2017年12月1日金曜日

FB読書会 2017年11月報告

12月です。
いつものように先月11月の報告をば。

11月は10章をカバーし、さらに11章に入りました。
今回は担当ボランティアがお一人でした。
感想は割愛して引用された部分だけご紹介しておきます。

第10章 戦いと神殿(213-232)

サタンとの戦い(220-226)

《引用箇所》 イエスは王としての任務を、真の問題が存在するところから再定義した。そうすることで、イエスは自分自身の召命を再定義した。・・・その召命とは、神の民を自由にし、神の主権と救済的な支配を打ち立てるための重要な戦いに勝利を収めることである。しかも、彼自身の苦難と死を通じて。(226)
イエスが見据えていた最後の戦いとは何だろうか?それはもはやローマ帝国への軍事的戦いではなく、神殿やエルサレムを奪い返すためのヘロデや祭司長たちに対する反乱でもない。・・・それはもっと根源的なものだ。それはサタンへの戦いである。(225)
善と悪との境界線は、神のレベルと、そしてサタンのレベルでは、はっきりしている。しかしそれが人間のレベルになると、個人であれ集団であれ、その区分がますますぼやけてくる。(219-220)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
出来事のストーリー(性)とその意味解釈(226-232)
《引用箇所》  同じように、私たちがイエスのさまざまなストーリー、特に最後の数日間に起きた出来事のストーリーを読むときは、そこにあるさまざまなテーマを組み合わせ、一貫性のある一つの全体像を作り上げるのに相当の努力を要する。しかし、過越祭で賑わう当時のエルサレムで、イエスがろばに乗って入城する姿を見た人々は、ちょうどこの経験豊富な艦長のような立場にいた。
 イエスの行動、その行動が喚起する預言、過越しの何重ものテーマ(暴君への勝利、奴隷の解放、献げもの、神の臨在)、これらによって一つの一貫性ある、しかし非常に挑戦的な全体像を、人々は難なく作り上げただろう。当時の彼らの世界観や、その根幹となるストーリーをよく学んでいない私たちは、(少なくとも初めは)それらをばらばらの要素として見てしまうが、当時のエルサレムにいた人たちは、一つの濃密な出来事として見ただろう。彼らは一目見ただけで、すべてを理解しただろう。その意味するすべてを。
 ではその「意味」とは何だったのか? 何よりも、それは紛れもなく王の行動、イスラエルの真の王であると言う主張だった。・・・にもかかわらずこの平和な王の到来は、全世界的な彼の支配の確立を意味するのである。(228-9)
第11章 空間、時間、そして物質(233-264)
神殿という「空間」認識をめぐって(233-241)
《引用》 そこで私たちがイエスを理解しようとするなら、彼の住んでいた世界と私たちの世界との違いについて把握することがぜひとも必要になる。(233)
 だが、このような時間、空間、そして物質について現在の西洋的な考えを抱いたままイエスのストーリーを読んでも、イエスとは誰かを理解することは決してないだろう。(234)
・・・言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。
 多くの人がすぐさま気づくように、これは後の神学者たちが受肉の教理と呼んだ、まさにそのものだった。だがそれは、多くの人が考えている受肉の教義と大きく異なっているように見える。(237)
・・・だが、この嘲笑的な批判は大事なことを忘れている。そう、確かにイエスは神について語った。しかしイエスは、まさに自分の行っていることを説明するために、神について語ったのだ。(237-8)
時は満ちた(241-247)
《要約》 時間!イエスの時代のユダヤ人も今日のユダヤ人も、時間について極めて特殊な感覚を持っている。ユダヤ人にとって時間は直線的に前へと進み、そこには始めがあり、中間があり、終わりがあると考えられている。それは、すべてのものが循環的にぐるぐる回り、必ず同じ時点に戻ってくるという別の人々の時間感覚と違う。(241頁) しかし、聖書の冒頭にはもう一つの特徴がある(241頁)
古代の異教徒たちがユダヤ民族について知っている数少ないことの一つは、異教徒の視点からすれば、彼らが一週間のうち一日は怠け者になることだった。しかしユダヤ人からすれば、それは怠けているのではない。(242頁)
安息日は、歴史の初めの礎の時から究極の回復へと進む時の流れを感じる瞬間でもあった。神殿が、神の領域と人の領域とが出会う空・間・であるならば、安息日は、神の時と人の時が一致する時間だった。(242頁)
新しい創造(247-255)

《引用①》 神の栄光はエルサレム神殿に降臨したのでもなく、またシナイ山の頂上に降り立ったのでもなく、イエスの上に、そして彼の中で輝き出た。彼はその成就の瞬間に、律法と預言者、つまりモーセとエリヤと語り合った。「キリストの変貌」と私たちが呼ぶものは、核心的な瞬間である。それは、イエスの生涯において、神殿の空間と安息日の時間の指し示すものが明らかになったように、イエスにおいて、より正確にはイエスの肉体において、物質世界そのものの指し示すものが明らかにされた瞬間であった。(252-3)
《引用②》 聞く耳と見る目を持っている人にとって、山上でのキリストの変貌のストーリーが証しているのは、イエスはいわば神の「物質」ーー新しい創造ーーと私たちの時間が交差する場だ、ということである。イエスが神の世界と私たちの世界、神の時間と私たちの時間が交差する場であったように。・・・新しい創造のすべては、大地に蒔かれた種、新しい世界の初穂としてよみがえられたイエスから始まる。(255)

以上11月の報告でした。

その他11月6~8日開催された「日本福音主義神学会・全国研究会議」関連の投稿が幾つもあり、ディスカッションが続きました。
 ※このサイトで講演のまとめ・レスポンスが読めます。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年11月は、入会3名で、トータル233名になりました。


以上、ご報告まで。

2017年11月3日金曜日

FB読書会 2017年10月報告

11月です。
いつものように先月10月の報告をば。


10月は9章(10章への準備的な内容みたいですが)をカバーし、さらに10章に入りました。
今回は担当ボランティアがお二人加わりましたので助かりました。


第9章 王国、現在と将来(192-212)

