2013年7月31日水曜日

ツィッターから拾うN.T.ライト(読書会)

ちょっと遊んでみました。
「ツイートで綴るN.T.ライト(読書会)」
(過去のリアルのライト読書会を一部メモする意味も兼ねて・・・。)

もうこの時から3年経とうとしているんだ・・・。




と、ここまででほぼ2年前。


と言ったところでしょうか・・・。

2013年7月29日月曜日

ロックンロールキリスト教

たまたま、N.T.ライト読書会ブログのツィッターのTL(タイム・ライン) を見てたら、くめしゃんさんが

で思い出した。
ライトの使う有名な挿入用エピソード。
何回も使っている。

デューク神学校コンボケーションでのレクチャー(音声ファイル)の方から紹介すると、
1 Gray Lecture (11:00 AM)

これの26分30秒を経過する辺りに入っています。

こちらは説教です。Resurrection and Rock'n'Roll
The taxi driver looked back at me in his mirror. His face was a mixture of amusement and sympathy. We were stuck in traffic and he’d asked me, as they do, what I did for a living.

‘Ah,’ he said, ‘you Church of England people’ (having told me he was a Roman Catholic himself). ‘You’re still having all that trouble about women bishops, aren’t you?’

I had to admit that that was indeed the case.

‘The way I look at it,’ he said, ‘is this: if God raised Jesus Christ from the dead, all the rest is basically rock’n’roll.’
まっ少し相違はありますが・・・。
ポイントは、
St Paul put the same point negatively: ‘if Christ is not raised, your faith is futile, and you are still in your sins.’ But the positive point is this: if Christ has been raised, then all the rest is, well, sorted out. It’s basically just rock’n’roll. God has won the decisive victory over the forces of darkness, and he will win the final victory that results. Everything else can in principle be worked out.
つまり「イエスの復活」は勝利宣言みたいなもんで、それを受けて「お祭り状態」みたいになっちゃった。
だから「ロックンロール」だ、とタクシーの運ちゃんは表現したのでしょう。

まっ個人的には若い時は少しはロックは聴きましたが、ある年齢からはクラシックになっちゃいましたのでもう一つピンと来ないのですけどね。

2013年7月24日水曜日

創造された天(国)

ライト教授はSurprised By Hopeを書く前から西洋キリスト教、及び一般大衆に浸透した「天国観」が聖書のテキストとは大分違うものであることを度々指摘してきた。

ライト教授によれば、大衆化された「天国観」とは
People believe they go to heaven when they die.
Heaven is a place people go to when they die.
のような表現で説明される。

さらにライト教授がこのような「天国観」を修正し、より聖書的な言語に近づけるために使うフレーズが
Life After "life after death"
である。

一旦人々の頭の中に定着した「天国」のイメージはなかなか変更しがたいものだ。
しかし聖書学者たちは聖書のテキストに即して、この大衆化された「天国観」を修正しようと努めている。

そんな聖書学者の一人、Paula Gooder


の本のタイトルがそのものズバリ、HEAVENだ。


ポーラ・グッダーのHPには天国や地獄、死生観などについて聖書から解説した音声ファイルやYoutubeビデオへのリンクがある。

以下に一つ紹介する。

 

 
ここで一箇所だけ拾って引用しみよう。 多少なりともポーラの言わんとしていることを感じることができるかもしれない。
Heaven, therefore, is not an eternal realm, far, far away from earth.
Heaven is a spacial created realm, very very close to earth, created to be alongside earth.
(※まっちょっとディクテーションは完璧ではないかもしれません。あしからず。)

2013年7月22日月曜日

『天』と『地』は二つで一つ

かなり長い間(主に)西洋キリスト教のイマジネーションを支配してきた二元化し、切り離された「天地観」に対し、ライトはその著作や講演の至るところで再考を促す。

キリスト者も(キリスト者ではなくても、そのような西洋キリスト教「天地観」の影響下にある人たちにも)、ライトは新鮮な(ライトの大好きな形容詞、"fresh")捉え方、理解の仕方を提案する。

