス探求に懐疑的なカトリックの岩島神父はこちらのアプローチを高く買っている。参照、史的イエスと史的キリスト?)、ライトのように福音書からそのまま再構成するアプローチがあるように思う。リチャード・ボウカムもキリスト論についてのまとまった論考を準備しているらしいが、恐らくYHWH's unique identityの中にイエスが組み入れられる、というラインで追跡しているだろうと思う。

2014年3月21日金曜日

フルタドのPFG書評2

前回、ラリー・フルタド教授(エディンバーグ)が御自身のブログで始められた、ライトのPFG書評のことを少し紹介しました。

今回はシリーズ2本目の記事から、特にフルタド教授が釈義的に疑問としている点を拾ってここにメモしておきます。

一つ目のポイントはパウロはイエスを、「人として、受肉して(イスラエルの民の許に)帰還したヤハウェ」、つまりフルタド教授が「イエス」と「ヤハウェ」を区別する概念として用いるダイアディック(“dyadic”)と比べると、より「イエス」と「ヤハウェ」の同一性が高い見方になるのではないか、と指摘します。
But, to engage critically some specifics, I really don’t see evidence in Paul’s letters of an explicit emphasis that Jesus is the “return of YHWH” embodied and in person.
次は新約聖書時代における「ハイ・クリストロジー」がどのように元となるユダヤ教「唯一神観」の変異として出てきたか、に関わるパウロの貢献度についてです。
Wright’s treatment seems to me, however, to credit Paul with a lot in the formulation of this “mutation”.  But I wonder if this is misjudged.
フルタド教授は、ライトは余りにもパウロをクリエイティブな神学者とし過ぎていないか、パウロはもっと先行する伝統に拠っているのではないか、と指摘します。

2014年3月18日火曜日

フルタドのPFG書評開始

ライトのパウロ研究に関するマグナム・オパス(主著、大著)となるPaul and the Faithfulness of Godについての書評は、このブログでも紹介した通り何人もの学者仲間たちが行なった(ウィザリントンはまだ継続中。現在シリーズ24回目がアップされている。)

今度はラリー・フルタドの番だ。リンク

ライトはそのアカデミック・スタンスが内容的にはかなり保守なのに、学友であったマーカス・ボーグやジョン・ドミニク・クロッサンなどとの対話を厭わない、オープンな学者だ。

しかし盟友と言う間柄もある。
最近は少々ぎごちなくなった感があるリチャード・ヘイズなど。

ラリー・フルタドとの距離はこの記事にもあるように「信頼関係」がベースにあるようだ。
しかし昨年Theologyと言う専門誌から書評を頼まれ、1600ページを超える大著に対し与えられた語数(字数ではない)1800と言う極めて限られた制約の中で賞賛の言葉だけでなく、幾つか疑問点や見解相違点も盛り込む、と言う仕事を果たしたようだ。(雑誌の出版はまだ。)

当然盛りきれなかった事柄はかなりあるようで、それが今回の自分のブログでの投稿となったようだ。

最初にフルタドが取上げたポイントは「義認」だ。

As an example, I found stimulating his emphasis that in Paul the “justification” of believers is essentially God’s eschatological judgment, extended now to those who put faith in Jesus’ vindication expressed in God raising him from death and exalting him to heavenly glory.
この下線部分は、既にジョン・パイパーとの論争で著わされた


Justification-Gods Plan and Pauls Visionでも示されたように「現在の義認と終末の義認との関係」にかかわってくることだ。

さてどんな書評になるか楽しみに読ませてもらおう。

2014年3月2日日曜日

2014年度(リアル)読書会、その2

ちょうど3週間前となりました。
今年第1回目の読書会のリマインダーです。 

日時:2014年3月22日(土)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会(人数によって工房ティー・ルームか会堂)

課題テキスト: Who Founded Christianity: Jesus or Paul?
http://www.beliefnet.com/Faiths/Christianity/2004/04/Who-Founded-Christianity-Jesus-Or-Paul.aspx
(※テキストはドキュメントとしてではなくウェッブサイトに数ページに渡って表示されています。面倒な方のためにPDFにしたもののリンクを以下に貼っておきます。
出席なさる方はなるべくこの文書をお用いください。討論の時ページ数など統一できますので。)

Who Founded Christianity: Jesus or Paul?