ユダ・ハンマー(192-197)
《引用箇所》 最も有名なのはパリサイ派である。彼らは自分たちなりの理解に従って、古代の伝承に忠実であろうと徹した大衆運動であり、神が再び行動を起こしてくださるのを熱烈に待ち望んでいた。そこで大切なことは、かの偉大なストーリーが、彼らの心と聖書の読み方の習慣に深く刻み込まれていたことである。(196-7)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
星の子(バル・コクバ)シモン(197-204)
《引用箇所》 そして多くのユダヤ人は、メシアを待ち望むのはまったくの誤りだという結論に達した。ともかく、ユダヤ人の反乱はその後、途絶えてしまった。彼らはひっそりと神と律法に従って生きることに満足し、他民族が世界を支配したければ、それはそれでよしとした。……
星の子シモンのストーリーはユダ・ハンマーから300年後のことであるが、結末はまったく違うものの、そこに驚くほど共通のパターンがある。……
シモンと彼の支持者たちの信じたストーリーは、ユダ・ハンマーと同じストーリーだった。それこそが聖書の語るストーリーだと彼らは信じ、聖書の約束は、そのストーリーどおり成就すると信じていた。それは、神がついに王となられると語ったイエスの言葉を聞いた人々の脳裏に浮かんだストーリーだった。それはイエスがエルサレムに入城した際、人々が歌に込めたストーリーだった。(203-4)
《感想》 こういう歴史的背景を知るのはとても興味深いです。ユダ・ハンマーのように、イエスが登場する前にメシアとおぼしき人物が現れるのはわかるのですが、イエスが登場して、十字架の死と復活を遂げたあとでもなお、メシアを待ち続けていたユダヤ人… 彼らは、自分たちが待ち望んていた王が異教徒によって殺されるとか、終わりの日の前に1人だけ復活するとか、どうしても受け入れられなかったのでしょうか…
王国樹立のアジェンダ、ヘロデ大王、シモン・ベン・ギオラ(204-212)
《引用》 人々が「ユダヤ人の王」に期待した一連のことは広く知られていた。・・・それらの期待の最上位に来るものは、異教徒に対する勝利と神殿の清め、また再建であった。(176-7)
《感想》 9章はイエスの王国樹立のアジェンダを見通すための、いわば「座標軸」作りだったということでしょう。それを「回り道」をして・・・と言っています。  そして取り出した要素は「敵に対する勝利」と「神殿清め/再建」でした。この二つが10章のテーマになります。
第10章 戦いと神殿(213-232)

戦い(213-220)
《要約》 9章において示された、「ユダヤ人の王に対する期待」の最上位は、異教徒に対する勝利と神殿のきよめまたは再建でした。これを10章では「戦いと神殿」と題して提示します。分担されたところは、「戦い」の前半です。イエスは戦いに関与します。しかしその戦いは、人々が期待した異教徒に対する勝利を目的とするような戦いでは無く、「サタンとの戦い」でした。・・・・・・
《感想》 クリスチャンは自身を善の側にいると捉えがちなのではないかな。??

以上10月中の報告でした。

その他「第6回N.T.ライト・セミナー」が終わったところで様々な感想やら何やらが続けざまに投稿されしばらく賑やかでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年10月は、入会1名で、トータル230名です。


以上、ご報告まで。

2017年10月1日日曜日

FB読書会 2017年9月報告

10月です。今年もあと三ヶ月。


今月は23日に第6回N.T.ライト・セミナーもあり忙しくなりそうですが、『シンプリー・ジーザス』の方はしゅくしゅくと進行します。


9月は第8章をカバーしました。今回は担当ボランティアが一人に減りましたので、《感想》部分はほんの少しだけ紹介します。


第7章 説明するストーリー、変革をもたらすメッセージ(162-191)

ストーリー、ラザロと金持ち(162-169)

《引用箇所》 その良い例が、ルカの福音書16章19節から31節の、死後、別々の世界に住んだ二人の男についての不思議な話である。この話のポイントは、貧しい者を助けるべきだという警告と、悔改めの緊急性である。(163)
イエスは、種を蒔く人のたとえ、・・・そこに含まれている旧約聖書の響きが、聖書によく親しんだ聴衆の心に根を下ろすことを願った。・・・だが、罪人と思われていた人たちがそのメッセージを受け入れた一方、正しい人々の多くはまったく分かっていなかった。
 ・・・・・・イエスの言葉がどう機能するかを研究する専門家は、その「言語行為」効果を描く。すなわち、ストーリーを語ることで新しい状況、新しい世界が作り出される。(168-9)
「種まきのたとえ」と「ぶどう園と農夫のたとえ」(169-176)
《引用箇所》 イスラエルはまさに、再び蒔かれている種である。しかし多くの人は、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ままでいる。多くの種が、道端や岩の上や茨の中に落ちてしまう。
 ここで言われているのは、イスラエルはいまのままではいけないということだ。(172)
次のストーリーは別の意味で重苦しい。イスラエル全体がイエスの神の王国のヴィジョンにまったく関心を示さないばかりか、それに激しく抵抗している痛ましい現実がそこに映し出されている。(174)
外側だけの改革以上のものが必要(176-181)
《引用箇所》 ・・・神の計画が成し遂げられ、イスラエルの運命が成就する。まさにその道筋の中にねじれが生じてしまっているのだ。
 いまこそ、イエスは単なる「偉大な宗教の教師」であって、新しい霊性のあり方や新しい救いの方法を教えたというたぐいの考えは退けるべきだ。(176-7)
 イエスは、もし神が天におけるように地においても王となられるのなら、外側だけの改革以上のものが必要であるとよく理解していた。それは単に既存の律法や規則の運用を強化し、厳格に実行することではない。それは、パリサイ派がやろうとしていたことだ。(181)
変容される心(182-191)
《引用箇所》  イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供してくださると言っているのだ。……その人のすべてを内側から刷新するのである。(185)
イエスは、神が王となるときに被造世界そのものが刷新されることを強調している。それゆえ神の王国における支配とは、創造の秩序の意味を明らかにする支配なのである。……