以下は長くなるが引用です。(ひとさまの引用の孫引きなので、小嶋自身はチェックできません。あしからず。)
Acts 1:9-10のコメンタリー(Acts For Everyone)のようです。
In the Bible, heaven and earth are the two halves of God’s created world. ... Talking about ‘heaven and earth’ is a way, in the Bible, of talking about the fact, as many people and many cultures have perceived it to be, that everything in our world (call it ‘earth’ for the sake of argument, though that can be confusing because that is also the name we give to our particular planet within our particular solar system, whereas ‘earth’ in the Bible really means the entire cosmos of space, time and matter) has another dimension, another sort of reality, that goes with it as well.
ちょっと()の中の挿入ですが、こう言う風に私たちの住む惑星「地」球と、全被造物における物質的世界に区別して考えるのも興味深いです。
You could call this other reality, this other dimension, the ‘inner’ reality, if you like, thinking perhaps of a golf ball which has an outer reality (the hard, mottled surface) and an inner reality (the tightly-packed, springy interior). But you could just as easily think of earth as the ‘inner’ reality, the dense material of the world where we live at the moment, and ‘heaven’ as the outer reality, the ‘side’ of our reality that is open to all kinds of other things, to meanings and possibilities which our ‘inner’ reality, our busy little world of space, time and matter sometimes seem to exclude.
ここではゴルフボールと言う球体をイメージしながら、「中身」と「外殻」とで一つであるようなものが天と地なのだ、と説明しています。
If these illustrations don’t help, leave them to one side and concentrate on the reality. The reality is this: ‘heaven’ in the Bible is God’s space, and ‘earth’ is our space. ‘Heaven’isn’t just ‘the happy place where God’s people go when they die’, and it certainly isn’t our ‘home’ if by that you mean (as some Christians, sadly, have meant) that our eventual destiny is to leave ‘earth’ altogether and go to ‘heaven’ instead. God’s plan, as we see again and again in the Bible, is for ‘new heavens and new earth’, and for them to be joined together in that renewal once and for all. ‘Heaven’ may well be our temporary home, after this present life, but the whole new world, united and transformed, is our eventual destination.
これは今N.T.ライトFB読書会で読んでいる、Surprised By Hopeで繰り返し強調されているポイントです。

上記の引用が「使徒の働き1章9-10節の註解だとすると、このビデオも参考になるでしょう。

 

2013年7月19日金曜日

オーストラリアでのライト教授

N. T. Wrights Australian Visit sparks respectful arguments on Paul's writings

オーストラリアはメルボルンにあるリドリー大学での、7月16日と17日の会議で、N.T.ライト教授が講演しました。

7月16日・・・Jesus, Paul and the Mission of God’s People
7月17日・・・Paul and the Faithfulness of God

一番上のリンク付きタイトル記事がその講演を要約したもののようです。
The first thing which stood out during his visit was his great intellect. This is a man who will quote Shakespeare alongside the Bible, in German, Greek and English, in a single breath.
と言っていますが、小嶋には最近ライト教授大分シャープさが落ちてきた(なーんて言うと語弊があるから)、角が取れてきた感じですが、依然としてその知性で人々を圧倒する部分はあるようです。
-Justification is not Paul’s primary concern in Romans and Galatians, says Wright. He argues Romans is primarily concerned with the gospel as expressed in Chapter 1:2-4 ( ‘…the gospel he promised beforehand through his prophets in the Holy Scriptures regarding his Son, who as to his earthly life was a descendant of David, and who through the Spirit of holiness was appointed the Son of God in power by his resurrection from the dead: Jesus Christ our Lord.’). Justification is a necessary implication of the gospel, but not the gospel itself. The gospel according to Paul (according to Wright) is Jesus as the crucified and risen Lord. Justification is the outworking of the gospel which gives those who believe assurance.(下線は小嶋)
今年のN.T.ライト読書会ではやはり「信仰義認」に関する論文を読みましたが(報告はここ)、論文が書かれた当時(2005年)はライト教授は長老派(カルヴィン系)からの猛攻撃(?)を受けていたのか、余裕も感じさせましたが、かなり重装備で臨んだ講演でした。

それと比較すると今回の集まりでは、激しいやり取りは無く、普通に応酬はあったものの、極めて落ち着いた穏やかな性格のものであったとのことです。

そう言えば、最近このブログ更新が減ってきたためか、ページヴューが激減。
読者の皆様、どうぞご愛顧のほどよろしくお願いします。

(要するにもっと更新しろ、と言うことでしょうが、なかなかブログを幾つも抱えていると忘れてしまうのです。あー情けない。とついボヤキ。)

2013年7月11日木曜日

パウロと、古代ユダヤ教における『メシア』

N.T.ライトにとって『メシア』が重要な新約聖書神学、特にパウロ思想における概念であることは、ライトの博士論文や、彼の最初の学術論文集である、The Climax of the Covenant に明らかだ。

新約学者の大勢は『メシア』には特別な意味はなく、パウロにおいては単にイエスにつけられた固有名詞だ、とされてきた。
つまりタイトルではない、と言うこと。

Matthew Novensonのプリンストン神学校での博士論文である、
Christ Among the Messiahs: Christ Language in Paul and Messiah Language in Ancient Judaism
(Oxford University Press, 2012)

はそのような一方的な議論に終止符を打つものである、とニジェイ・グプタ教授は書評でコメントしている。

このような研究成果が、ある意味パウロ研究その他での一定の《議論規制》として働くだろうことは、グプタ教授が指摘する通りだと思う。

関心のある方は一読をお勧めする。

(※ノヴェンソンの本自体は74ドルもするから手を出すことはないと思うが、このような「紹介」と「書評」だけでも最新研究の一端に触れられることは、ネット社会の受益者であることを改めて思わせられる。)