さて討論のトピックとしては
①イエスがそもそも教祖かどうか
 これに対する議論として、ライトは既に書かれたイエス研究書の要約を提示します。
 すなわちイエスの自己理解、自己の使命理解です。
 神学的には「神の国」の一世紀的文脈での実現(イスラエルの歴史・ストーリーのクライマックス)はどのようになされたのか、と言うことになるかと思います。

②パウロはイエスの「神の国」宣教をどう受け継いだのか
 ライトはしばしばこのような議論でイエスとパウロが並列的に比較され分析されるのに対し、一つのストーリーの展開(クライマックス→インプリメンテーション)と言う形で統合的に理解しようとします。

 既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
 
 もちろんライトの歴史神学的解釈が細部まで正確であるかは議論の余地があると思いますが、大筋においてユダヤ教(唯一創造神、選びと契約、終末論)からキリスト教がどのように出てきたのか、旧約聖書と新約聖書の繋がり、等の問題を整理するかなり程度のよい議論が提供されていると思います。

 是非熟読して疑問点などを絞り込んで読書会にご参加いただければ幸いです。

 なおご出席の方は3/19までに小嶋までご連絡ください。

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

2014年2月26日水曜日

イエスの復活の身体③

「続く」とした後大分経ってしまった。

前回ライトが復活後のイエスの身体の状態を指す造語として使用した、トランスフィジカリティーについて紹介した。

まだ訳語が見つからないのでカタカナで表記しておく。

ルカ文書では、イエスは復活後40日間弟子たちに現れた後、「天に上げら」れて見えなくなる。
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11節、新共同訳)
昇天から着座と言う事になるわけだが、ライトはSimply Jesusで、「イエスが天にいることによって、地上に遍在することができるようになる。もし地上に留まっていれば、そういうことは出来ない。イエスの昇天とは、イエスが地とは隔絶した天に消えていなくなるのではなく、天において主として地を統治をなさるためだ」と言う趣旨のことを書いている。

では天におられる間、イエスのトランスフィジカリティーはどのように保たれ、また「遍在」はイエスのトランスフィジカリティーとどのように関わってくるのだろうか。

イエスの復活の身体① では、イエスのトランスフィジカリティーはSimply Jesusでも継続されている、と書いたが、今読んでみたが発見することは出来ない。
どうやら視界から消えているようだ。

今回イースター後のイエスのトランスフィジカリティーを考える上で念頭にある聖書箇所は使徒言行録の二箇所だ。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(使徒言行録3章21節、新共同訳)
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(使徒言行録7章55-56節、新共同訳)
かなり強引なこじつけになるかもしれないが、敢えて補助線として「ライティアン」な筋でまとめるとこうなる。

①復活したイエスは「新しい神殿」として天と地を結びつける存在である。

②天と地は時空間的連続の中にはないが、「扉を隔てて行き来できるような異なる次元の領域である。」(Simply Jesus)

③復活したイエスは天に上げられ、そこから地を統治する。

④最終的に「天と地が合一する時」まで、すなわち御子がすべての統治権を父に返還するまで、御子・イエスは天に留まって統治を完了しなければならない。(Ⅰコリント15章24-25節)

イエスのトランスフィジカリティーは、ではどんな意義があるのか。

今回は取上げないがその身体性はパウロの回心体験が「霊的」なものではなく、復活のイエスの証人として目撃者証言者のリスト(Ⅰコリント15章)に加えられている点でも重要である。

ステパノの幻はそのパウロのような目撃者証言とはみなされていないようだが、クリストファー・ローランドがThe Open Heavenで指摘しているように、「真正な幻体験」とすると、イエスのトランスフィジカリティーを例証するものと受け止められるのではないだろうか。

2014年2月15日土曜日

「死後のいのち」再考

現在、フェイスブック読書会の方は、
Surprised By Hope、の10章に入ったところです。

進行速度は大分落ちました。

この本を紹介する動画は幾つもあると思いますが、今回はカルヴィン大学で収録されたインタヴューを紹介したいと思います。


2014年2月1日土曜日

ライトとヘイズ

マイク・ゴーマンが司会するこのヴィデオで、ライトとヘイズがガラテヤ2章と、ローマ8章の釈義について討論している。



見ていると、ヘイズは少しナーバスに見える。

このブログでも紹介したが、二人の間には新約聖書、特に「史的イエス」アプローチに関して見解の相違があり、ヘイズの方がそれをまだ引きずっているように見える。

一点紹介すると、「義認」に関して、ゴーマンが「義認とパーティシペーション」についてヘイズに質問したのに対し、ヘイズはガラテヤの文脈では二つは同義(synonymous)、と発言したのを捉えて、ライトが二つは同義ではない、勿論二つは緊密に関係しているけれども、義認は区別されなければならない、と指摘していた点だ。

どちらにしてもこのように二人が同じテーブルについて討論している姿を見るのは興味深い。

2014年1月23日木曜日

The Founder of Christianity, Paul or Jesus?

