2013年6月24日月曜日

Scripture and the Authority of God パネル・ディスカッション

昨年第一回目の「N.T.ライト・セミナー」を開催した時、小嶋はライトのScripture and the Authority of God (The Last Wordのヴァージョン・アップ版)から「5幕劇」を紹介しました。(リンク

この本は新約聖書学者としてのライトの主要著作である「キリスト教起源」シリーズのNTPGではそれほどクローズアップされていませんでしたが、ライトの業績が啓蒙主義(モダニズム)とポストモダニズムの思想的問題を意識して進められていることを示すものだと思います。

即ち1970年代の聖書の無誤論論争がモダニズムの土俵でなされていた時点から、その解決・総括を十分見ないままここまで来てしまっていることに対する問題提起であり、キリスト者の実践に深く関わってくる「聖書をどのように読むか」と言う問題の前提となる、「聖書の権威」をどのように再構成(リフレーム)するのかと言う問いに答えるものと位置づけることが出来ると思います。

「大和郷の教会」ブログでは、最近のこの周辺の論争について幾つか紹介して来ましたが(これとか、これとか、これとか、これ )概して論者たちは問題を指摘する方に一生懸命で、ライトのこの本のようにこのimpasseから抜け出せるような建設的戦略を示すには至っていないように感じます。(スミスは社会学者で神学者と言うわけではないので無理からないですが)

幸いにライトのこの本を正面から取り上げてパネル・ディスカッションしているサイト(動画)を見つけましたのでご紹介します。

Vineyard系のキリスト者たちの研究機関のようなものである(まだ良くリサーチしていないので「らしい」と言うことにしておきますが)、The Society of Vineyard Scholarsという組織です。

パネル・ディスカッション動画はここの主催です。

最初のパネリストと言うか、モダレーターのイントロとオーバーヴューは結構いい線行っています。

2番目のCherith Fee Nordlingはゴードン・フィーの娘で確かセント・アンドリュースで博士号を取得しました。
小嶋が現在注目している若手です。そのうちメインステージに登場するかもしれません。
既にMissio Allianceの主事の一人であり、ライトの神学を咀嚼するだけでなくさらに展開しようとしているかなり意欲的な神学者です。(ここのPlenary#2を参照)

この動画でもやはり圧巻は彼女だと思います。自分の考えをアッティキュレートしようと熱っぽく語っています。

3人目はちょっとこじんまりかな、4人目はちょっと「ごにょごにょ」が散見され、熱が下がりますが・・・。

個人的な感想としてはこの組織の動きはなかなか面白いと思います。
何しろ世代が若い、単なるアカデミックなアプローチではない点が興味深いです。
(スカラーに名前を連ねる方々のレベルにかなりバラつきがある感じですが・・・。)

ではどうぞご覧ください。

Plenary #2: Being Human, Becoming Christian: An Embodied Reconciliation Of Heaven And Earth

Presenters: Alan Hirsch, Cherith Fee Nordling, Deb Hirsch, Tory Baucum
- See more at: http://www.missioalliance.org/resources/plenary-sessions-bundle/#sthash.sQGEqHJe.dpuf

Plenary #2: Being Human, Becoming Christian: An Embodied Reconciliation Of Heaven And Earth

Presenters: Alan Hirsch, Cherith Fee Nordling, Deb Hirsch, Tory Baucum
- See more at: http://www.missioalliance.org/resources/plenary-sessions-bundle/#sthash.sQGEqHJe.dpuf


2013年6月22日土曜日

先日の読書会で読んだ論文について

先日、6月8日の読書会で読んだ、Paul In Different Perspectives、ではかなりな重装備での「信仰義認論争」に関する弁明、と言う印象を受けたことを皆で分かち合いました。

そしてその背景を少し皆で推理してみました。

小嶋はリゴン・ダンカン(ファーストネームの発音はちょっと違うかもしれない)かな、と想像しました。

もちろんジョン・パイパーとの有名な論争があったのですがそれは2007-2009年です。
この講演録は2005年ですから、まだ「騒ぎ出した」頃なのかもしれません。

隣にいたI先生からは文中にあるGuy Watersって誰と言う質問がありました。
But I have also been expounding my own version of the so-called New Perspective on Paul, in which I have been equally critical, without naming them, of Ed Sanders and many of his followers on the one hand and my critics such as Guy Waters and many of his readers on the other.

