2017年6月19日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 4

さて前回、シリーズ3回目、はマイク・バードのSBAA著者インタヴュー全3回についでした。

今回はアンドリュー・ペリマンの書評記事(全5回)について書きます。
Salvation By Allegiance Alone (1): a review on the basis of the Introduction alone
Salvation By Allegiance Alone (2): Paul’s gospel and the sweeping plains of history
Salvation By Allegiance Alone (3): pre-existence and the gospel of Jesus
Salvation By Allegiance Alone (4): the best bit so far
Salvation By Allegiance Alone (5): the exegetical evidence for faith as allegiance

第1回目書評の冒頭部分です。
Matthew Bates’ book Salvation By Allegiance Alone is further evidence that evangelicalism is wrestling honestly and constructively with the biblical, theological and practical deficiencies of the traditional understanding of gospel, faith and salvation.
1. The true climax of the gospel is the enthronement of Jesus, but this has generally been “deemphasized or omitted”.
2. Pistis has traditionally been misconstrued as “faith”—typically in the saving power of Jesus’ death. It should be understood instead as allegiance.
3. Final salvation consists not in going to heaven but in participation in the new creation. Once this “true goal” has been recognised, terms such as “faith”, “works”, “righteousness” and “gospel” can be reframed.
と云う風に「まずは」全体として、ベイツの論及を好意的に受け止め歓迎しています。

しかし第2回以降「批判的」書評としてより深く分析して行くとごとに、さまざまな指摘がなされており、「結構よく読んで本の内容に切り込んでいるな」という印象を与えます。その分なかなか書評でも読み応えがあります。


ペリマンのブログを読んでいる人にはすぐ分かると思いますが、彼はライトの「新約聖書神学」研究アプローチをかなりな部分受け入れていますが、新約聖書ナラティブのフレームワークを「徹底して歴史的に」取り組んでいない分中途半端、と批判しています。

そのような見解の持ち主ですから、やはりベイツの取組みに対しても同様の視点から結構容赦なくダメ出しをしています。

たとえばベイツは「伝統的な福音理解、信仰理解」を修正することに熱心なあまり、新約聖書ナラティブ・フレームワークが持つ「歴史的性格」を見過ごし、コスミックなナラティブ理解の方に引っ張られている、と指摘しています。
But it seems to me that his concern to provide a workable alternative to the traditional evangelical paradigm has led him to overlook the properly historical orientation of the New Testament narrative.

Bates is trying to read the New Testament at a cosmic level, guided by theological interests, whereas I think it needs to be read at a political level, from a more rigorously historical perspective.
また、たとえば「私たちの罪のために」の部分ペリマンは歴史的に取れば、それは「すべての人のため」ではなく第一義的には「ユダヤ人のため」であった、とベイツの解釈を退けます。

I would also quibble over the casual assumption that according to the Gospel story Jesus died for our sins. I agree that when Jesus says that he has come to give his life as a ransom for many, “the substitutionary idea is foregrounded” (61), but I would argue that the redemptive logic only works in the Jewish narrative.

The claim made by the Synoptic Gospels is that Jesus died for the sins of Israel, and I would go so far as to suggest that when Paul says that “Christ died for our sins in accordance with the Scriptures” (1 Cor. 15:3), he is speaking as a Jew, on behalf of Israel. The apocalyptic-kingdom narrative uses a different logic to explain the significance of Jesus’ death for Gentiles.
また「ピスティス」の中心的ニュアンスは「アリージャンス」だというベイツの命題に対しても、個々のパッセージでは従来のような「信仰(ビリーフ)」の方が相応しい箇所も結構あったりするので、全体の解釈フレームワークとして「アリージャンス」の中心性を主張するのはオーケーだが、「ピスティス」に対してそのような厳密さを求めるのは相応しくないと見ています。(以下の引用は日本語で説明した内容をはるかに越えます。念のため。)
This is a critical but enthusiastic review specifically from a narrative-historical perspective. I would not normally devote so much space to one book, but I’ve enjoyed my engagement with Bates’ thesis. I think that he has missed the real narrative context for the faith terminology, I have serious doubts about his attempts to tie the kingdom narrative to the pre-existence of Jesus, and I’m not persuaded that “allegiance” really identifies what Paul meant by pistis, as will become apparent from what follows. But the book nevertheless is a solid and passionate demonstration of the potential that current New Testament scholarship has to recalibrate evangelical conviction.

