2017年7月31日月曜日

FB読書会 2017年7月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて4ヶ月が過ぎました。

なんとか「6章」が終わるところまでたどりつきました。

夏休みに入るとどんなペースになるか・・・多分それほど変わらないでしょう。

ぼちぼち続いているでしょう。


第5章ハリケーン(75-110)


「統治とイスラエルの希望」(97-105)
《引用箇所》 これらはすべて、私がここまで説明してきたテーマである第三の大いなる嵐、すなわち南東から迫り来るハリケーン、およびイエスの時代の人々が熱望していた「王」の最終的な姿に、ぴたりと焦点を合わせている。神のみが彼らの王となることを待ち望んでいた人たちは、聖書に明示された希望にすがりついていた。
 その希望とは、何年か後に神は戻って来られ、彼らとともに住まわれ、彼らを救い、立ち直らせ、彼らの敵を裁き、正義を行い、彼らがこれまで見てきたような人間の王とまったく違う、善き王としてすべてを整え、支配される、という希望だった。ただ、エゼキエル書34章やゼカリヤ書の文章を読んでいくと、神なる王は最終的に、人間の王として登場することが分かる。(103-104)
「神の王国とメシアの王国という二つのテーマの統合」(105-108)
《引用箇所》 イエス到来前の二百年間、およびイエス到来後の民族闘争の百年間、これらすべての期待を一つにまとめあげ、ダビデ家の王という姿 でイスラエルの神がやって来られると示唆した人は一人もいなかった。・・・・・・
 だがいうまでもなく、神の王国とメシアの王国という二つのテーマを統合したいちばん良い例は、イエスの運動だった。・・・むしろ不可解な組み合わせ、つまりダビデ家の王であると同時に、戻って来られた神として賛美を捧げた。(105-6)
 しかしここに問題がある。イエスについての究極の謎である。それは次の二つの問いに要約される。(107)
 
「第Ⅰ部 しめくくり」(108-110)
《引用箇所》 イエスは、神が自ら王となられると語った。それがどんな意味で、またどういう意味を今後持つようになるかを語り、実演し続けた。

第6章 いまこそ神が支配される(113-128)

「第Ⅱ部 導入」(113-120)
《引用箇所》  多くの人々がイエスについて知っていることと言えば、彼が村にやってくると必ずパーティーになることだった。…預言者が町にやってきた。それは皆にとって良い知らせなのだ!…病の人が癒やされた。そう、どんな病気でも癒やされたのだ。(113)
(この箇所を担当したYさん)
・パーティー人としての「イエス」
このパーティーのイメージが二部の幕開けというのもこのイメージの重要性を示している気がします。どうしてもイエスとかキリスト教というと儀式とか静寂とか大人しげなイメージが先行してしまうのですが、あるいはイエスの生涯と言うと十字架への悲壮な決意のような渋い顔のイエスを思い描きがちなのですが・・・、イエスが巻き起こした喜びとその表現としてのパーティーのイメージももっと鮮明に持っていてもいいのだろうなと思いました。
「問題解決担当者が問題になる」(120-123)
《引用箇所》 ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫である自分たちこそ、世界を修復して正常に戻す計画の重要な部分、問題解決を担う者であると信じていた。
 だが、ユダヤ人が信じていたように、彼らが神の世界救済計画における鍵となる存在ならば、彼ら自身の民族としての歩みが、これほど長いこと惨憺たる状態であったことは、二重にいらだたしく、困惑させられ、頭を悩ませる問題だった。
「出エジプトのストーリー」(123-128)
《引用箇所》
 イエスはこの出エジプトのストーリー、過越しのストーリーを選び、自らの公生涯における劇的なクライマックスの背景として用いたように思われる。
(123)
・・・・・・神の支配というテーマは、その中でのみ意味をなす。それはまた、神は王となられるというストーリーでもあった。(127)


以上7月中の『シンプリー・ジーザス』進捗・経過報告でした。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年7月は、入会3名で、トータル227名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年7月20日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 5

ではスコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の本書紹介・インタヴュー(全9回)に移って行きます。

多分一回では無理だと思うので、今回は前半となると思います。


マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


スコット・マクナイトがこの本を高く評価しているのはご存知のとおり。序言を書いていますし、ベイツの研究がマクナイト(もちろんその前にN.T.ライト)の「『福音』とは何か」の新約聖書学的探求を受けてのものだからです。

つまり「信仰とは何か」の前に「福音とは何か」が問われるべきなのです。そしてその流れの中で「義認」が問われ、「キリストとの合体(union with Christ)」が問われ、「救いの順序(オルド・サリューティス)」 や救済論の位置付けが問われるべきなのだと思います。

Ⅰ. 問いを枠付けるのは福音

ベイツがSBAAで「信仰」をあらためて問い直し、その中心的な意味を「アリージャンス(忠誠)」と捉え直すのは、すなわち「福音」が新約聖書においてどのようなものとして捉えられているか、という問いに基づいているわけです。
「信仰」とはその「福音」に対する応答だからです。
It all depends on how the gospel is framed. Is it about how to go to heaven when you die? About being released from guilt? About liberation from some kind of (spiritual or social) slavery? Let this be said over and over: How we frame the gospel determines what the response is.
Ⅱ. 「痩せた福音(truncated gospel)」の問題
 いわゆる「矮小化された福音」、マクナイトが『福音の再発見』で問題にした「罪の処理に特化した福音提示」の問題、などがそうです。
 
Ⅲ. 福音
… the gospel is the power-releasing story of Jesus’s life, death for sins, resurrection, and installation as king, but that story only makes sense in the wider framework of the stories of Israel and creation. The gospel is not in the first instance a story about heaven, hell, making a decision, raising your hand after praying a certain prayer, justification by faith alone, trusting that Jesus’s righteousness is sufficient, or any putative human tendencies toward self-salvation through good works. It is, in the final analysis, most succinctly good news about the enthronement of Jesus the atoning king as he brings these wider stories to a climax (30).
Ⅳ. (この)福音への応答: Allegiance to the Enthroned King

Ⅴ. 信仰/アリージャンスの三要素
 アリージャンスが「信仰(ピスティス)」 のすべての意味、というわけではなく、様々なニュアンス(信頼、忠実、信仰/ビリーフ、etc.)を「王となられたイエスへの忠誠」が大きく包み込むような形。

  1. Mental affirmation/intellectual agreement: certain enough to yield.
  2. Professed fealty to Jesus as Lord (Rom 10:9-10).
  3. Enacted loyalty to the king, as in the obedience of faith.
“If we remember that the allegiance concept welds mental agreement, professed fealty, and embodied loyalty, foregrounding allegiance makes excellent contextual sense in all of these crucial passages” (82).

以上、主に、The Gospel of Allegianceと、Three Elements of Faithから紹介しました。

(次回に続く)

2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2017年7月2日日曜日

FB読書会 2017年6月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて3ヶ月が過ぎました。
まだまだペースはあがらず・・・です。

今回は引用だけでなく、「担当者の感想」も少し入れてみました。


第5章ハリケーン(75-110)


「歴史の複雑さという問題」(75-77)

イエスは、自分の抱いていた神のハリケーンである預言者的ヴィジョンと、人々の心理状態とが衝突してしまう瞬間が、いま再び起きつつあると信じていた。しかし、それだけではなかった。イエスは自分の語ってきたストーリーを、自分が実証すると信じていたように思える。つまり、イエスがエルサレムにやって来ることそのものが、イスラエルの神が力と栄光をもって帰還することの体現、顕現であると信じていたようなのだ。(p.76)
《Oさんの感想・・・パーフェクト・ストームがローマとユダヤと両方の背景を説明するものとして》
What St. Paul Really Said [『使徒パウロは何を語ったのか』] でも、ライトは「福音」(ユーアンゲリオン)の背景として、ユダヤ教的背景とローマ的背景の両方を考えていますし、この視点は、福音書に限らず、新約聖書全般の歴史的背景を考える際のライトの一般的視点とも言えるようです。私自身は、こういった視点で新約聖書を読むことはあまりなかったので、最初は斜めに見ていたところがありますが、繰り返しライトのこういった視点に触れ続けることにより、自然な視点として捉えられるようになってきました。