小嶋がどちらにしてもリゴン・ダンカンの一味(リンク)だろうと推測しました。

たまたま今朝フェイスブックで「のらのら者の日記」さんとのやりとりで、その背景となった文書が多分これではないかと思わせるTABLETALKと言う雑誌について知りました。(既に読んではいたのですが、この繋がりで再確認した次第。)

のらくら者さんの記事とは、これです。
大勢で一人を叩くのは・・・

と言うわけで、既に終わった読書会のフォローアップでした。

追加:今その繋がりで、ジョン・パイパーがどのように「信仰義認」の理解を持つようになったかを収録したインタヴューをここで聞いています。

2013年6月20日木曜日

聖書全体のストーリーを簡潔にまとめると

ライトは本や論文のあちらこちらで「聖書全体のストーリーを簡潔に要約」するとどんなものになるのか、トライしている。

ライトが言う、the big story of Scripture、新約聖書各文書の背景となるメタ・ナレーティブのようなもの。

今回の抜粋:
The big story is about the creator’s plan for the world. This plan always envisaged humans being God’s agents in that plan. Humans sin; that’s their problem, but God’s problem is bigger, namely that his plan for the world is thwarted. So God calls Abraham to be the means of rescuing humankind. Then Israel rebels; that’s their problem, but God’s problem is bigger, namely that his plan to rescue humans and thereby the world is thwarted. So God sends Israel-in-person, Jesus the Messiah, to rescue Israel, to perform Israel’s task on behalf of Adam, and Adam’s on behalf of the whole world. He announces God’s kingdom, and is crucified; and this turns out to be God’s answer to the multiple layers of problems, as in the resurrection it appears that death itself has been overcome.
以上は、JUSTIFICATION: YESTERDAY, TODAY, AND FOREVER、JETS 54.1 (March 2011) 49–63.(リンクはこちら

2013年6月19日水曜日

ウィリアム・ティンダル

先日の読書会報告で掲載した文章を先ず掲げてから始めよう。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンダルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’
たまたまネットサーフィングをしていたら次のような記事を見つけた。
Tyndale and the English Bible:The martyred genious who brought the Word to the people

これはTyndale Societyに投稿されたものだが、寄稿者Tai Kawabataは編集者注によるとThe Japan Timesの記者であり、同氏による同タイトル記事がThe Japan Timesに掲載されている。リンク

(※ちゃんと比較していないが二つの記事は同一のようである。後者のジャパン・タイムズの方で読むことをお奨めする。)

どうやってこの記事を見つけたか?
読んでもらえば分かるように「田川健三」である。

実はこの方に関しては本屋で少し立ち読みしただけで「こりゃあかん」と思った人である。
殆んど相手にしていないが、ティンダルが聖書翻訳に関して果たした重要な歴史的役割が日本ではよく理解されていない、と言うことでDavid Daniel, William Tyndale: A Biography
を訳したのだと言う。


  
なかなかやるじゃん。
と思ったので、読書会の追記みたいな感じで取りあげました。


2013年6月16日日曜日

パウロとポリティックス

既にご存知の方も多いと思うが、英語のサイトでパウロ研究サイトの老舗と言えば、
The Paul Page
だろう。

しかしこのページについてはここで書いているので重複を避けるために言及するにとどめる。

ライトに関連するような資料はないか「Paul and Politics」でググってみた。

上記の「大和郷にある教会」ブログの記事で、栗林輝夫が何度も「N.T.ライトの帝国論」と言及している書(論文集)、Paul and Politics: Ekklesia, Israel, Imperium, Interpretation が先ずヒットする。


本の内容解説の文章は以下のようになっている。
Interpretation of Paul has long been dominated by Lutheran/Protestant theological concerns. Paul has been treated as primarily concerned with narrowly personal religious issues, and critics have often contended that Paul was a conservative regarding social issues.The contributors to this volume deal in original and provocative fashion with several interrelated issues running through Paul's letters and their subsequent interpretation in Christian history. The essays cover several interrelated topics concerning Paul and politics: Paul and the politics of interpretation; Paul and the politics of the Roman Empire; Paul and the politics of Israel (relations of Jews and Gentiles); Paul and the politics of the churches (relations of women and men, slaves and free).
栗林が引用しているのライトの論文はNTWrightPageから入手できる。Paul's Gospel and Caesar's Empire(Center of Theological Inquiryでの講義)