 心に関する他のすべての箇所を考え合わせれば、私たちは自信を持ってイエスの示したポイントはこうだと断言できる。すなわち、神が天でそうであるように地においても王となられるとき、*神は心の頑なさという病への解決をもたらしてくださるのだろう*。病める体へのイエスの癒しは、その人の奥底までも貫徹する。内側からの癒しによって変えられた人生は、神が王となられるとき、それにふさわしい創造の秩序を示すものとなるだろう。……

 イエスの教えが生活の私的領域での敬虔さについてだけのものでは決してない。(188-9)
《感想》 「心の頑なさ」は神が王になるときに癒される「病」であるとは、なんと感謝なことでしょうか。…… あと、この箇所は原文で読むと、神が王となるときになされる刷新が、いかに根本から徹底的になされるものかがはっきりわかります。

以上9月中の『シンプリー・ジーザス』は予定通り第8章を読了したことを報告します。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年9月は、入会1名で、トータル230名となりました。


以上、ご報告まで。

2017年8月31日木曜日

FB読書会 2017年8月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて5ヶ月が過ぎました。

ほぼ「1章/月ペース」で進んでいます。

8月は第7章をカバーしました。5つのパートに分け3人の方が担当してくださいました。上手く捗りました。

ということで今回は《感想》部分も少し多く紹介しました。


第7章 キャンペーンここに始まる(129-161)


イントロ(129-131)

《引用箇所》 紀元一世紀の眼鏡をかけたまま、イエスと、そしてイエスがイスラエルの神について語ったことを振り返ってみよう。使者が公式の布告を宣言するやり方に倣って、イスラエルの神がついに王となられたことをイエスは宣言した。「時は満ちた!」と彼は言う。「神の王国はいまや到来しようとしています。・・・」(マルコ1章15節)
こうした宣言がどんな効果を生むか、少し考えてみよう。民主主義の下で生きる今日の私たちは、新しい大統領や総理大臣と共に新しい政府が誕生することを経験している。それをラジオやテレビのニュースで聞き、それが新しい政治の始まりであることを知り、新体制を受け入れる。(129)
「祝宴、癒し、赦し」(131-140)
《引用箇所》 赦しは実際のところ、癒しの一種なのである。それは、人々を押し潰して身動きできなくする重荷を取り除いてくれる。赦しは掛け値なしに人を真っ直ぐに立ち上がらせるのだ。それは社会全体に広がっていく。(136,137)
赦しと癒し。この二つは個人的にも社会的にも、分かちがたく結びついている。社会全体が、積年の恨みから生み出されれる不和によって身動きが取れなくなり、内乱へと発展する。直視されることも、赦されることもなかった一つの出来事や行動のために、家族も引き裂かれることになる。同じように社会も家族も、そして個人も、赦しを通じて和解がなされ、新しい希望と新しい愛を見いだすことができる。 (138)
《感想》 イエスの宣言は「神があなたの心の王座に着かれた」のではなく「神がこの世界の王座に着かれた」である。私たちは、プロテスタントの流れの中で「神と私」の関係を強調しすぎてしまい、神が世界(あるいは社会)に対して為されることに興味関心を持たなくなってしまってはいないか。それに加えて、私という個人が世界、社会、隣人に対して為すべきことをあまり考えなくなっているのではないだろうか。神との関係を強固に保つことが第一の目的になってはいないだろうか。・・・・・・
神はこの世界を通して私という個人を癒し、そして私という個人を通して世界を癒そうとされているのではないだろうか。また、自分自身は家族や隣人との関係の癒し(回復)にどれほど関心を払い、祈り求めているだろうか、と思わされた。

「最初の宣言」(140-146)

《引用箇所》 イイエスの最も正式な宣言は、ルカの福音書の中で(ルカ4:16~20)、その公生涯の最初になされた。・・・イエスは立ち上がり、イザヤ書の巻物の中からある一節を読んだ。
 その箇所は来たるべき世、奴隷状態からの解放、新しい出エジプト、捕囚後の回復に言及した偉大なる聖書箇所の一つだった。(140)
《感想》 >奴隷状態からの解放
これが、実は救いの理解なのだと、実はライトさんの著作を読み始める7年くらい前までは明確に言語化できなかったのですが、ライトさんの本を読み始めて、これで読むと非常に明確に、スッキリと、旧新約聖書が読めることに気が付き、それ以来、個人的には、あぁ、なるほどこう読むのか、と従来バラバラで、セメダインやガムテープでガチガチに固めていたものを一旦外して、きれいに並べ替えて、非常にスムーズに聖書を理解できるようにはなりました。
「あなたの罪は赦されました」(146-151)

《引用箇所》  これらのストーリーは、それに類した他のストーリーと同様に、待望久しいヨベルの希望と共鳴するものだった。それはイスラエルの罪によってもたらされた捕囚からの解放であった。また一方でこれらのストーリーは、偉大な出エジプトのストーリーによって喚起されるイスラエルの希望とも共鳴するものだった。そのどちらにおいても、罪を赦すとイエスが宣言した際、彼のしたことに対する不満の声が上がった。パリサイ派のシモンの家にいた人々は、「罪さえ赦すこの人はいったい何者なんだ」と尋ね、癒された中風の男を見た律法の専門家は、罪の赦しは神だけができると指摘した(マルコ2:7)。(150)
《感想》 イエスのキャンペーンのテーマである「祝宴、癒し、赦し」がここで再び浮き上がってくるのが分かります。「イエスの癒し、祝宴、それを切実に必要とされている人への赦し、これらすべてが、神が王となられると彼が語った時、いつも聴衆の心に生れただろう大きなヴィジョンの手近な現れなのである。」と結んでおられるのが心に残りました。
「ヨハネとヘロデ」(151-161)
《引用箇所》 しかしヨハネは、彼の従兄弟のイエスこそ、来るべき王であると信じていた!イエスの行動を通して、神はついに王となるーー暴君の圧政を打ち砕き、民を解放する!もしそれが起こるとすれば、まさにうってつけの役割がヨハネにあったのではないか?ヨハネの公生涯のクライマックスは、とどのつまりイエスの宣教を開始させることにあったのだ。イエスを、神の時の人として立ち上がらせることだった。それではなぜ、イエスはヨハネの苦境を知りながら何もしてやらなかったのだろうか?(152-3)
《感想》 この部分の記述は、所謂なぜ、神は悪を放置するのか、議論(所謂神義論?)ともつながる問だと思います。我々は、このような問いをすぐに、それも安易に立てたがる傾向があると思いますが、神のご計画はそれこそは不可知なことでは無いか、と思っております。それが次の部分にもつながっていると思います。そして、今も神は善なのに不善を許すのか、というような問になって、いまも続いているのかなぁ、と思いました。