先日案内した読書会の課題テキストのタイトルが、
Who Founded Christianity: Jesus or Paul? 
となっていますが、

上記のような標題のインタヴューが他のブログ、リンク、に載っています。

インタヴュイーは、デーヴィッド・ウェナム。

GJM: Who really was the founder of Christianity? Was it Paul or Jesus of Nazareth? Where does the evidence point?

DW: Of course, it was Jesus! Paul saw himself as a ‘slave’ of Jesus Christ, and the idea of Paul founding Christianity makes no sense at all: it was a vibrant growing movement before he ever joined it; indeed that is why he tried to eliminate the movement. And after his conversion he was in no position to turn Christianity into a new religion, even if he had wanted to, since he was an outsider not at all involved in the Jerusalem leadership of the church. But he would not have wanted to change Jesus’ religion, because he discovered its truth on the Damascus Road and was personally overwhelmed by the love of Jesus.

2014年度(リアル)読書会、その1

今年度の第1回ライト読書会のご案内です。

ライト読書会常連の皆様、
N.T.ライト・セミナーに参加したことのある皆様、
ライトに関心ある皆様、
日時:2014年3月22日(土)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会(人数によって工房ティー・ルームか会堂)
課題テキスト: Who Founded Christianity: Jesus or Paul?
http://www.beliefnet.com/Faiths/Christianity/2004/04/Who-Founded-Christianity-Jesus-Or-Paul.aspx
昨今「キリスト教」に対する日本における一般大衆の関心はかなり粗っぽい二択の問題のような取り上げ方が依然として主流のように感じます。

今回の課題テキストは、ライトのパウロ研究史の上では最初期の小著と言える、
What Saint Paul Really Said: Was Paul of Tarsus the Real Founder of Christianity? (1996)
からの抜粋です。

内容的にテーマがはっきりしていて、しかも分量が少なくて済む。
そんな目安で課題テキストを選んでみました。

既にご承知の方も多いと思いますので、内容理解に時間を割くよりも、このテーマに沿った相互の理解の整理や議論ができれば、と言う狙いです。

どうぞご関心がある方、都合のつく方、ご参加ください。

※なお会場整備のため出席なさる方は事前にお知らせください
問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

2014年1月20日月曜日

PFG書評シリーズ ベン・ウィザリントン

ここのところライトのPaul and The Faithfulness of Godの書評をブログ等で展開している方々のものをちょこっとずつ紹介している。

今回はベン・ウィザリントン(アズベリー神学校新約学教授)のBible & CultureブログでのPFG書評シリーズ、その④から引用する。(リンク
Tom is not merely a global thinker, he is a longitudinal thinker and in most major things he has not changed his mind much in the last two decades and so he can say things like this and mean them. Not many persons, including not many scholars, have that degree of orderly sequential mental processes and convictions over such a long stretch of time.
これは結構重要なポイントだと思う。

ライトは考え抜いたことを書き物に著し、その後膨らましたり、展開したり、色々発展はするが、基本的にぶれない、と言うこと。

これはウィザリントンが「過去20年」と言っているが、もっと長いと、小嶋は考える。

いずれにしてもPFGは他の先行する研究書で展開された議論に基づいていることを弁えることは、PFGと言う大著を踏破する上でも助けになるだろう。

PFGノート

これもライトのPaul and The Faithfulness of Godの書評まで行かないけど、ちょっと面白い読み物。

ライトのウィットの効いた文章を拾い上げている。

Wright's Wit

That, I propose, is how we should read 11.26a; kai houtōs pas Israēl sōthēsetai, ‘and in this way “all Israel shall be saved”‘. At this point an exegete arguing my present case may well feel like Paul as he quotes Elijah; ‘I’m the only one left!’ It is not true, of course. There may not be seven thousand, but there might be seven or more out there who have not . . . well, perhaps we had better not complete that sentence. (p. 1239)