次はN.T.ライトのこれ、Paul and Caesar: A New Reading of Romans

ライトの洞察も用いられているが、かなり最近(2010年くらい)までの研究をまとめているのがMike Todd(どう言う人物かググって見たが不明)の、Reading Paul in the Context of Empire: Roman Imperialism, Pauline Resistance, and Contemporary Implications 

しかしこれは学術的研究と言うよりもカウンター・インペリアルなパウロ書簡の現在への適用、と言う感じだ。

と言うわけでちょこっと最近のパウロ研究の動向である「パウロと帝国」を紹介した。

2013年6月8日読書会報告

あれから1週間経ったわけですが、加齢による記憶消失に抗いつつ貧弱にまとめてみます。

何はともあれ画像を先ず1枚。
これで記憶を呼び覚まそう。





不鮮明な画像で申し訳ありませんねー。

自慢じゃないが中古で買った200万画素のデジカメです。
ズームにしないとピンボケになるのです。
でも参会者の顔が良く分からないところが味噌。

当日は会場のことやら何やら一人でしなければならなかったので早めについた。
開始時間午後1時にはちらほら。

「まだ予定している人たちが集まらないから少し待ちますかー。」
なんて話しているうちに小嶋がとんでもない勘違いをしていたことが発覚。
何と開始時間を2通り皆さんに伝えていたのだ。

で最初に案内した午後1時30分まで待って、無事ほぼ予定した顔ぶれが揃って開始。

今回は11名。
ちょっと少ないと思われるかもしれないが、最初は2人で始まり、それから3人、4人、とやっていたのがつい2-3年前だから、やはり少々感慨。

本当はもう1人来る予定だったのだが、用事が出来てこられなくなった。
彼が来てたら十二人。
意味深だったのだがなー。

ここでまた画像を追加。




70代の方が二人おられたから、参加者の平均年齢は50ちょいというところか・・・。

そうそう、この画像の右隅でパソコンに打ち込んでいるのがミーちゃんはーちゃんさん。
ディスカッションの内容をご自分のブログで紹介されているので、マニアックなやり取りをお知りになりたい方はこちらをクリック。

さて後は大雑把な感想をば・・・。

ディスカッションはかなりハイレベルだったなー。
何しろ原典釈義できる人や留学経験者もかなりいて、「ちょっとついていくの大変」と思った話題もちらほら。

課題テキスト、Paul In Different Perspectivesのポレミカル(論争的)な性格の背景をしばし推理した。
この一般公開講演がなされた2005年と言えばライトの義認論解釈についてカルヴィニストたちがけんけんがくがくやっていた最中。
勢い自己の正統主義(オーソドキシー)的立場を旗幟鮮明にするのに少し前がかりになっていたかもしれない。

でもそこはさすがライト。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンデルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’


やはり宗教改革原則の根本には神のことばである聖書本文への忠実さが、その上に構築される神学に優先する、と言うことをカルヴィニストたちにアッピールしようということなのだろう。

そんな講演なわけだから、なかなか信仰義認関連聖書箇所の釈義部分は力が入っている。

ライトのニュー・パースペクティブ・オン・パウロの立場については色々と言えるだろうが、基本的には「如何に当該箇所のテキストの流れ(sweep)に沿って釈義がなされるべきか」と言う事が肝心なのだと思う。

ただ宗教改革者の聖書解釈のルールとされた、聖書テキストを他の(正典内の)テキストと照合して意味を確定して行くのに対し、ライトは(余りにも常識だが)第二神殿期のユダヤ教関連文書からの光を大いに活用して、不鮮明なテキストの意味を明らかにしていくわけだ。

もっと言えばテキストの流れを釈義するのに、第二神殿期ユダヤ教の世界観(解釈準拠枠になっている観もあるが)を再構成して、「神がキリストにおいて成就なされた救い」を、聖書全体を貫くナレーティブ構造(メタ・ナレーティブとも言われるが)を下敷きにして読み解いていく。

ある人はこれがライトの危うい部分だ、と指摘する声もある。
聖書テキストそのものの優先性を言っておきながら、その解釈枠となる複雑なシステムを構築してしまっているのではないか、と。
(このポイントは当日の読書会の発言ではなく、ライトについて時々軽い議論をするHさんのものだが・・・。)