Basically, Bates argues that “saving allegiance” includes three dimensions: “mental affirmation that the gospel is true, professed fealty to Jesus alone as the cosmic Lord, and enacted loyalty through obedience to Jesus as the king” (92).
The distinctions are important, but it is apparent that the word “allegiance” really only applies to the third of these dimensions. So why make it the overarching category?
The translation of pistis as “allegiance” is a useful polemical and pedagogic device. It shoves justification-by-faith off its pedestal. It makes us think about gospel and faith in the frame of an eschatological narrative about Jesus and Israel in relation to the nations.
以上、本当にさわりみたいなコメントしか載せていませんので、できればしっかり読んでいただくと、ちゃんと自分の「神学的解釈基盤」をもって他者の著書を批判的に書評することの「実益」を披露していると思います。


(次回に続く)

2017年6月11日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 3

さてこのシリーズ3回目となります。

前回はチャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

でした。

極めて簡単なものでしたのではぐらかされたように思われた方もいるかもしれません。

シリーズ最初の記事では(その時点で見つかった)書評のリストを挙げておきましたが、チャド・ソーンヒルの後に続いていたのが、「ジーザス・クリード」ブログのものでした。

全部で8本の記事やインタヴューがあります。やはり数が多いので一回の記事では紹介できないと思います。

今回は「ジーザス・クリード」ブログ記事は回避して、マイケル・バードのインタヴュー記事(全3回)を紹介したいと思います。


マイク・バードによる著者インタヴュー、
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 1)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 2)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 3)

バードは3回に分けて全部で6つの質問をしています。

一つ一つについて紹介はしませんが、バードはベイツが「ピスティス」を「忠誠(アリージャンス)」と訳すことで宗教改革原理「信仰のみ」から逸脱するのではないか、「行為義認」にならないかと質問しています。

また「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークでの「義認」や「救い」の理解はどういう風になるのか等、聖書釈義の妥当性だけでなく、(主に改革派の)組織神学的伝統との整合性について質問しています。

最後にベイツの解釈枠組みだと「伝道の実際(招き・決断)」ではどんな違いが出てくるかについても質問しています。


以下、ベイツの回答から「気になる点」や、「注記しておくべき点」を幾つか挙げておきます。


(1)「信仰」は「福音」の提示に対する応答ですが、特に提示される「福音」内容に関し(スコット・マクナイトも指摘しているように)これまでの福音理解が(「王なるイエス」宣言を省略した)縮小版になっていないかと問題提起しています。(この問題点に関しては『ゴスペル・コーリション(TGC)』も含まれるとしています。)