以上8月中の『シンプリー・ジーザス』第7章ほぼ読了・・・という進捗・経過報告でした。

その他「フリーeBook情報」ということで以下の二つのリンクを紹介しておきました。
 (1) The Gospel According to Acts by N.T. Wright
 (2) Was Jesus a Jew? Discovering the Jewish Jesus


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年8月は、入会2名で、トータル229名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2017年8月7日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 6

スコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の『Salvation By Allegiance Alone』紹介・インタヴュー(全9回)の2回目になります。

マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

以上を前回カバーしました。

今回は以下の5つとなります。
 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


前回もそうですが、5つの記事それぞれにコメントはしません。

正直言ってベイツの主張が引き起こす論争の多くは「恵みのみ」「信仰のみ」の宗教改革原則にもとるのではないか、といったような「神学的要請」と「新約聖書テクスト」の意味・ニュアンスの中心・はばはどの辺にあるか・・・というかなり押し問答的な様相を呈するわけです。

一応著者であるベイツ自身も、紹介するマクナイトもその辺りのことをかなり意識していろいろやっているわけで、どうしてもそれらをいちいち紹介しようとすると「くどくなる」感じなのです。

たとえば「恵みのみ・信仰のみ」に関して、神からの一方的「賜物」として受け取るはずが、「アリージャンス」は「付加する」ニュアンスを伴うのではないか・・・という疑問に対して、マクナイトはジョン・バークレイ『たまもの』やハワード・マーシャルを引き合いに出しながら反論しています。

これを有名な「NPP対OP論争」のフレームで戦わせると「義」を獲得する道が「トーラー遵守」なのか「信仰」なのか・・・という風になるわけですが、ベイツはこのような論争の細かいニュアンスを(マクナイトの引用によれば)以下のように潜り抜けている、としています。
In other words, the real “faith” versus “works” divide in Paul is more accurately framed as a divide between works performed as allegiance to Jesus the king versus works performed apart from new creation in the Christ. And the latter usually but not always takes the form of a system that seeks to establish righteousness through performing prescribed regulations. 
この他にも救いと言うことに関連して、「新創造/天(国)」の様相や、「救いの秩序(ordo salutis)」の問題などでも、「(改革派系)神学的要請」に対して新約聖書(パウロ書簡)テクストの持つニュアンスがどのようなものかベイツの主張・強調点を拾い上げています。

義認においては(復活し義とされた)王なるイエスとの結合(union with Christ)、その(個人的な性格ではなく)集合(教会)的な救いの性格、などが「アリージャンス」ニュアンスの長所として紹介しています。(改革派神学に対しては修正点となります。)


以上たくさんリンクを挙げた割には簡単な紹介になってしまいました。(さすがに飽きてしまいました。)

「大和郷にある教会」ブログで連載しています「義認論ノート(、)」がここで紹介した論点等について、より踏み込んだ議論をしていますのでそちらもお読みいただけると感謝です。

2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。

2017年7月31日月曜日

FB読書会 2017年7月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて4ヶ月が過ぎました。

なんとか「6章」が終わるところまでたどりつきました。

夏休みに入るとどんなペースになるか・・・多分それほど変わらないでしょう。

ぼちぼち続いているでしょう。


第5章ハリケーン(75-110)


「統治とイスラエルの希望」(97-105)
《引用箇所》 これらはすべて、私がここまで説明してきたテーマである第三の大いなる嵐、すなわち南東から迫り来るハリケーン、およびイエスの時代の人々が熱望していた「王」の最終的な姿に、ぴたりと焦点を合わせている。神のみが彼らの王となることを待ち望んでいた人たちは、聖書に明示された希望にすがりついていた。
 その希望とは、何年か後に神は戻って来られ、彼らとともに住まわれ、彼らを救い、立ち直らせ、彼らの敵を裁き、正義を行い、彼らがこれまで見てきたような人間の王とまったく違う、善き王としてすべてを整え、支配される、という希望だった。ただ、エゼキエル書34章やゼカリヤ書の文章を読んでいくと、神なる王は最終的に、人間の王として登場することが分かる。(103-104)
「神の王国とメシアの王国という二つのテーマの統合」(105-108)
《引用箇所》 イエス到来前の二百年間、およびイエス到来後の民族闘争の百年間、これらすべての期待を一つにまとめあげ、ダビデ家の王という姿 でイスラエルの神がやって来られると示唆した人は一人もいなかった。・・・・・・
 だがいうまでもなく、神の王国とメシアの王国という二つのテーマを統合したいちばん良い例は、イエスの運動だった。・・・むしろ不可解な組み合わせ、つまりダビデ家の王であると同時に、戻って来られた神として賛美を捧げた。(105-6)
 しかしここに問題がある。イエスについての究極の謎である。それは次の二つの問いに要約される。(107)
 
「第Ⅰ部 しめくくり」(108-110)
《引用箇所》 イエスは、神が自ら王となられると語った。それがどんな意味で、またどういう意味を今後持つようになるかを語り、実演し続けた。

