2018年9月26日水曜日

『驚くべき希望』読書会

4月以降、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会はお休みしていました。

9月になり首を長くして待っていた驚くべき希望』(あめんどう)がついに出ました。

それで読書会を再開することにしたのですが、今回新たな試みとして
(1)『驚くべき希望』専用の
(2)「公開グループ」の
(3)ライト・ビギナーに焦点を合わせた
読書会を立ち上げました。

その名も N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 です。


公開グループですのでメンバーにならなくても読むことはできます。

でも読み始めたらいろいろ分からないことが多く、できたら一緒に読み進める仲間がいたらいいな・・・と思う方は「メンバーとして参加する」ことを考えてみてはどうでしょうか。


N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 ページに掲載した「説明」を以下にご紹介しておきます。

よくお読みの上よろしければご参加ください。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

英国の新約聖書学者N.T.ライトの『驚くべき希望(Surprised By Hope)』(あめんどう、2018年9月刊)専用の読書会です。

『驚くべき希望』専用の「公開」グループの読書会として、
 (1)この分厚い本を読み通す仲間を作り、
 (2)質問や疑問があればシェアし、
 (3)(本を理解するための)参考となる情報をシェアするプラットホームを目指します。


「公開」グループの読書会として次のことをお守りください。
 (1)メンバーは『驚くべき希望』を入手している方に限定します。(原書、Surprised By Hope、で参加したい方も受け入れますが、シェアする内容は日本語にてお願いします。)
 (2)メンバーは、本を読み進めるのに適した《質問》や《疑問》をシェアしてください。
 (3)メンバーは、本を読み進める励ましとなるような《感想》や《気づいたこと》をシェアしてください。

※「ディスカッションや議論」について
 シェアされた《質問》や《感想》から「ディスカッション」に発展する場合もあるかと思います。
 『驚くべき希望』の(終末論と呼ばれる)神学的内容については様々な解釈がありますが、この読書会ではその一つである「ライトの解釈」を☆読んで理解する☆ことが目的です。他の解釈とどちらが正しいか議論して決着を付けることではありません。
 多少の意見の交換は構いませんが、その場合でも他の人が本を読み進める妨げとならないよう、短く切り上げるか、グループ外で続けてください。

このグループの「管理人/世話役」
 2013年から、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会は「非公開」グループとして活動してきました。(現在も続いています。)
 その管理人/世話役としてグループをリードしてきたのが、小嶋・中村・川向の3名です。
 この『驚くべき希望』専用の「公開」グループ読書会も同じ小嶋・中村・川向の3名がリードします。
 (ちなみに中村氏は『驚くべき希望』の訳者でもあります。)

『驚くべき希望』を他の方々と一緒に読みすすめたいなーと思われる方はどうぞ参加なさってください。







2018年8月14日火曜日

Paul within Judaism

「大和郷にある教会」ブログに、「パウロと“ユダヤ教”」と題した記事を書いた。

こちらのブログでは「新約聖書学」「パウロ研究」のトピックとしてもう少し踏み込んだことを書こう。

と言ってもあくまでネットで得られる参考記事などを列挙するだけだが。
それでも「Paul within Judaism」に関心のある方には少しは便利な記事になるのではないかと思って。

(1)ポーラ・フレデリクセン


と先日ツイートしたばかりだ。

彼女が「Bible Odyssey」に「パウロとユダヤ教 (Paul and Judaism)」を書いている。
The point is this: a Law-free Gentile mission gives us no reason in itself to assume that Paul himself was also Law-free. His teaching Gentiles that they did not have to live according to the Law tells us nothing about his own level of observance. And, as we have seen, the Gentile mission was not exactly Law-free either....
But in his own generation—which Paul was convinced was history’s last generation—the Jesus movement was yet one more variety of late Second Temple Judaism.
(2)『ガラテヤ書とキリスト教神学』
Galatians and Christian Theology: Justification, the Gospel, and Ethics in Paul's Letter