「神の愛のハリケーン」(77-79)

 それは神の愛のハリケーンが、ローマ帝国の冷酷な力やイスラエルの過熱した民族的待望と衝突する瞬間だった。この衝突について考えることを通じて初めて、私たちはイエスの死の意味を理解し始めることができる。真の神の子、真の大祭司が、どのように世界の王となったかを理解し始めることができるのだ。
 もちろん、これらを理解できるようになるのは、まだ先のことである。こうした深い理解に達するために、神の主権とその独自の行動というテーマが、旧約聖書の中でどれほど強力なものであるかを知っておく必要がある。
《感想》
 「旧約聖書背景」というような簡単なことではなく、イスラエルの信仰における「神の主権(とその行動)」に対するある意味「実感的な認識」を身につけることではないかと思います。

「飼いならされた神」?(79-81)
《引用》
 ・・・古代のユダヤ人たちが神についてどのように考えていたにせよ、神は、飼いならされた神ではなかった。・・・
 ある意味で、神の風を他の二つの風と同列に論じることそのものがおかしなことなのだ。それでもあえてそうする理由は、一世紀のユダヤ人たちが、自分たちの民族のストーリーだけでなく、彼らの神のストーリーも語っていたからだ。・・・熱烈な信仰心を持って、彼らの神は唯一の神であること、彼らの苦悩は世界の痛みであること、彼らの苦しみこそが世界の中心にあること、こうした信仰を彼らの神は一つにつなぎ合わせていた。
《感想》
 この部分、「一つの民族とその民族神との関係が作るストーリー」がどうしようもなく自民族中心的になるのに、イスラエルの場合は「唯一創造神」ゆえに「飼い慣らす」ことができなかった。むしろ身から出た錆びとはいえ周辺強国に翻弄され苦難を負うストーリー・・・というようなことを言っているように響きます。

「神政政治」(81-86)

《引用1》
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。

《引用2》
 神政政治と言う思想は、現代人が思うほど突飛な考え方ではない。

《感想》 「神のみが王となられる」ということと、「それは神かダビデか、というような二者択一の問題としては捉えられなかった。それは両方を意味すると思われる。」のあいだに「どこまで人間的エージェンシーによる統治なのか」という「あいまい領域」があるように思います。
「王なる神」(86-97)

《引用1》
実際のところ、イスラエルのストーリーが進展していくにつれて、古代の詩人や預言者たちは、神ご自身が王であり、実権を握っておられ、すべてのことを解決するだろうと公然と語るようになった。彼らは、神がそのようになさるとき、物事がどうなるかについての印象的な歌を残した。(86頁)
詩編10:16-18・詩編47:1-10・詩編95:3-7・詩編96:10-13・詩編145:1, 10-13・イザヤ52:7-10・マラキ1:14
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。
《感想》 ライトが明らかにしているのは、預言者が語る神が、
 A)完全な支配者の「王」
 B)完全に世話をしてくださる「羊飼い」
として表現されており、どちらも普通の人間の「支配者」にはそのようなことはできないのだ、だから「ほんとうの王」「ほんとうの羊飼い」を求める機運が歴史的に高まった、というイスラエルの歴史としてのストーリーを紡いでいるように思います。

以上6月中は「5章」の三分の二くらいをカバーできました。

担当してくれる方も、まったく初めての方も含め2名いました。


最近の動向として『シンプリー・ジーザス』があっちこっちの読書会で用いられたり、またこの本を読むために読書会が作られたりしているようです。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年6月は、入会6名で、トータル224名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。