第6章 いまこそ神が支配される(113-128)

「第Ⅱ部 導入」(113-120)
《引用箇所》  多くの人々がイエスについて知っていることと言えば、彼が村にやってくると必ずパーティーになることだった。…預言者が町にやってきた。それは皆にとって良い知らせなのだ!…病の人が癒やされた。そう、どんな病気でも癒やされたのだ。(113)
(この箇所を担当したYさん)
・パーティー人としての「イエス」
このパーティーのイメージが二部の幕開けというのもこのイメージの重要性を示している気がします。どうしてもイエスとかキリスト教というと儀式とか静寂とか大人しげなイメージが先行してしまうのですが、あるいはイエスの生涯と言うと十字架への悲壮な決意のような渋い顔のイエスを思い描きがちなのですが・・・、イエスが巻き起こした喜びとその表現としてのパーティーのイメージももっと鮮明に持っていてもいいのだろうなと思いました。
「問題解決担当者が問題になる」(120-123)
《引用箇所》 ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫である自分たちこそ、世界を修復して正常に戻す計画の重要な部分、問題解決を担う者であると信じていた。
 だが、ユダヤ人が信じていたように、彼らが神の世界救済計画における鍵となる存在ならば、彼ら自身の民族としての歩みが、これほど長いこと惨憺たる状態であったことは、二重にいらだたしく、困惑させられ、頭を悩ませる問題だった。
「出エジプトのストーリー」(123-128)
《引用箇所》
 イエスはこの出エジプトのストーリー、過越しのストーリーを選び、自らの公生涯における劇的なクライマックスの背景として用いたように思われる。
(123)
・・・・・・神の支配というテーマは、その中でのみ意味をなす。それはまた、神は王となられるというストーリーでもあった。(127)


以上7月中の『シンプリー・ジーザス』進捗・経過報告でした。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年7月は、入会3名で、トータル227名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年7月20日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 5

ではスコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の本書紹介・インタヴュー(全9回)に移って行きます。

多分一回では無理だと思うので、今回は前半となると思います。


マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


スコット・マクナイトがこの本を高く評価しているのはご存知のとおり。序言を書いていますし、ベイツの研究がマクナイト(もちろんその前にN.T.ライト)の「『福音』とは何か」の新約聖書学的探求を受けてのものだからです。

つまり「信仰とは何か」の前に「福音とは何か」が問われるべきなのです。そしてその流れの中で「義認」が問われ、「キリストとの合体(union with Christ)」が問われ、「救いの順序(オルド・サリューティス)」 や救済論の位置付けが問われるべきなのだと思います。

Ⅰ. 問いを枠付けるのは福音

ベイツがSBAAで「信仰」をあらためて問い直し、その中心的な意味を「アリージャンス(忠誠)」と捉え直すのは、すなわち「福音」が新約聖書においてどのようなものとして捉えられているか、という問いに基づいているわけです。
「信仰」とはその「福音」に対する応答だからです。
It all depends on how the gospel is framed. Is it about how to go to heaven when you die? About being released from guilt? About liberation from some kind of (spiritual or social) slavery? Let this be said over and over: How we frame the gospel determines what the response is.
Ⅱ. 「痩せた福音(truncated gospel)」の問題
 いわゆる「矮小化された福音」、マクナイトが『福音の再発見』で問題にした「罪の処理に特化した福音提示」の問題、などがそうです。
 
Ⅲ. 福音
… the gospel is the power-releasing story of Jesus’s life, death for sins, resurrection, and installation as king, but that story only makes sense in the wider framework of the stories of Israel and creation. The gospel is not in the first instance a story about heaven, hell, making a decision, raising your hand after praying a certain prayer, justification by faith alone, trusting that Jesus’s righteousness is sufficient, or any putative human tendencies toward self-salvation through good works. It is, in the final analysis, most succinctly good news about the enthronement of Jesus the atoning king as he brings these wider stories to a climax (30).
Ⅳ. (この)福音への応答: Allegiance to the Enthroned King

Ⅴ. 信仰/アリージャンスの三要素
 アリージャンスが「信仰(ピスティス)」 のすべての意味、というわけではなく、様々なニュアンス(信頼、忠実、信仰/ビリーフ、etc.)を「王となられたイエスへの忠誠」が大きく包み込むような形。

  1. Mental affirmation/intellectual agreement: certain enough to yield.
  2. Professed fealty to Jesus as Lord (Rom 10:9-10).
  3. Enacted loyalty to the king, as in the obedience of faith.
“If we remember that the allegiance concept welds mental agreement, professed fealty, and embodied loyalty, foregrounding allegiance makes excellent contextual sense in all of these crucial passages” (82).

以上、主に、The Gospel of Allegianceと、Three Elements of Faithから紹介しました。

(次回に続く)

2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2017年7月2日日曜日

FB読書会 2017年6月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて3ヶ月が過ぎました。
まだまだペースはあがらず・・・です。

今回は引用だけでなく、「担当者の感想」も少し入れてみました。


第5章ハリケーン(75-110)


「歴史の複雑さという問題」(75-77)

イエスは、自分の抱いていた神のハリケーンである預言者的ヴィジョンと、人々の心理状態とが衝突してしまう瞬間が、いま再び起きつつあると信じていた。しかし、それだけではなかった。イエスは自分の語ってきたストーリーを、自分が実証すると信じていたように思える。つまり、イエスがエルサレムにやって来ることそのものが、イスラエルの神が力と栄光をもって帰還することの体現、顕現であると信じていたようなのだ。(p.76)
《Oさんの感想・・・パーフェクト・ストームがローマとユダヤと両方の背景を説明するものとして》
What St. Paul Really Said [『使徒パウロは何を語ったのか』] でも、ライトは「福音」(ユーアンゲリオン)の背景として、ユダヤ教的背景とローマ的背景の両方を考えていますし、この視点は、福音書に限らず、新約聖書全般の歴史的背景を考える際のライトの一般的視点とも言えるようです。私自身は、こういった視点で新約聖書を読むことはあまりなかったので、最初は斜めに見ていたところがありますが、繰り返しライトのこういった視点に触れ続けることにより、自然な視点として捉えられるようになってきました。