 ライトがいるセント・アンドリュース大学の研究会議でガラテヤ書が取り上げられたときの論文集である、 その書評でマーク・ノーベンソンの『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』について以下のようにポイントがまとめられている。
Second, Matthew V. Novenson’s essay centers on the appropriate meaning of Paul’s use of Ιουδαϊσμος in Galatians 1:13-14. Seizing upon the work of Steve Mason (who himself proposed a revision of the term) Novenson concludes that the verbal form ιουδαϊζω, means to ‘act like a Jew’, which was only something that non-Jews could do (Mason’s point). ... But Novenson, while agreeing with Mason concerning the verb ιουδαϊζειν, contends that the noun ιουδαϊσμος is actually something that Jews would doThis certainly accounts for Paul’s use of the noun in Gal.1:13, where Gentiles are not in the context. Paul’s usage also agrees with the use of ιουδαϊσμος in 2 Maccabees, where the term refers to ‘the cause championed by Judah Maccabee’ (32). For Novenson then, the verb ιουδαϊζειν refers to non-Jews who adopt Jewish rituals, whereas the noun ιουδαϊσμος refers to Jews who promote the adoption of Jewish customs and rituals. The important point to note is that not all Jews practice ιουδαϊσμος, as this term refers to a certain cause or political movement that arose in the Maccabean era. A better gloss for ιουδαϊσμος is not ‘Judaism’ but ‘the judaization movement’ (36). Novenson’s observations, along with the many other studies on this issue, will challenge any overly simplistic and monolithic reading of ‘Judaism’ as we understand the term.(色による強調は筆者)
要するにガラテヤ1:13のような箇所では「ユダヤ教」と訳すべきではなく、もっと具体的に「ユダヤ主義運動」のようなニュアンスで捉えるべきとのこと。

(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle

これも書評ですが、チャド・ソーンヒルが編著者の視点を以下のようにまとめています。
In other words, Paul was an adherent to Judaism and remained so even after he came to believe that Jesus was the Messiah. Thus, Paul’s endeavor in advancing the “cause of Christ” (Phil 1:13) should be thought of “as a new Jewish “sect” or “coalition” or “reform movement” (10), not as a conversion to a new religion.

(4)リオネル・ウィンザー
も、さきほどの(2)のマーク・ノーベンソン『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』とほぼ同じように理解しています。
In my book, I argue that the rare word Ἰουδαϊσμός–which is often translated “Judaism” in our Bibles (Gal 1:13-14)–doesn’t mean “Judaism” in the modern sense of a system of religious thought. Rather, it should be understood in a vocational sense:

                 ☆ ☆ ☆

以上いくつか「“回心後”もユダヤ教徒として生きたパウロ(Paul within Judaism)」と云う視点を紹介してきましたが、そんな風に考えてみるとやはり翻訳と言うのはニュアンスに左右されるものだなと思います。

最後に《イスラエル・バイブル・センター》のリゾーキン-アイゼンバーグ博士(Dr. Lizorkin-Eyzenberg)の『パウロは回心したのかそれとも召命を受けたのか(Was Paul Converted or Called?)』を紹介してみたいと思います。
博士の見方は、パウロはユダヤ教からキリスト教に回心したのではなく、ダマスコ途上のイェシュアとの出会いの後、パリサイ派ユダヤ人として「アポカリプティックな体験をしたキリストの弟子」となった、というものです。
As you can surely anticipate, I will seek to convince you that Paul (Paulos) was not converted from Judaism to Christianity. Instead, Paulos as he called himself in his own surviving writings, was called to the service of Israel’s God as were many other Israelite prophets. Before he personally encountered Yeshua/Jesus on road to Damascus, he was a pharisaic Jew. After that earth-shaking encounter, however, something dramatic had happened. He became an apocalyptic and Christ-following pharisaic Jew.

「一世紀の文脈では『ユダヤ教』と『キリスト教』というような宗教的区分はまだなかった」、という視点からですが問題となっている「ユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)」については以下のように訳すのがいいとしています。
For you have heard of my former manner of life in Judaism, how I used to persecute the ekklesia[6] of God beyond measure and tried to destroy it; and I was advancing in Judaism beyond many of my contemporaries among my countrymen, being more extremely zealous for my ancestral traditions. (Gal. 1:13-14 NASB 強調はリゾーキン-アイゼンバーグ博士)
この訳では今一つはっきりしませんが、要するにパウロが“以前”のこととして振り返っているのは(キリスト教徒になる前)「ユダヤ教徒であった(within Judaism)とき」というようなニュアンスではなく、当時「ユダヤ教徒であることを前面に出すような(過激な)行動を取っていたとき」というニュアンスだ、というもののようです。
要するに以前も以後も「ユダヤ教徒」であることに変わりはなく、変わったのはその生き方なのだ、ということです。
In the above quoted text, the choices are not between Judaism and Christianity, i.e. the former way of Judaism vs. the newer way of Christianity, but it is rather a comparison between Paul’s former ways and his newfound ways, i.e. Christ-centered and apocalyptic Judaism.[7]