まっ大した報告にならなかったが、雰囲気は少しは伝わったかな。

そうそう休憩の間のIさんとの会話で、今から10数年も前になるのだろうか、ライトの著作を少し翻訳して紹介し始めた時は、全く反応なかった・・・と言うお話を聞き、先駆者のご苦労いかばかりであったか、と思いをはせた。
 

2013年6月13日木曜日

N. T. ライト「創世記」を歌う

ライトは若い時はかなりスポーツ(ラグビー)に入れ込んでいたようだ。
また当時の多くの若者がそうであったようにビートルズの音楽にも熱中しただろう。
そんな意外な面が最近ライトの動画で紹介されている。

今回は最近、と言っても去年のことだが、ギターを手にして歌っているライトを紹介しよう。

福音派の「科学と信仰」に関するシンクタンクのような財団であるバイオ・ロゴスの創設者、フランシス・コリンズはこの動画の中でライトが「ミスター・DNA」と紹介しているように「ヒトゲノム」解析プロジェクト・リーダーであり、現在はアメリカ国立衛生研究所所長である。

この動画の導入で、ライトはイタリア・ローマの会議に出席しながら、間近(2012年3月)に控えたバイオ・ロゴスの会議の講演論文のことを考えていたのだそうだ。
(もちろん会議はイタリア語で、通訳のイヤフォーンはあったが調子が悪く、どうも飽き飽きしていたようだ。)
そうしたら買い物に行っていた奥さん(マギー)が帰りのタクシーで運転手がビートルズの「イエスタデー」を大変上手に唄っていたそうな。

そこでライトは創世記から歌詞を作り、イエスタデーのチューンに乗せて歌うことを思いついたという。
その後コリンズともメールでやり取りして出来た歌を、2012年5月7日、The Rabbit Roomで歌っているのが、これだ。



N.T. Wright Sings about Genesis from Thomas McKenzie on Vimeo.

これも別の場所で同じ歌を歌っているところ。説明もほぼ同じ(簡略)。



N.T. Wright sings "Genesis" at Hearts and Minds from Thomas B. Grosh IV on Vimeo.

2013年6月12日水曜日

N.T. ライトの日課

以下にN.T.ライトファンのブロガーでもあり著作家でもある、フランク・ヴァイオラがライトをインタヴューした時のものから抜粋して訳します。

N.T.ライト インタヴュー

フランク:
「あなたは物凄い多作家として有名ですが、どんな調子で物書きしているのですか。毎日毎週の著作のペースのことなど教えてください。」

ライト:
「通常のペースなんて言うものはありませんね。孫の子守、鶏の世話や掃除、買い物、博士課程の学生の論文指導、家族との団欒や学術関係その他諸々です。


めったにないですが、一人になれた時は朝5時頃起き、祈り、朝食、そして6時半か7時までには机に向かっている…なんて出来たら最高です。遅い昼食までたっぷり朝の時間を使えますから。その後は散歩、帰宅してまた書き物、夕食は7時半頃かな。食後はあれこれ12時間読んで、祈って、10時半か11時にはベッド、て言う感じですね。

たとえそんなベストの時間割が組めたとしても、仕事としてはとにかく早く書くこと、そして合間にゆっくり注意深く読書をします。新刊の大著な註解書や専門分野の研究書、時に学術誌、書評、ネット情報などが加わります。

しかしその中で一番好きなのはやはり書くことですね。言葉を選んだり考えたりする時の愉悦感、どう表現したらクリエイティブになるか工夫するのが楽しいね。

今までの人生の中でほぼ最高に上手く行った週と言うのがあるんだ。2006年の春だった。その時Acts For Everyoneを書いていた。土曜日に書き始め、日曜日はほぼ休み、そして翌日曜日数時間使って書き終えたのさ。一体何千語書いたか知らないが、とにかく机に向かって座り、後は蛇口をひねって水を出すように言葉が流れ出したってわけさ。あの時は痛快だったなー。」

***********************

2013年6月3日月曜日

6月8日の読書会に備えて②

いよいよ今週となりました。

多分10名くらいの方々が出席なさると思います。
(もちろん当日蓋を開けてみないと何とも言えませんが・・・。)