2014年1月12日日曜日

PFG書評 ダグ・ムー

昨年11月に出版されたN.T.ライトの、The Faithfulness of God、の書評がかなり出揃ってきた。

スコット・マクナイトのジーザス・クリードが発売前から開始していたと思う。

そんな中ライトとは少し距離を取る様に思われるダグ・ムーがゴスペル・コーリションで書評を出した。リンク

ここでの紹介は、ただちょっと「おやっ」と思ったことや、にやっと笑わせられた箇所を引用するにとどめる。
The result is a “Pauline theology” unlike any we’ve seen before—and a long, complex, at times repetitive book that’s extraordinarily difficult to review. (What possessed me to agree to do this? I asked myself more than once!)
これにはにやりと笑わせられた。
当方購入もしていないので偉そうなことは言えないが、
In an attempt to tame the monster, I’ll focus somewhat narrowly on Wright’s overall method and on key elements in his outline of Paul’s theology.
などと続いて書かれると、自分で読むより、書評を沢山読む方がいいかもしれない,などと不埒なことを考えてしまう。
...I want to express my gratitude to Wright for what he’s done in these volumes. The astonishing scope of this work, as Wright “locates” Paul’s theology within his first-century world, is a breath of fresh air in an environment in which academics learn more and more about less and less—until they know everything about nothing. Wright’s resolute concern to make sense of Paul in his historical context—a fundamental value that pervades all his work and which, he suggests, is the essence of the “new perspective on Paul” (460)—is a virtue in his work that hasn’t always been sufficiently appreciated by evangelicals.
これはライトに対するなかなかフェアーでジュディシャスな評価であり、賛辞と言ってもいいくらいだ。

次の部分も目についた。
With the possible exception of the significance of the “return to Zion” theme and Messiah as an incorporative idea in Paul, I find Wright’s chapter on Paul’s redefinition of God to be compelling.
ムーが「除外」した二つのテーマはライトにとっては「取って置き」のものだが、アーギュメントそのものには説得性がある、と見ていることは評価される。

これは最近読んだマイケル・ゴーマンなどが取ってるアプローチだが、ムーは釈義的にライトの「禁欲」を評価しているのだろう。
I strongly endorse Wright’s clear and convincing case for a strictly forensic sense of justification against those who would expand the concept to include transformation or (the more recent buzz word) “theosis” (956-59). 
以上ほんの少しだけ引用しただけだが、今ネット上で読めるPFGの書評としては出色で、なかなか読み込んだものと言えるのではないか。必読だと思う。
 

2014年1月8日水曜日

マイク・バード「福音主義神学」

オーストラリアの若手新約聖書学者、マイケル・バード氏が先頃著した

EVANGELICAL THEOLOGYが話題です。

新約聖書学者が『福音』をキータームにして組織神学にトライしています。
まだ入手していませんが、きっと面白いものと思います。

色々あちこちで書評が出始めていますが、今日はスコット・マクナイトのジーザス・クリード・ブログでの紹介を紹介します。


ここでのマクナイトの関心は「キリスト論」ですが、以下の箇所を抜粋して紹介しています。
The gospel preaching in the NT nowhere makes explicit that Jesus is a divine person, coequal with the Father in being from all eternity, sharing in one divine substance.
そして少しコメントを挟んで、次の部分を引用します。
What the gospel does make clear is that the epochal saving action of God is executed in his Son in such an intense way that the identity of God must now be (re)defined in light of the mission of the messianic Son. The gospel is a story about God, and the story within the story is Jesus the Messiah. In our God-storied gospel, Jesus is not a human being who was commissioned to speak and act on behalf of God; rather, Jesus speaks and acts from a viewpoint that represents God from the inside (460).
下線のように、キリスト論がギリシャ思想の「本質と属性」のような議論から、「神論」自体の再定義へと向かうアーギュメントが斬新と言うか、新約聖書学者が従来の組織神学的議論にチャレンジしている面白い部分ではないかと思います。

そしてこれはまさに、N.T.ライトが「キリスト教起源と『神』問題」で提示している議論でもあります。

それでマクナイトはバードのこのような試みの下敷きにライトの影響があることを見ています。

This says a whole lot, I have to admit, and it changes the discussion from “Is Jesus God?” to “How is Jesus God?” Bird then sketches the Nicene-Constantinopolitan Creed and the Reformation discussions, but pulls us back to two NT facts: Jesus is Lord and the identification of this Lord with Israel’s God. The fact of the incarnation, not the content, is the presupposition of NT theology. I do think he could have focused more on this “identity” issue more, but I see this chp as a step forward in our deity-of-Christ discussions. It’s Reformed orthodoxy revised by Bauckham and NT Wright.

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