こうしてみるとなかなか「宗教」のカテゴリーでパウロ自身のアイデンティティー理解がどうであったかを論ずるのはなかなか難しい感じがします。
やはりポイントはパウロにとって「キリストはどういうお方であったか」とキリストのアイデンティティーを中心に持ってくる必要があるのではないかと思いました。


なおこの辺の複雑な事情を考究した本として、デーヴィッド・ルドルフ『ユダヤ人に対してはユダヤ人として(A Jew to the Jews)』を「良さそうな本だなー」として言及しておきます。

[2018/8/15 追記]

このブログでは既にお馴染みのアンドリュー・ペリマンが、(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle
の出版を受けて、自らの「(新約聖書の)歴史的ナラティブ解釈枠」の視点からは「ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)」はどのように受け止められるか、と云うレスポンスを記事にしています。

2018年6月29日金曜日

今日のツイート 2018/6/29

「今日のツイート」という形での投稿は過去にもあります。

今日のツイート 2017/1/6

今日のツイート 2017/1/17


さて今回の「今日のツイート」は (詳しい文脈は分かりませんが)14歳の少年たちに「いかに聖書を教えるか」みたいなトピックのようです。


オーストラリア・シドニーの学校のことのようですが、先生はみな「カルヴァン主義」の方々のようです。
聖書クラスでの授業の効果はどうも余り芳しくないようです。

それでこのリプライなのですが、カルヴァン主義の「選びの教理」では子供たちは感化されないだろう、みたいな意見を述べ、かの有名なスポルジョン(19世紀英国の著名な説教家)でさえ、「もし彼が今の世に生きていればN.T.ライトやバイブル・プロジェクトに触れているだろうから、とてもカルヴァン主義者ではいられないだろう」と申しております。


2018年4月29日日曜日

God and the Faithfulness of Paul(追記)

GFP(God and the Faithfulness of Paul)については

 (1)ライトのパウロ研究をめぐる論集
 (2)God and the Faithfulness of Paul
で紹介していますが、大分経ちましたが「追記」をしたいと思いました。




(2)God and the Faithfulness of Paul の方で「目次」を全部紹介していますが、その中の「Part Ⅱ」の最後にあるジョエル・R・ホワイトの論文がacademia.eduサイトから読めるようになっている、と先日案内がありました。

筆者はすでにGFPを購入しているので特に必要なわけではないですが、GFPに関心があり、ホワイトの論文のタイトルが「N・T・ライトのナラティブ・アプローチ」ということなので、特に「ナラティブ」「物語り」アプローチに関心のある方にはお勧めと思い追記しました。
Joel R. White, N. T. Wright's Narrative Approach

 (2)で紹介したクリストフ・ハイリッヒの指摘にあるように、ライトのPFGは「教会論」とか「救済論」とか「従来の組織神学的」枠組を用いず、「世界観」や「ストーリー」を使ってパウロを解釈している点で注意深く読むことが必要です。

ホワイトの論文はその辺りのナラティブ・アプローチの基本的な事柄を丁寧に解説し、ライトのナラティブ・アプローチの斬新さを理解させようとしている点で有益だと思います。一読をオススメします。

2018年4月23日月曜日

FB読書会 2018年2、3月報告

もう4月も大分過ぎGW間近となりました。

すっかり月例報告が遅くなってしまいました。

ツイッターの方では割合細かく経過報告のツイートをしているのですが、ブログの方は更新されずにきてしまいました。

既に3月末で『シンプリー・ジーザス』は読了しているのですが、そのことも含めて「2、3月」の報告をしておきます。


第14章 新たなる支配のもとで(331-356)


昇天と即位 イエスの帰還(337-347)