(2)逆に、本来的には「福音」に含まれないもの(私たちの信仰、私たちの義認)を入れてしまっている。
So we have made the gospel contain three items: “our faith,” “our justification,” and “faith in Jesus’s death for us.” My contention is that the gospel proper only includes the last item, Jesus’s death for our sins, but even then this is only a small part of the gospel and not the central target of “faith.” Saving faith is better understood as allegiance to Jesus the atoning king. The emphasis in Scripture is on loyalty to him as Messiah-king as that which forges the saving union.
(3)「(キリストの)義の転嫁(imputation)」用語について
 信ずる者にどのように「キリストの義」が与えられるのかについて神学用語が幾つか用いられてきたのですが、それらについて見解を示しています。
The biblical witness can perhaps best be understood by juxtaposing it alongside classic Protestant and Catholic treatments. In the book, in light of the biblical evidence, I discuss some limitations to imputed righteousness (the dominant Protestant model) while still accepting it if union is explicitly foregrounded. Meanwhile, I reject Catholic imparted righteousness yet accept infused righteousness, if properly qualified. Chapter 8 in the book has the rationale and details. However, in the end I think it best for the church to prioritize new language that better reflects Scripture’s own emphases: in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness. I am not sure who has suggested incorporated righteousness, but, wow, it’s brilliant.
(4)改革派聖書学者(T・シュライナーとか)がベイツの解釈を従来の「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークを崩すものとして警戒感を持っているようだが・・・。ベイツは以下に述べるようにパウロ自身がそのような「個人的救済の順序」に従って「義認」を言っていない、としている。
I also show that “justification” was not considered by Paul to be a “step” in a person’s order of salvation. The Reformed tradition has been deeply invested in trying to systematize the true order by which salvation comes to be applied to an individual—the ordo salutis. A traditional version of the Reformed ordo salutis begins with God’s unsearchable decree to save and to damn specific individuals, and then proceeds to speak about how God comes to apply salvation to those individuals that have been elected through calling, regeneration, repentance/faith, justification, sanctification, and then, finally, glorification. It is important for the Reformed scheme that God is the primary actor in each step of the ordo salutis, otherwise human works contaminate the process. Then humans would have a “boast” before God. The problem is, I contend, that the Bible nowhere articulates an individualized ordo salutis, nor can “justification” be considered a step or stage in the order.
特には挙げませんでしたが、リチャード・ヘイズの『イエス・キリストの信仰』 やN.T.ライトの見解なども俎上に上げて持論を展開していて「どの辺りのニュアンス」を狙っているのかある程度分かる内容になっています。

ただ議論の精密さが増しても、その議論の土俵から漏れた問題に関してどうなのか・・・という懸念は残ります。

ベイツは「キリスト者の義」として『 in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness』を採用すると言っていますが、(用語も含めて)同種の主張をするインタヴュアーのマイク・バードの問題設定と解決方法を見ると(ここ)、(議論の)土俵は依然として「聖書の言及箇所(アイデア)」に限定されている印象です。

昨年の「N.T.ライトの義認論」でも(本当に残念ながらですが)見取り図的に示唆したように、「義認」を得させる(体験化させる)枠組みとして「制度的教会」論、特に「聖礼典(洗礼)」論の視点が殆ど抜け落ちている、と云う印象です。

このことを「神学的にまとめる」にはなかなか荷が重い問題なので依然として記事にしてアップできていない目下の時点では、読者としては何のこっちゃでしょうが・・・。


(次回に続く)

[『Salvation By Allegiance Alone』書評ブログ記事のリストへの追加]

パトリック・シュライナー『The V-Shaped Gospel』、『Salvation by Allegiance Alone? Part 2

2017年6月1日木曜日

FB読書会 2017年5月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて2ヶ月が過ぎました。
まだかなりゆっくりペースです。

いつものように「担当者」が本著から引用した部分を紹介します。
どんなところに関心を持っているかがお分かりになるのではないかと思います。


第3章(37-58)


「歴史の複雑さという問題」(49-58)
     これらの非常に雑多な資料から、当時の人々がイエスの言動を見て納得した理由を説明できる時代背景を再構築しなければならない。それは、当時のある人々をしてイエスが神のメシアであると信じさせ、また他の人々には彼を速やかに殺害しなければならないと思わせる充分な時代背景でなければならない。(51)

     しかし、本物の歴史と向き合いたいなら、別の時代の異なる地域の人々は、私たちと著しく異なっていことを認めねばならない。歴史に取り組むためには、自制心を伴う想像力を働かせ、私たちととても違っていた人々に共感できるよう最善を尽くさねばならない。(54)