第2回N.T.ライト・セミナー ご案内

いよいよ第2回のN.T.ライト・セミナーの対外的案内が始まりました。

第2回N.T.ライト・セミナー

日時:2013年10月9日(水) 午後1時~4時
場所:OCC4階、415号室


拡散お願いします。

2013年7月7日日曜日

ライトの新刊(予定)

先日ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズ第4巻
パウロと「神の誠実(あるいは忠実)」
についてお知らせした。

11月出版に向けて頭にねじり鉢巻をして執筆しているライト教授をイメージするのだが、この大著の他にまだ少なくとも1冊別の本が発刊されようとしている。
驚くべきスタミナと言うか、意欲と言うか、恐れ入る。

その本のタイトルは、
Creation, Power and Truth: The Gospel in a World of Cultural Confusion 


その「イントロダクション」部分(1-11ページ)が出版元サイトで読める。

現在の西洋における文化的混乱状況を三つの要素(①グノーシス主義、②帝国主義、③ポストモダニズム)に絞って分析し、その混乱の中でキリスト者が、教会が、果たすべき(福音を提示するという)役割を、「世界観対立」を通して実践している本のようだ。

この文化的混乱状況を収めるのに、『正統的神学の枠組み』と言う上からのアプローチではなく、聖書テキストの釈義を通して、と言う下からのアプローチを実践しているようだ。
従来と変わらぬライトの神学的アプローチと言えるだろう。

たった11ページのイントロからだが、ライトがこの本を通して取り組もうとしている仕事は何か、ほぼイメージできるのではないかと思う。

「キリスト教起源と『神』問題」シリーズに見るライトの「新約聖書神学アプローチ」は、「一世紀」と言う歴史的文脈を、「世界観」的に再構成して問題を整理統合すると言う性格のものだ、と小嶋は勝手に理解している。

そのライトの手法は(ライトは自分では意識していないかもしれないが)多分に文化人類学の中でも、クリフォード・ギアーツに代表される「世界観」文化解釈(ワールドヴュー・カルチュラル・ハーメニューティクス)と「分厚い描写(thick description)」の手法に結構重なるように思う。

(1,687円と言う値段から想像するに)この小さな本でも、ライトはそのような手法で「西洋における今日の文化的混乱状況」を分析しようとしているのだろうか。

ライトの現代についてのカルチュラル・ハーメニューティクスはどの程度のものか、現代の社会学者や哲学者との対話がどの程度あるのか、あったとしてその背景読書は脚注や文献目録に披露されるのかどうか、・・・興味多々である。

2013年7月2日火曜日

キリスト教の福音の中心:刑罰代受?、地獄?、復活?

アンドリュー・ウィルソン氏が「復活」の最重要性(Ⅰコリント15章)を強調するのに、面白い提示の仕方をしている。

次の三つの命題のうち、もし真実と判定された場合、最もキリスト教信仰にダメージを与えるのはどれか、と聴衆に問いかける。

①イエスが十字架の上で死なれたのは私たちの身代わりとしてではなかった。
②地獄(ヘル)と言うような場所は存在しない。
③キリスト者は死ぬと、魂(ソウル)は肉体から解き放たれて天国に行きそこに永遠に存在する。

答えはもちろん③だ。

そしてⅠコリント15章の講解に入っていく。



Catalyst Festival 2013 - Main Meeting 1 - Andrew Wilson from Catalyst on Vimeo.

なるほど。
そうやって入っていくやり方もあるか。

でもそれだと「ビリーフ(信じている事柄)」中心のキリスト教紹介にはなるね。

2013年7月1日月曜日

FB読書会 2013年6月近況

以前(2012年3月~2013年1月)How God Became King、を読んでいた時には小嶋がディスカッションリーダーを一人でやっていた。
その反省もあって現在読んでいるSurprised By Hope、ではボランティアで何人かの人に順番にやってもらっている。

さて、「6月近況」と言っても、ついここ2日間のディスカッションをルポ的に紹介してみよう。
現在、3. Early Christian Hope in Its Historical Setting、のResurrection and Life After Death、のところを読んでいます。

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pp.35〜40の要約
「復活(アナスタシス)」という言葉が、古代地中海世界の人々、特にユダヤ人にとってどういう意味があったのかということが簡潔に述べられています。

異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、「復活」は死後の世界を意味しない、という点をまず押さえる必要があります。