「神の愛のハリケーン」(77-79)

 それは神の愛のハリケーンが、ローマ帝国の冷酷な力やイスラエルの過熱した民族的待望と衝突する瞬間だった。この衝突について考えることを通じて初めて、私たちはイエスの死の意味を理解し始めることができる。真の神の子、真の大祭司が、どのように世界の王となったかを理解し始めることができるのだ。
 もちろん、これらを理解できるようになるのは、まだ先のことである。こうした深い理解に達するために、神の主権とその独自の行動というテーマが、旧約聖書の中でどれほど強力なものであるかを知っておく必要がある。
《感想》
 「旧約聖書背景」というような簡単なことではなく、イスラエルの信仰における「神の主権(とその行動)」に対するある意味「実感的な認識」を身につけることではないかと思います。

「飼いならされた神」?(79-81)
《引用》
 ・・・古代のユダヤ人たちが神についてどのように考えていたにせよ、神は、飼いならされた神ではなかった。・・・
 ある意味で、神の風を他の二つの風と同列に論じることそのものがおかしなことなのだ。それでもあえてそうする理由は、一世紀のユダヤ人たちが、自分たちの民族のストーリーだけでなく、彼らの神のストーリーも語っていたからだ。・・・熱烈な信仰心を持って、彼らの神は唯一の神であること、彼らの苦悩は世界の痛みであること、彼らの苦しみこそが世界の中心にあること、こうした信仰を彼らの神は一つにつなぎ合わせていた。
《感想》
 この部分、「一つの民族とその民族神との関係が作るストーリー」がどうしようもなく自民族中心的になるのに、イスラエルの場合は「唯一創造神」ゆえに「飼い慣らす」ことができなかった。むしろ身から出た錆びとはいえ周辺強国に翻弄され苦難を負うストーリー・・・というようなことを言っているように響きます。

「神政政治」(81-86)

《引用1》
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。

《引用2》
 神政政治と言う思想は、現代人が思うほど突飛な考え方ではない。

《感想》 「神のみが王となられる」ということと、「それは神かダビデか、というような二者択一の問題としては捉えられなかった。それは両方を意味すると思われる。」のあいだに「どこまで人間的エージェンシーによる統治なのか」という「あいまい領域」があるように思います。
「王なる神」(86-97)

《引用1》
実際のところ、イスラエルのストーリーが進展していくにつれて、古代の詩人や預言者たちは、神ご自身が王であり、実権を握っておられ、すべてのことを解決するだろうと公然と語るようになった。彼らは、神がそのようになさるとき、物事がどうなるかについての印象的な歌を残した。(86頁)
詩編10:16-18・詩編47:1-10・詩編95:3-7・詩編96:10-13・詩編145:1, 10-13・イザヤ52:7-10・マラキ1:14
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。
《感想》 ライトが明らかにしているのは、預言者が語る神が、
 A)完全な支配者の「王」
 B)完全に世話をしてくださる「羊飼い」
として表現されており、どちらも普通の人間の「支配者」にはそのようなことはできないのだ、だから「ほんとうの王」「ほんとうの羊飼い」を求める機運が歴史的に高まった、というイスラエルの歴史としてのストーリーを紡いでいるように思います。

以上6月中は「5章」の三分の二くらいをカバーできました。

担当してくれる方も、まったく初めての方も含め2名いました。


最近の動向として『シンプリー・ジーザス』があっちこっちの読書会で用いられたり、またこの本を読むために読書会が作られたりしているようです。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年6月は、入会6名で、トータル224名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年6月19日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 4

さて前回、シリーズ3回目、はマイク・バードのSBAA著者インタヴュー全3回についでした。

今回はアンドリュー・ペリマンの書評記事(全5回)について書きます。
Salvation By Allegiance Alone (1): a review on the basis of the Introduction alone
Salvation By Allegiance Alone (2): Paul’s gospel and the sweeping plains of history
Salvation By Allegiance Alone (3): pre-existence and the gospel of Jesus
Salvation By Allegiance Alone (4): the best bit so far
Salvation By Allegiance Alone (5): the exegetical evidence for faith as allegiance

第1回目書評の冒頭部分です。
Matthew Bates’ book Salvation By Allegiance Alone is further evidence that evangelicalism is wrestling honestly and constructively with the biblical, theological and practical deficiencies of the traditional understanding of gospel, faith and salvation.
1. The true climax of the gospel is the enthronement of Jesus, but this has generally been “deemphasized or omitted”.
2. Pistis has traditionally been misconstrued as “faith”—typically in the saving power of Jesus’ death. It should be understood instead as allegiance.
3. Final salvation consists not in going to heaven but in participation in the new creation. Once this “true goal” has been recognised, terms such as “faith”, “works”, “righteousness” and “gospel” can be reframed.
と云う風に「まずは」全体として、ベイツの論及を好意的に受け止め歓迎しています。

しかし第2回以降「批判的」書評としてより深く分析して行くとごとに、さまざまな指摘がなされており、「結構よく読んで本の内容に切り込んでいるな」という印象を与えます。その分なかなか書評でも読み応えがあります。


ペリマンのブログを読んでいる人にはすぐ分かると思いますが、彼はライトの「新約聖書神学」研究アプローチをかなりな部分受け入れていますが、新約聖書ナラティブのフレームワークを「徹底して歴史的に」取り組んでいない分中途半端、と批判しています。

そのような見解の持ち主ですから、やはりベイツの取組みに対しても同様の視点から結構容赦なくダメ出しをしています。

たとえばベイツは「伝統的な福音理解、信仰理解」を修正することに熱心なあまり、新約聖書ナラティブ・フレームワークが持つ「歴史的性格」を見過ごし、コスミックなナラティブ理解の方に引っ張られている、と指摘しています。
But it seems to me that his concern to provide a workable alternative to the traditional evangelical paradigm has led him to overlook the properly historical orientation of the New Testament narrative.