    ・・・そこから研究を始めることのできる「定まった点」など存在しない。あなたが資料を扱う方法には、あなたがどのようにイエスについて理解しているかという予断が反映されてしまうからだ。
     まったく同様に、あなたのイエス理解は、あなたの資料理解に反映されてしまう。しかしこれは悪い循環ではない。・・・つまり私たちはよくよく注意を払い、研究対象と資料の両方について理にかなった理解をしているかを確認しながら研究を進めていかなければならないのだ。(56-7)
第4章(59-74)

「ローマ帝国という嵐」(59-66)

(この部分から担当が替わりました。引用ではなく、ここまでのまとめも含め、簡単な解説風の文章にまとめていただきました。)

「ユダヤの風」(66-74)
    ・・・ユダヤの人々とその祖先たちは、彼らのストーリーがある方向へ、あるゴールへと向かっていると信じていた。または、預言者たちからそう信じるようにと言われてきた。いくつもの挫折や失望にもかかわらず、彼らの神は、彼らがゴールへとたどり着くことを約束していた。(68-9)

    ローマ人たちは、現在の「黄金時代」から過去を振り返り、自分たちのストーリーがどのように現時点いまで到達したのかを理解する懐古的な終末論を抱いていた。しかしユダヤ人たちは明らかに黄金時代とは呼べない現状から、自分たちの権利だと信じていた自由、正義、そして平和がもたらされる未来を眺望し、その到来を待ち望み、熱烈に祈っていた。つまりユダヤ人たちは未来志向の終末論を心に抱き、祝っていた。(69)
     メア・シャリム地区の多くの家族は、ホロコースト時代に東ヨーロッパから逃れてきた人たちだ。この時期の教父が、彼らの想像力を掻き立てて、ヒトラーがあのようなことを行ったのだから、いまこそ、先祖伝来の律法を守らねばならない。ヒトラーがあのようなことを行ったのだから、いまこそ神が新しいことをなさるだろう。(中略)
     イエスの時代には、ヒトラーの名が別の名前に変わるものの(カエサルかヘロデ)、それが当時の人々が耳にしたメッセージだった。巨大な悪の帝国と来るべき王なる解放者という2つのテーマは、出エジプトに一定の起源を持つ。その時、モーセはエジプトのファラオからイスラエルを開放した。このテーマは、イスラエルの早朝時代とその時代に人々の上に降り掛かった民族的大惨事の長大なストーリーによって、さらに強力なものとなる。(72)

以上5月中には「4章」は終わりませんでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年5月は、入会1名、退会1名で、トータル218名は変わりません。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年5月28日日曜日

2017.5 (リアル)読書会報告



[2017/6/2 追記あり]

先日の今年第2回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方1名、及びオブザーバーの形の2名を含め全部で8名でした。

用意した「縮小版」の
 ★ Introduction
 ★ A Fresh Perspective?
 ★ Conclusion
の特に「A Fresh Perspective?」を中心に読みました。

残念ながら細かい部分には入れませんでしたが、パウロのユダヤ教の基本的な信念(唯一神・選び/契約・終末)がロマ書のナラティブの土台にもなっていることを確認しながら学びを進めました。

この Paul and Caesar: A New Reading of Romans 論文は、「宗教と政治」テーマのうち具体的には「皇帝崇拝」に焦点を当てています。

「福音を宣言する」ことが暗に「皇帝崇拝」に対する挑戦となってロマ書に反響していることを英文を読みながら理解するのは難しいと言うことで、予め用意しておいた『聖書と物語(The Book and the Story)』から以下の引用を紹介しました。