《引用①》  すなわちこの書全体は、イエスが天と地を運営するCEOでその権限を行使しながら神の王国を現実のものとするために、その大使である弟子たちをいかに派遣したかというストーリーなのである。(342)
《引用②》 原始キリスト教徒のグループは、目立たないマイノリティであり、非常に脆弱な立場からイエスについての大胆な、正気の沙汰でないような主張をした。彼らは、いくらかもっともな理由から、既存の社会体制への脅威と見なされ、それゆえ批判、脅迫、処罰、そして処刑すらされた。しかし、彼らが当時の社会にもたらした脅威は、通常のものと異なっていた。彼らは革命家ではなく、武器を取って立ち上がることもなく、既存の体制を転覆して自分たちの新体制を作ろうともしなかった。(343)
《引用③》 人々に平和と繁栄と自由と正義を約束する帝国が、その目的を果たすために何万人もの命を奪ってきたというアイロニーを、私たちは誰もが知っている。イエスの王国はそんなものではない。イエスによって、アイロニーは反転する。イエスの死、そして彼に従う者たちの苦難が、天にあるように地においても、平和と自由、そして正義を生み出す手段なのである。(344)
イエスの帰還(続き)、今日のイエス(347-356)
《担当された方がこの部分を要約したものを一部紹介します。》  ライトは、「聖書的な正しい意味での『再臨』なしにイエスに従うことは、ただの『敬虔なあり方』に矮小化されてしまう。そこには、曖昧で不確かな個人的希望をもたらす私的霊性はあっても、正しい主であるイエスによって、世界全体が根本的に変えられるという展望がない」と言います。(P.347-8)

キリスト教信仰が単なるpersonal pietyに陥ってしまうことへのライトの厳しい指摘に、私はドキリとさせられます。我が身を振り返るとき、長い間、Me and my Godの信仰の中にいて、いわゆる伝道も、奉仕も、personal pietyの延長上にあったように思います。フードバンクでボランティアするとか、ホームレス伝道とか、さまざまな社会的にも良い働きがクリスチャンによってなされていますが、私たちはその先に、イエスが始めてくださった新しい創造、可能にしてくださった新しい世界を見ているだろうか、と考えさせられます。社会的に良い働きだけでなく、聖書の学びや祈りといったことも、イエスの再臨がもたらす新創造の完成というヴィジョンがなければ、結局self-servingなだけだなあと思わされました。

第15章 イエス・世界の支配者(359-403)
イエスの主権に対応する「四つの立場」(359-367)
《要約》 すでにイエスの死と復活によって開始した新しい創造のもと、イエスの主権による神の王国はどう進展して行くのか、をめぐる議論を整理するための座標軸を示すため、「四つの立場(アンディー、ビリー、クリスとデイビー)」で代表させています。
 このうち「リアライズド・エスカトロジー」に立つ「クリスとデイビー」の描写により重点が置かれ、しかし「クリスチャンの立場」とはいえその議論の仕方は「古代ストア派と古代エピキュロス派」の哲学、端的に言えば「汎神論か二元論」に回収されてしまうと指摘しています。
 これら二つに対し、ユダヤ・キリスト教の「天と地は重なり、インターロックする」世界観からはどう言えるか、と導いていきます。しかしその前に「驚くべき希望(Surprised By Hope)」で何度も釘を刺したように、クリスチャンは神の王国を「建てる」のではなく、神の王国の「ために」働くのだということを強調します。
神の支配 私たちを通して(367-376)
《引用1》 すなわち人間は、神のイメージを担うべき存在である。人間は神の至高の支配を世界に投影すべき存在なのである。人間は、神の王国プロジェクトにとって不可欠な構成要素だ。・・・・・・聖書全体から導ける答えは、神の権威を、そしてイエスの権威を、人間に委譲することに関連してくる。(368)

