2018年2月3日土曜日

聖書ストーリーの神学的解釈とライト誤読?

たまたまツイッターTLに流れてきた「ブログ記事」を取り上げただけなので、大した意味はないですが・・・。

暇の人のための「ライト誤読」を考えるブログ記事・入門編

とでも題してブログ記事にしてみようかと思い立ちました。
というわけで「たまたま時間に余裕ある方」にでも読んでもらえれば幸いです。
聖書ストーリーの全体(overarching story)での「アダム(人類)」の役割をどう見るか、はライトの神学的解釈でも重要なものだと思います。
特にその「コスモス管理」の役割は「贖い」の計画の中心を占めるものと思います。
この記事はライトの神学的解釈を(ある意味見事に)誤読しているように思うのです。
「アダム(人類)」と「コスモス」を切り分け、前者よりも後者を大事にするライト!!、といったような批判を展開しています。

単純に指摘できるポイントの一つは、「(神学的)視角の違い」を殆ど意識できてない、ということがあるのではないかと思います。

かなり初歩的な「誤読」と思いますが、聖書の神学的解釈において「(神学的)視角の違い」の持つ意味・重要性を考察する上では(反面教師的には)意外に「良い」一例になるのではないかと思います。

(たまたま最近暇のある)皆さんはこの記事をどう読まれるでしょうか。

※この方は「リフォームド」の方のようですが、「リフォームド」の神学的視角を揶揄する意図は毛頭ありません。最近元フラー神学校学長リチャード・マウの本を読みながら、あらためてリフォームドの「世界観」神学の貢献を思っているところです。(ライトもマッギル時代その影響を少なからず受けたようですし・・・。但しリフォームドのライトシンパの方々が思うほどライト神学はリフォームドではないと思います。ライトにとってやはり「一世紀ユダヤ教の世界観」研究が何よりも基盤になっていると思うので。)

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