さて前回に続いて小嶋がテキストにアンダーラインやハイライトしたところを紹介しておきます。

 
このポイントは「義認」をオルド・サリューティス(救いの順序)で概観する時に改革派や他の神学に対してライトが取る極めてユニークな立場だと思います。(以下は4. Solo Spiritu第3パラグラフから引用)
Paul’s view seems to be that when the evangelist announces the ‘word’, God the Spirit works through that proclamation to bring people to faith. Paul has a very precise technical term which he uses to denote this moment, and it is not of course ‘justification’, but ‘call’. ‘Those he called, them he also justified.’
これは福音を宣証する時の説教者の心得として大事なポイントかと思います。(以下は4. Solo Spiritu第4パラグラフ最後の部分から引用)
Those of us who have believed the gospel from our earliest memories should not forget what an extraordinary privilege that is. And those who preach the gospel should never forget that for it to have any effect it must be driven by and accompanied with the powerful work of the Holy Spirit.
これはカルヴィン派の人たちと北米福音主義神学会時のかなりスペシフィックな論争点でした。ライトは「将来の終末」時における義認も含まれると言う立場ですね。(以下は4. Solo Spiritu第5パラグラフから引用)
Paul’s exposition of this in various passages leads directly to the statement of something he says again and again but which is routinely ignored when the eschatological framework of his doctrine of justification is forgotten: that on the last day the final judgment will be made on the evidence of the complete life that someone has led.
ライトの解釈は「終わりの日の義認の宣言」が前倒しで「信仰を持って聞いた時」に宣告されると言う解釈だと思います。それを基礎付けるのがキリストの死による贖いのわざであり、それを「終わりの日の義認の宣言」まで完成させる聖霊のわざだ、と言うことだと思います。(以下は5. Sola Fideの第2パラグラフから引用)
It takes all of the rest of Romans 8 to explain that, of course, but we should be in no doubt that Paul connects in the most intimate way possible the final verdict ‘not condemned’ with the continuing work of the Spirit, and roots that work in the death of Jesus through which sin was condemned and the verdict ‘righteous’ which was already issued as soon as the gospel had produced faith.
これはご覧のように挿入的なコメントですが、義認に関し信仰の対象が何かを厳密に規定しようとしているものではないかと思います。(以下は5. Sola Fideの3パラグラフから引用)
(We are not justified by faith by believing in justification by faith, but by believing in Jesus; that being so, when we believe in justification by faith what we get is not justification itself, but assurance; and it also follows that those who believe in Jesus but do not believe in justification by faith are nevertheless justified by faith without knowing it.)  
(以下は5. Sola Fideの第4パラグラフ終わりの方から引用)
But now the Messiah has been faithful, as the representative Israelite, so that God’s own covenant faithfulness would be unveiled in action in his ‘obedience unto death, even the death of the cross’. And since the covenant purpose, to deal with sin and to launch new creation, has thus been spectacularly accomplished in his work, justification in the present must be by faith alone, not by works of the Jewish Law, partly because all human beings have fallen short of God’s glory, and partly because if it were by the Law only Jews would qualify. 
最後になりましたが、二つほどご案内があります。
①当日のディスカッションの流れ
13時開始
13:10 - 14:30 イントロから、3. The Glory of Godの終わりまで
14:30 - 14:40 休憩(本の展示販売)
14:40 - 15:50 4. Solo Spiritu、から終わりまで
 テキストに沿ってお互いがアンダーラインしたり、ハイライトしたりした文章を紹介し合いながら自分の読みと他の人の読みを比較して理解を深める、・・・を先ず最後まで通して見たいと思います。
その後に総合的な感想や、講演内容の意義についてディスカッションしたいと思います。


②本の展示販売
今回は二つあります。
(A)スコット・マクナイト「福音の再発見」・・・川向さんが税抜き値段の2,000円でお分けしてくださいます。
(B)河野克也・東方敬信、共訳、リチャード・B・ヘイズ「新約聖書のモラル・ヴィジョン」  1,890円のところ1,600円でお分けしてくださいます。
※ヘイズの本に関しては拙ブログ記事を参考になさってみてください。リンク 

2013年6月2日日曜日

「キリスト教起源と『神』問題」第4巻

先日紹介した、N. T. ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第四巻目
Paul and the Faithfulness of God 
の内容等について、ライトがインタヴューで答えているブログ記事の紹介です。

こちら 

「キリスト教起源と『神』問題」のスコープと、今後の展開について、またライトの本をどれから読むかについての質問などに回答しています。