《引用2》 だが、イエスが天と地を自らにおいて融合させたことで、イエスに油を注ぎ、王国の働きをするよう力づけた聖霊が、いまや弟子たちに降臨した。こうして弟子たちは、いわば新しい神殿の拡張部分となったのだ。彼らのいるところ、天と地は一つになる。イエスは彼らと共におり、イエスの命は彼らの中に、彼らを通して働く。エルサレムであれ、他の広い世界のどこであれ、いまや弟子たちは、この世界を再びご自身のものにされる神が生き生きと活動し、至高の支配を打ちたてようとする場なのである。(374)
礼拝の中心性(377-382)
《引用①》 すべての王国の仕事は、礼拝に根ざしている。逆に言えば、イエスのうちに働いておられる神を礼拝することは、私たちのなしうる中でも最も政治的な意味を帯びた行動である。クリスチャンの礼拝は、イエスが主であると宣言する。それゆえ、そこで強く示唆されるのは、イエス以外に主はいないということだ。・・・それは礼拝者に、イエスへの忠誠、イエスに従うこと、イエスによって形作られ、導かれていくことを求める。(377)
《引用②》 私たちは、「良い行い」というキリスト教的な考え方を飼い慣らしてしまい、それを単に「倫理的な規則を守ること」にしてしまった。新約聖書において「良い行い」とは、より広い共同体における、またそのためにクリスチャンに期待される働きのことである。イエスの主権は、このようにして具体化されていくのである。(381)
教会の役割(383-397)
《引用①》 教会は偉大な仕事をする完璧な人々の集りだと考えるべきではない。それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法でイエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである。(384)
《引用②》 彼ら [原始キリスト教徒たち] の信仰とは、イエスがいまや高く上げられ、支配をされていて、すでに諸国に責任を問い始めておられる、ということだ。(390)
《引用③》 教会の歴史が始まって数世紀間、司教たちは貧しい者の側に立つ人々であるという評判を広く世間で勝ち得ていたことは多くを物語る。彼らは貧しい者の権利を擁護し、彼らを虐げたり、不当に扱ったりする者たちに非難の声を挙げた。・・・その役割は今日まで続いている。そしてさらに拡大している。教会には、教育、健康支援、高齢者のケア、難民や移民たちのニーズや痛みなどの分野における豊かな経験と、数世紀にわたる慎重な省察とがある。私たちはそうした財産を充分に活用すべきだ。(392)
まとめ(イエスの現在的統治と権力構造)(397-403)
《引用①》 イエスは当時の権力構造(power structures)よりも自らを上に置き、そこかしこで彼らの責任を問いただした。・・・
 言い換えれば、イエスはすでに彼らに責任を問い始めており、それは再臨の際に完結するだろう。つまり権威に対して真理を語るという教会の務めは、まさにそういう意味なのである。(399)
《引用②》 そうして私たちは「王であり祭司」として仕えることができるようになる。イエスの支配をこの世界で実現し、それを創造主への賛美へと集約する。今日イエスが世界を運営するということは、このように見えるものなのだ。(402)
今後の研究ガイドと訳者あとがき(404-414)
《引用①》 エイレナイオスは、神の子であるキリストがこの世界に来られた目的は被造世界全体を回復させ、完成させることにあった、と語ります。その神学エッセンスはrecapitulatioという言葉に要約されますが、それはエフェソ・・・・・・という救済理解です。分断され、バラバラになった被造世界はキリストにおいて再び統合され、そうして全被造世界は完成に向かって進んでいく、という宇宙的な救済理解です。(408)
《引用②》 このようにエイレナイオスについて書いていると、不思議とN.T.ライトの神学を巡っての昨今の様々な議論と重なる部分が非常に多いことに気づかされます。・・・など、ライト神学の特徴とされているものは、そのままエイレナイオスにも当てはまるからです。(410)

ということで、2017年4月から読み始めた『シンプリー・ジーザス』をちょうど一年で読み終えることが出来ました。

その他、
(1)ライトのローマ書釈義に関するブログ記事の紹介

(2)ライト邦訳書新刊の紹介
  『悪と神の正義』(本多峰子訳、教文館)
 『新約聖書と神の民・下巻』 (山口希生訳、新教出版)

以上の紹介がありました。


「新規入会メンバー」について。
2018年2、3月は、入退会者なく、トータル232名のままです。

以上2、3月の報告でした。

2018年2月3日土曜日

聖書ストーリーの神学的解釈とライト誤読?