多神教の権力構造に対する挑戦
 聖書の物語が始めからすべての多神教の政治権力構造に対して批判的であったことは「福音」という言葉に内在するものであり、これは新約と旧約、両聖書に見られるものである。イザヤは、ヤハウェの神がバビロンの偶像を打ち倒したことにより、バビロンのイスラエル支配はもはやなくなったという良い知らせを告げた。イザヤの語るユダヤ世界に深く根ざした新約聖書では、ギリシャローマ世界に対して、ナザレのイエスこそ新しい真の世の統治者であることを語っている。イエスの昇天こそ、全被造物が待ち望んでいた、解放と癒しをもたらす良い知らせである。この声明は「公の真実」か、さもなければ「公の嘘」か、いずれかであり、発言者が自身の内的宗教観を「私的な真実」として語ったものではあり得ない。
 イエスが「神の国」の到来について語ったとき、そのメッセージは時の権力者たちに対し明確な挑戦として語ったといえよう。だからこそ、イエスが十字架に処刑されるに至った理由が、歴史的にも神学的にも理解される。「イエスは主である」とパウロが語った時、それは明らかにカイザルの支配を喚起させる言葉を使っていた。世の支配者は二人並存し得ないのである。(『聖書と物語(The Book and the Story)』※)

キリスト教会の長い伝統では、ロマ書は「義認」や「聖化」の救済論的テーマを中心に読まれることが多く、政治的トピックとしては「13章の国家に対する服従」が限定的に扱われるのが常でした。

しかしロマ書全体は(始まりと終わりの部分を注意して読むと)「異教文化との対抗的」文脈を意識した宣教的な文書であることを意識しながら「皇帝崇拝」のエコー(反響)を文面から読む必要があるのではないか、ということを学びました。

ディスカッションでは(皇帝崇拝と)日本の天皇制との類似点なども話し合われました。

戦中のホーリネス系牧師たちへの迫害のことも話題に出ましたが、治安維持法側からキリスト教信仰が国体を脅かす「政治的含意」を指摘されて(信仰者側が)初めてそのことに気づくとはどういうことか、なども話し合われました。


閉会後は記念写真を撮って散会しました。


(二次会の巣鴨駅前大戸屋でのランチには5名参加しました。こちらでも色々な話題で盛り上がりました。)

[2017/6/2 追記]

上に『聖書と物語(The Book and the Story)』から引用しましたが、ちょうど読み始めた『使徒パウロは何を語ったのか』に適切な文章が見つかりましたので、追加しておきます。
 パウロの福音の歴史的背景をとらえれば、伝統的な宗教史研究における観念的な分類は、あまり役に立たないことがわかります。パウロの「福音」をよりユダヤ教的に理解しようとするなら、その福音は、皇帝礼拝や、「宗教的」であれ「俗的」であれ、あらゆる異教文化と対決するのです。それは、「王ではなく神」というユダヤ人の唯一神信仰のためです。・・・カエサル(またバビロン、ペルシアやエジプト、シリアなど)が王であるという主張に対して、イスラエルの神の主張は戦いを挑むのです。ヤハウェが王であると告げ知らせることは、カエサルは王ではないと主張することなのです。(77-78ページ、強調は原著)

2017年5月18日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 2

さてなるべくサクサクっと進めて行きたいと思いますが、まず
Salvation by Allegiance Alone: Rethinking Faith, Works, and the Gospel of Jesus the King
の紹介サイトに出ていた「書評」 の一つから見てみます。

※スクロールダウンして「Reviews」のところの「3番目」のものです。そして掲載されたのはスコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」ブログです。冒頭マクナイトによる「書評シリーズ」開始の説明と、書評者の簡単な紹介があります。

 
チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

新約聖書由来のことばで、「kingdom」「grace」「salvation」「heaven」と同様「faith」も実は聖書全体の文脈で理解しているとは言い難い。この本はそのような理解を助けてくれるもの。
と紹介しています。

西洋キリスト教の伝統では、救いにおいて「信仰」と「行い(功徳)」の関係が議論されてきたわけですが、宗教改革において「信仰義認」原則が確立されると、「信仰」からあらゆる「行い」の要素を取り除こうとする動きが強くなりました。