Bates is trying to read the New Testament at a cosmic level, guided by theological interests, whereas I think it needs to be read at a political level, from a more rigorously historical perspective.
また、たとえば「私たちの罪のために」の部分ペリマンは歴史的に取れば、それは「すべての人のため」ではなく第一義的には「ユダヤ人のため」であった、とベイツの解釈を退けます。

I would also quibble over the casual assumption that according to the Gospel story Jesus died for our sins. I agree that when Jesus says that he has come to give his life as a ransom for many, “the substitutionary idea is foregrounded” (61), but I would argue that the redemptive logic only works in the Jewish narrative.

The claim made by the Synoptic Gospels is that Jesus died for the sins of Israel, and I would go so far as to suggest that when Paul says that “Christ died for our sins in accordance with the Scriptures” (1 Cor. 15:3), he is speaking as a Jew, on behalf of Israel. The apocalyptic-kingdom narrative uses a different logic to explain the significance of Jesus’ death for Gentiles.
また「ピスティス」の中心的ニュアンスは「アリージャンス」だというベイツの命題に対しても、個々のパッセージでは従来のような「信仰(ビリーフ)」の方が相応しい箇所も結構あったりするので、全体の解釈フレームワークとして「アリージャンス」の中心性を主張するのはオーケーだが、「ピスティス」に対してそのような厳密さを求めるのは相応しくないと見ています。(以下の引用は日本語で説明した内容をはるかに越えます。念のため。)
This is a critical but enthusiastic review specifically from a narrative-historical perspective. I would not normally devote so much space to one book, but I’ve enjoyed my engagement with Bates’ thesis. I think that he has missed the real narrative context for the faith terminology, I have serious doubts about his attempts to tie the kingdom narrative to the pre-existence of Jesus, and I’m not persuaded that “allegiance” really identifies what Paul meant by pistis, as will become apparent from what follows. But the book nevertheless is a solid and passionate demonstration of the potential that current New Testament scholarship has to recalibrate evangelical conviction.

Basically, Bates argues that “saving allegiance” includes three dimensions: “mental affirmation that the gospel is true, professed fealty to Jesus alone as the cosmic Lord, and enacted loyalty through obedience to Jesus as the king” (92).
The distinctions are important, but it is apparent that the word “allegiance” really only applies to the third of these dimensions. So why make it the overarching category?
The translation of pistis as “allegiance” is a useful polemical and pedagogic device. It shoves justification-by-faith off its pedestal. It makes us think about gospel and faith in the frame of an eschatological narrative about Jesus and Israel in relation to the nations.
以上、本当にさわりみたいなコメントしか載せていませんので、できればしっかり読んでいただくと、ちゃんと自分の「神学的解釈基盤」をもって他者の著書を批判的に書評することの「実益」を披露していると思います。


(次回に続く)

2017年6月11日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 3

さてこのシリーズ3回目となります。

前回はチャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

でした。

極めて簡単なものでしたのではぐらかされたように思われた方もいるかもしれません。

シリーズ最初の記事では(その時点で見つかった)書評のリストを挙げておきましたが、チャド・ソーンヒルの後に続いていたのが、「ジーザス・クリード」ブログのものでした。

全部で8本の記事やインタヴューがあります。やはり数が多いので一回の記事では紹介できないと思います。

今回は「ジーザス・クリード」ブログ記事は回避して、マイケル・バードのインタヴュー記事(全3回)を紹介したいと思います。


マイク・バードによる著者インタヴュー、
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 1)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 2)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 3)

バードは3回に分けて全部で6つの質問をしています。

一つ一つについて紹介はしませんが、バードはベイツが「ピスティス」を「忠誠(アリージャンス)」と訳すことで宗教改革原理「信仰のみ」から逸脱するのではないか、「行為義認」にならないかと質問しています。

また「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークでの「義認」や「救い」の理解はどういう風になるのか等、聖書釈義の妥当性だけでなく、(主に改革派の)組織神学的伝統との整合性について質問しています。

最後にベイツの解釈枠組みだと「伝道の実際(招き・決断)」ではどんな違いが出てくるかについても質問しています。


以下、ベイツの回答から「気になる点」や、「注記しておくべき点」を幾つか挙げておきます。


(1)「信仰」は「福音」の提示に対する応答ですが、特に提示される「福音」内容に関し(スコット・マクナイトも指摘しているように)これまでの福音理解が(「王なるイエス」宣言を省略した)縮小版になっていないかと問題提起しています。(この問題点に関しては『ゴスペル・コーリション(TGC)』も含まれるとしています。)