たまたまツイッターTLに流れてきた「ブログ記事」を取り上げただけなので、大した意味はないですが・・・。

暇の人のための「ライト誤読」を考えるブログ記事・入門編

とでも題してブログ記事にしてみようかと思い立ちました。
というわけで「たまたま時間に余裕ある方」にでも読んでもらえれば幸いです。
聖書ストーリーの全体(overarching story)での「アダム(人類)」の役割をどう見るか、はライトの神学的解釈でも重要なものだと思います。
特にその「コスモス管理」の役割は「贖い」の計画の中心を占めるものと思います。
この記事はライトの神学的解釈を(ある意味見事に)誤読しているように思うのです。
「アダム(人類)」と「コスモス」を切り分け、前者よりも後者を大事にするライト!!、といったような批判を展開しています。

単純に指摘できるポイントの一つは、「(神学的)視角の違い」を殆ど意識できてない、ということがあるのではないかと思います。

かなり初歩的な「誤読」と思いますが、聖書の神学的解釈において「(神学的)視角の違い」の持つ意味・重要性を考察する上では(反面教師的には)意外に「良い」一例になるのではないかと思います。

(たまたま最近暇のある)皆さんはこの記事をどう読まれるでしょうか。

※この方は「リフォームド」の方のようですが、「リフォームド」の神学的視角を揶揄する意図は毛頭ありません。最近元フラー神学校学長リチャード・マウの本を読みながら、あらためてリフォームドの「世界観」神学の貢献を思っているところです。(ライトもマッギル時代その影響を少なからず受けたようですし・・・。但しリフォームドのライトシンパの方々が思うほどライト神学はリフォームドではないと思います。ライトにとってやはり「一世紀ユダヤ教の世界観」研究が何よりも基盤になっていると思うので。)

2018年1月31日水曜日

FB読書会 2018年1月報告

今日はまだ1月ですが、いつもより少し早く「1月」の報告をしておきます。

1月は13章と14章の最初の部分をカバーしました。

今回は(ヴォランティア)担当者が少なかったので《感想》は割愛、引用された箇所だけ(全部ではありませんが)紹介しておきます。


第13章 なぜメシアは死なねばならなかったのか(292-330)

(292-303)

《引用①》 イエスの人生には特定の瞬間があり、それらの瞬間は、すでに象徴的な意味付けがされている特定の地理的空間で起こった。ユダヤの偉大な祝祭日、とりわけ過越祭、またはユダヤの偉大なランドマーク、とりわけヨルダン川やエルサレムでのことを考えてみれば分かる。
 私たちの手にある資料を通じ、繰り返し出てくるこれらの瞬間や場所で、三つの流れが一つに終結するのに気づく。それは私たちの扱ってきたパーフェクト・ストームを作る三つの要素というより、別々の谷を下ってきた三つの川の流れが一つに合流し、圧倒的な水流となったイメージに近い。 ・・・イスラエルの王朝の、長く波乱に富んだ歴史におけるメシアの役割という偉大な川の流れと、苦難のしもべという漆黒の流れが激突する。そしてその二つの流れは、イスラエルの神の帰還という、長く、暗く、そしてさらに強力な信仰の流れに飲み込まれていく。(295-6)

《引用②》 しかしイエスは、これらの召命を一つにした。彼はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。バプテスマには、重大な復興に必要とされる悔改めと、かつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った行為の象徴的再演という意味があった。・・・すなわち僕としての召命と王としての召命とが、イエスの心と頭の中で一つに溶け合ったのである。(299)

《引用③》・・・世界の多くの自称「正統な」または「保守的な」クリスチャンたちは、王国なしの十字架を求めてきた。つまり、この世界と何の関わりもなく、この世から逃れる手段だけを提供してくれる抽象的な「贖罪」である。(303)
新しい出エジプト(303-312)
《引用①》 イエスの生涯のクライマックスをこのように見るのは、標準的でも伝統的でも、「正統的」でも「保守的」でもないが、それは新しい角度から「受肉」と「贖罪」という「伝統的」な教義に光を当てるものだ。私が主張したいのは、このような見方は私たちに、本来の歴史的現実を理解させてくれる、ということである。これらの教理は、これまで非歴史化され、抽象的な要約になってしまっていた。(306)

《引用②》 エルサレムは余りにひどく道を踏み外してしまっていた。ユダヤの指導者たちのローマとの共謀、腐敗、圧政、貪欲によって、ひどく堕落してしまった。ユダヤの民、イエス自身の民は、軍事的な暴力と武装蜂起で神の勝利を世界にもたらそうと決意していた。(308)