「誰々さんが復活した」というのは「誰々さんが天国に行った」という意味ではない、ということです。古代の人々は、人が死ぬと霊魂のような存在として生き続けると概して信じていたようですが、体から抜け出た霊魂の状態になることを指して、それを「復活」と呼ぶことは決してなかったのだと。
「復活」とは何かしらのphysicality、「からだ」を伴う甦り現象として古代人に理解されていました。

また、「復活」とは「神になること」という意味でもなかった、ということも大切です。徳川家康が東照大権現になる、というような現象をさして「復活」という言葉が用いられることもなかった訳です。ですからイエスが天の国に行って、そこで神になったと信じられたとしても、それを指して「復活」という言葉が使われることも決して無かった筈です。

ユダヤ人は、サドカイ派のような人々を除けば、たいていは体を持った甦りとしての「復活」を信じていました。しかしその復活とは、「世の終わりに皆が一斉に復活する」という集団的復活(復活するのは義人だけの場合と、義人とそれ以外の全ての人を含む場合、というような見解の相違はありましたが)のことでした。誰かが世の終わりの前に、一人だけ復活するなどという期待や思想は、どこを探しても見られませんでした。またイエスも、そのような特殊な復活があると生前教えた形跡もありません。イエスは弟子たちの「復活」についての因習的理解を変革しようとはしていなかったのです。

そういう訳で、イエスが十字架に架かった時に、「イエスは死んでもすぐ復活するから大丈夫だ」などと考えた弟子は誰もいなかったのです。もちろん彼らもイエスの復活そのものを否定した訳では無かったでしょう。しかし、それが起きるのは「世の終わり」、皆が一斉に復活する時であって、三日の後だなどとは誰も考えませんでした。そのため、イエスが十字架で死んだ時、弟子たちの希望(つまり神の王国の実現)はまさに打ち砕かれたのです。もう終わりだと、誰もが理解したことでしょう
 *********************
これに対するOさんのコメント:
読みやすく、分かりやすく解説をいただき、ありがとうございます。
イエスは弟子たちに、三日後によみがえると伝えたと福音書に書いてありますが、文字通り三日とは受け取らなかった、ということですね。
リーダーの回答:
Oさん、マルコ9:9など、たしかにイエスは生前から自分の復活を予告しています。ライトは学者たちの通説に反対し、この予告は後から福音作家が付け足したものではなく、イエス自身が語ったものだと主張しています。
しかしライトはそれを「復活」の予告というよりも、神が自分をVindication(「義認」と訳されることもあります)してくださる、つまり自分に帰せられた汚名を神御自身が振り払って、イエスの正しさを証明して下さる、とイエスが予告したのだと考えているようですね。自分が文字通り「復活」することについては、イエスは明確に説明することなく、謎めいたサジェスチョンを残しただけだったので、弟子たちはそれに気づかなかった、という風に説明されています。
Oさんの感想:
なるほど。そういう理解ですね。この説をまだ全面的に受け入れられるかはわかりませんが、いろいろと考察してみたいです。
ここでTさんが加わる:
Yさん(リーダー)、イエスの弟子たちがイエスの復活預言を聞いて、終わりの日の復活のことを言っていると思ったというのは、納得できます。そのように考えることはあまりなかったので・・・ 
そうすると、三日目とイエス様があえて明言したことに大きな意味があるのですね・・・
Oさん、
このところはⅡマカバイ記7章を読んでみるともっとピンとくると思います。そこには終わりの日の復活の希望のゆえに雄々しく殉教の死を迎える様子が描かれています。(以下略)
Oさんの感想:
Tさん、解説ありがとうございます。ふ〜ん、初めて聞く、新鮮な視点です。よく考えてみます。
ジグゾーパズルが、だんだんと全体像を浮き上がらせつつ、埋まってくるような感じですね。

Ⅱマカバイ記7章を初めて読みました。家族対するすごい残虐な拷問の場面でショックです。
この書は、たぶん当時のユダヤ人のローマ人に対するレジスタンス精神に影響を与えていたということですね。

この後リーダー、Oさん、TさんのⅡマカバイ記7章に始まる「外典」が余り読まれていない現状についての意見交換が続く。そして、
Oさんの感想:
いや〜、なんとも、素晴らしい。こういう背景がわかってくると、預言書とイエスの時代、イエスの生涯とメッセージが、立体的に立ち上がり、繋がってきて、「聖書の世界、読み方はこうだったんだ〜」と見えてきて、ワクワクしてきますね。
これまでの私にとって、預言書、小預言書は、あちこち素晴らしい御言葉が散りばめられているとはいえ、現実の信仰生活にあまり関係ない、あるいは妖しげな終末論に使われる、もやに隠れた遠景でしかなかったです。
 

と言う訳でこの読書会ならでは議論の深まりと、相互啓発が垣間見える面白いディスカッションが継続中。

読者の方、今からでもまだまだ間に合いますよ。ゆっくり読み進めていますから。
あなたもお仲間に入りませんか。