すると、キリスト者となってからの「聖化」や「道徳的成長・努力」をどのように位置づけたらよいのかということが、神学的にも実践的にも微妙な問題として扱われてきました。

「福音」に対して「律法」が対立的に理解される問題や、「聖化」が「行い」に人間的努力にならないように、とかそう言う問題です。
Bates is careful to nuance what this entails. This does not “sneak” merit into salvation in some Pelagian or Semi-Pelagian construct. Pistis/allegiance, Bates clarifies, is not “works,” but rather “pistis is the fundamental framework into which works must fit as a part of our salvation” (109).
「信仰(ピスティス)」に「アリージャンス(allegiance)」のニュアンスが加えられることによって、福音の理解が広がり、「救い」を受けたところにとどまらず、よりコミットした「キリスト者生活(イエスに従う弟子の生活)」へと繋がる、そういう視界・展望を与えてくれるだろう・・・そんな感じの評価をしています。
There is much more to this book that defining faith. Bates has in mind setting biblical soteriology straight concerning the future eschatological fate of the people of God, the place of justification in an allegiance-based understanding of faith, a biblical-theological understanding of “election,” rooted in the Bible’s context rather than later theological debates, and the connection between allegiance to Jesus and the Bible’s teaching concerning the image of God in humanity. What Bates has accomplished in such a small book is admirable. His writing is clear and accessible, yet rooted in solid scholarship. This books gets to the heart of the Bible’s vision on salvation, faith, works, and the gospel.

以上短いですが、今回はこの書評一本だけにします。

(次回に続く)

2017年5月9日火曜日

2017 第2回目のライト読書会

既に「2017年度」全体の案内はしました。

《第2回目ライト読書会》については

日時: 2017年5月27日(土)午前10-12時
場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
テキスト: Paul and Caesar: A New Reading of Romans 
とご案内しました。


2017年は「政治と宗教」というテーマで「(リアルの)ライト読書会」を計画したわけですが、4月1日の第1回目は「政治」と「宗教」が分離してきた(特に啓蒙主義近代以降の)歴史的背景をライトの個人史に沿って考えました。

日本においては自由主義と保守主義が対立することで、前者が社会正義や政治に関心を集中する一方、後者はその反動で「救霊」に専念するようになりました。それがどんな影響を及ぼしてきたのか、当日の出席者に語って頂きました。

第2回目は「政治や社会正義」に取り組む時、特に福音派が大事にしている「聖書の権威」をどのように実践に活かすのか、というテーマになります。

福音派のいわば土台となる「聖書釈義」を十全に用いた「神学」がどのように構築されるべきか、と云う課題、そしてそのテストケースとして「ライトのロマ書釈義」を読んでみたいと思います。

この「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」と云う論文は、所収された論集

A Royal Priesthood?:
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に付けられた「A Royal Priesthood」と云うモチーフの含蓄もさることながら、「世界観レベルでの政治的対抗」を導き出すため、「伝統的なロマ書の読み」だけでなく、「NPPの読み」もまだ不十分だ、と云う批判的テーゼを含んだプロポーザルになっています。

そのように「ロマ書全体の展望」をどう見るかということが「肝心な問題」なので、皆さんと読む部分はかなり限定的になりますが、意識は論文全体の趣旨、即ち「A Fresh Perspective」に向けたいと思います。

そのため僭越ながらこの「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」論文を「当日、実際に目を通し読み合わせる部分」と「アウトラインだけ見て本文は通り過ぎる部分」とに分離・圧縮したもの(※)を出席者に配布したいと思います。

※当日用に出席予定者に配布する縮小版は「Paul and Caesar、ライト読書会用(PDF)」で、後日お送りします。

当日まで3週間を切りましたが、この「案内」を読んで関心を持たれた方は是非お問合せください。(※英語が苦手な方は傍聴だけで大丈夫です。)

※問合せ・出席希望者は「小嶋」までご連絡お願いします。
「問合せ連絡先」は左コラム(←)を参照ください。 


2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、