《引用③》 だがイエスは、反逆の民に神の裁きを宣告しただけではなかった。イエスは民に先立って進み、破壊的な諸力に自ら対峙し、そのすべての重みを自分の身に引き受けるかのように語り、行動した。そうすることで神の民が刷新され、諸国を照らす光となる召命を彼らが再発見し、長く続く隷属と捕囚から民が解放されるためだった。(310)
十字架(312-321)
《引用①》 この食事の重要なポイントは、弟子たちが新しい形でイエス自身の命を分かち合うことで、その恩恵を分かち合えるようにしたことだ。パンとぶどう酒という贈り物は、すでに重要な象徴的意味を持っていたが、新たな深みを獲得する。すなわち、弟子たちの間でイエスの臨在を体験する方法になるだろう。献げものと臨在。これこそ新しい神殿である、過越しに見立てた食卓での、この不思議な集まりが神殿なのである。(314)

《引用②》 こうしてイエスは、新しい召命への道を拓く。土地、神殿という民族のアイデンティティを守ろうとする熱烈な圧力に代えて、イエスの信従者たちの新たにされた心と生活を通して、全世界のための王なる祭司という初期のヴィジョンを取り戻す。全世界はメシアの嗣業だが、今や彼らのものにもなる。これらすべてものの背後に、献げものがある。イエスはそのようにして「アッバ、父よ」と呼んだ方に従順を献げる。そして、長い間履行されなかったイスラエルの召命である従順が、ついに達成される。(315)
 《引用③》 多くの読者は、ヨハネの福音書でこのようなテーマを無視し、この書を「霊的な」、または「神学的な」論文として、個人的霊性と来世での救済の希望を促す書として読もうとしてきた。しかし、この書はきわめて明快だ。ローマ帝国の権力とイスラエルの指導者の裏切りが、神の愛と出会う。そのとき生まれた大いなる渦巻きで、王としての神の勝利がもたらされる。それは、この世の諸王国を凌駕する神の王国の勝利である。(317)
《引用④》 この対決 [ヨハネ18、19章] の核心にあるのは、神の王国の持つ政治的、神学的意味の両方である。イエスは神の王国を宣言し、行動でそれを具現化した。(318)
(320-331)
《引用1》ではイエスの死をどのように解釈すればよいのだろうか?(略)同様に、イエスの死を神学的に過小評価してしまうことも簡単だ。《引用終》

《引用2》その理解(刑罰代償説)を先のモデル(メシアであるイエスはイスラエルを代表し、したがって世界を代表する)と合わせれば、刑罰による死という理論に向けられてきた主な批判はその力を失う。《引用終》

《引用3》イエスのストーリーを読み、研究し、祈れば祈るほど私が確信に至ったのは、これらのモデルはさらに大きな枠組みの中で理解されるべきだということだ。(略)すなわち、いずれにせよイエスの死は、彼自身にとって、またそのストーリーを語り、最終的にそれを書き下ろした人々にとって、神の王国を樹立する究極の手段と見られていた、ということである。十字架は、神の王国が天にあるように地上に来るようにという祈りへの、ショッキングな答えなのだ。《引用終》

第14章 新たなる支配のもとで(331-356)

新しい世界(331-337)

《引用①》
 イエスがイースターの朝に死者の中からよみがえったそのとき、イエスは新しい世界の始まりとしてよみがえった。そしてその新しい世界は、神がつねに創造しようと意図していた世界なのである。これがイースターの意味について知るべき最初の、そしておそらく最も重要なことである。(332)

《引用②》
 今日の西洋世界の多くの人は、物質的な肉体は「天」にいることができない、と考えている。彼らはプラトン主義者で、もし「天」があるとすれば、それは空間や時間や物質と関わりのない、非物理的なところだと考えている。(334)

《引用③》
 さらにこう考えてみよう。--そこで創造主なる神は、自ら圧政者の武器を打ちこわし、創造本来の目的が満たされる新世界を始めるためにやって来られた。原始キリスト教徒たちは、よみがえったイエスに会ったとき、そのように考えていたようなのだ。よみがえったイエスは、「天」において自由に活動できるが、彼らにはそれが見えない。だが、イエスが「地」にいるとき、彼らは見ることができた。(334)


その他、2月末に出版予定のライトの『パウロ(伝記)』の紹介インタヴューがベン・ウィザリントンのブログで(今日の時点で)7回に渡って取り上げられているのを紹介しました。

この引用部分などちょっと目を引きました。

I had in mind the ‘general reader’, including students, and – I hope! – radio or TV: I want Paul to be seen as what he was, one of the primary public intellectuals of the ancient world (i.e. not just a ‘religious’ figure as people in our world tend to imagine).





「新規入会メンバー」について。
2018年1月は、退会者1名で、トータル232名でした。

以上1月の報告でした。

2018年1月3日水曜日

FB読書会 2017年12月報告

明けましておめでとうございます。
今年もN.T.ライト読書会(リアルとフェイスブックともども)よろしくお願いします。


いつものように先月12月の報告をば。

12月は11章残りの部分と、12章をカバーしました。
今回は担当者が揃ったので《感想》も一部交えてご紹介しておきます。

第11章 空間、時間、そして物質(233-264)


新しい種類の革命(256-264)

《引用箇所》 第一の間違った見方は、人々に「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。(中略)イエスが語ったことは、神はまさにいまここで、「地上」において支配を始められたのであり、人々はこのことの実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(256)
《感想》 (中略)ライトさんの著書に出会えて良かったと思ったのは、すでに分かり切っていると思っていることについて再考する、ということを教えられたからです。教会で教えられている解釈も、いつからか、誰かが言い始めたことであって、時間とともに作り上げられてきたものに他ならない。それをまるで聖書とセット梱包された、改変してはならないもののように扱ってしまっていたのではないか、ということに気づかされたのです。
第12章 嵐のただ中に(265-291)

イザヤ書の僕(しもべ)(265-279)
《引用箇所》  ローマは背後に控え、いつものやり方で帝国の要求と野望とを押し付けようとしていた。イスラエルもまた、過越の祭りを祝いながら民族の解放と異教徒に対する勝利を待ち望んでいた。そしてイエスが「アッバ、父よ」と呼んだ神は、ある使命のためにイエスをこの世に送ったが、その使命は、ローマのものともイスラエルのものとも異なっていた。その使命は両方からの妨害に遭い、絶望的で悲惨な失敗に終わりそうに見えた。私たちがこうした全体像を持ち続けることができれば 、イエスが何者で、なぜあのように行動したのかを理解する途上にいる。(266-7)

《感想》 パーフェクトストーム(「ローマ帝国からの圧力と、イスラエルの千年越しの希望がぶつかりあうところに、さらに別の角度から激しく吹き込む不可思議かつパワフルな神ご自身の目的が出会うところ」)のメタファーは、実は私はあまりピンときていなかったのですが、ようやく見えてきたような気がします…
ダニエル書、人の子(279-287)
《引用》 「不正なぶどう園の農夫たち」が主人の「息子」を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったとき、主人は帰ってきて彼らに復讐する。これは詩篇118篇22節の成就となるだろう。・・・すべてが一致している、すべてが同じ聖書の物語と共鳴している。(285-6)
 《感想》 ダニエル7章(人の子)、ダニエル2章(石)、次に福音書のイエス語録での「捨てられた石」を関連付けたことが大きいと思う。
つまり「神が王となるストーリー」であるダニエル書7章だけでなく、2章の「石」も同様「神が王となるストーリー」であることをくっきりさせたことで、十字架の「苦難」が「王国樹立」ストーリーであることを意識させられた。
ゼカリヤ書の王(287-291)
《引用》 わたしたちのここでの目的にとって注目すべき大切な点は、ゼカリヤがイザヤやダニエルと同じく、三本の線が一つに収斂していくのを思い描いていたことである。すなわち、神とその民に戦いを挑む邪悪な異教の国々、失敗したユダヤ民族の指導者達、そして他の誰も成し得ないことを成し遂げるために来られる神である。この3つは、イエスがそう見ていたように、パーフェクト・ストームを形成する三要素である。(290)
《感想》 マタイ22章の王子の婚礼のたとえ話ともどこかでつながっているような気がしています。この終末に関するマタイ22章の王子の婚礼での出来事の話は、現代人としては、当惑してしまうようなたとえ話なのですが。

以上12月の報告でした。

「新規入会メンバー」について。  2017年12月は、入退会者ともに0名で、トータル233名のままでした。


以上、ご報告まで。