(2)逆に、本来的には「福音」に含まれないもの(私たちの信仰、私たちの義認)を入れてしまっている。
So we have made the gospel contain three items: “our faith,” “our justification,” and “faith in Jesus’s death for us.” My contention is that the gospel proper only includes the last item, Jesus’s death for our sins, but even then this is only a small part of the gospel and not the central target of “faith.” Saving faith is better understood as allegiance to Jesus the atoning king. The emphasis in Scripture is on loyalty to him as Messiah-king as that which forges the saving union.
(3)「(キリストの)義の転嫁(imputation)」用語について
 信ずる者にどのように「キリストの義」が与えられるのかについて神学用語が幾つか用いられてきたのですが、それらについて見解を示しています。
The biblical witness can perhaps best be understood by juxtaposing it alongside classic Protestant and Catholic treatments. In the book, in light of the biblical evidence, I discuss some limitations to imputed righteousness (the dominant Protestant model) while still accepting it if union is explicitly foregrounded. Meanwhile, I reject Catholic imparted righteousness yet accept infused righteousness, if properly qualified. Chapter 8 in the book has the rationale and details. However, in the end I think it best for the church to prioritize new language that better reflects Scripture’s own emphases: in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness. I am not sure who has suggested incorporated righteousness, but, wow, it’s brilliant.
(4)改革派聖書学者(T・シュライナーとか)がベイツの解釈を従来の「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークを崩すものとして警戒感を持っているようだが・・・。ベイツは以下に述べるようにパウロ自身がそのような「個人的救済の順序」に従って「義認」を言っていない、としている。
I also show that “justification” was not considered by Paul to be a “step” in a person’s order of salvation. The Reformed tradition has been deeply invested in trying to systematize the true order by which salvation comes to be applied to an individual—the ordo salutis. A traditional version of the Reformed ordo salutis begins with God’s unsearchable decree to save and to damn specific individuals, and then proceeds to speak about how God comes to apply salvation to those individuals that have been elected through calling, regeneration, repentance/faith, justification, sanctification, and then, finally, glorification. It is important for the Reformed scheme that God is the primary actor in each step of the ordo salutis, otherwise human works contaminate the process. Then humans would have a “boast” before God. The problem is, I contend, that the Bible nowhere articulates an individualized ordo salutis, nor can “justification” be considered a step or stage in the order.
特には挙げませんでしたが、リチャード・ヘイズの『イエス・キリストの信仰』 やN.T.ライトの見解なども俎上に上げて持論を展開していて「どの辺りのニュアンス」を狙っているのかある程度分かる内容になっています。

ただ議論の精密さが増しても、その議論の土俵から漏れた問題に関してどうなのか・・・という懸念は残ります。

ベイツは「キリスト者の義」として『 in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness』を採用すると言っていますが、(用語も含めて)同種の主張をするインタヴュアーのマイク・バードの問題設定と解決方法を見ると(ここ)、(議論の)土俵は依然として「聖書の言及箇所(アイデア)」に限定されている印象です。

昨年の「N.T.ライトの義認論」でも(本当に残念ながらですが)見取り図的に示唆したように、「義認」を得させる(体験化させる)枠組みとして「制度的教会」論、特に「聖礼典(洗礼)」論の視点が殆ど抜け落ちている、と云う印象です。

このことを「神学的にまとめる」にはなかなか荷が重い問題なので依然として記事にしてアップできていない目下の時点では、読者としては何のこっちゃでしょうが・・・。


(次回に続く)

[『Salvation By Allegiance Alone』書評ブログ記事のリストへの追加]

パトリック・シュライナー『The V-Shaped Gospel』、『Salvation by Allegiance Alone? Part 2

2017年6月1日木曜日

FB読書会 2017年5月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて2ヶ月が過ぎました。
まだかなりゆっくりペースです。

いつものように「担当者」が本著から引用した部分を紹介します。
どんなところに関心を持っているかがお分かりになるのではないかと思います。


第3章(37-58)


「歴史の複雑さという問題」(49-58)
     これらの非常に雑多な資料から、当時の人々がイエスの言動を見て納得した理由を説明できる時代背景を再構築しなければならない。それは、当時のある人々をしてイエスが神のメシアであると信じさせ、また他の人々には彼を速やかに殺害しなければならないと思わせる充分な時代背景でなければならない。(51)

     しかし、本物の歴史と向き合いたいなら、別の時代の異なる地域の人々は、私たちと著しく異なっていことを認めねばならない。歴史に取り組むためには、自制心を伴う想像力を働かせ、私たちととても違っていた人々に共感できるよう最善を尽くさねばならない。(54)

    ・・・そこから研究を始めることのできる「定まった点」など存在しない。あなたが資料を扱う方法には、あなたがどのようにイエスについて理解しているかという予断が反映されてしまうからだ。
     まったく同様に、あなたのイエス理解は、あなたの資料理解に反映されてしまう。しかしこれは悪い循環ではない。・・・つまり私たちはよくよく注意を払い、研究対象と資料の両方について理にかなった理解をしているかを確認しながら研究を進めていかなければならないのだ。(56-7)
第4章(59-74)

「ローマ帝国という嵐」(59-66)

(この部分から担当が替わりました。引用ではなく、ここまでのまとめも含め、簡単な解説風の文章にまとめていただきました。)

「ユダヤの風」(66-74)
    ・・・ユダヤの人々とその祖先たちは、彼らのストーリーがある方向へ、あるゴールへと向かっていると信じていた。または、預言者たちからそう信じるようにと言われてきた。いくつもの挫折や失望にもかかわらず、彼らの神は、彼らがゴールへとたどり着くことを約束していた。(68-9)

    ローマ人たちは、現在の「黄金時代」から過去を振り返り、自分たちのストーリーがどのように現時点いまで到達したのかを理解する懐古的な終末論を抱いていた。しかしユダヤ人たちは明らかに黄金時代とは呼べない現状から、自分たちの権利だと信じていた自由、正義、そして平和がもたらされる未来を眺望し、その到来を待ち望み、熱烈に祈っていた。つまりユダヤ人たちは未来志向の終末論を心に抱き、祝っていた。(69)
     メア・シャリム地区の多くの家族は、ホロコースト時代に東ヨーロッパから逃れてきた人たちだ。この時期の教父が、彼らの想像力を掻き立てて、ヒトラーがあのようなことを行ったのだから、いまこそ、先祖伝来の律法を守らねばならない。ヒトラーがあのようなことを行ったのだから、いまこそ神が新しいことをなさるだろう。(中略)
     イエスの時代には、ヒトラーの名が別の名前に変わるものの(カエサルかヘロデ)、それが当時の人々が耳にしたメッセージだった。巨大な悪の帝国と来るべき王なる解放者という2つのテーマは、出エジプトに一定の起源を持つ。その時、モーセはエジプトのファラオからイスラエルを開放した。このテーマは、イスラエルの早朝時代とその時代に人々の上に降り掛かった民族的大惨事の長大なストーリーによって、さらに強力なものとなる。(72)

以上5月中には「4章」は終わりませんでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年5月は、入会1名、退会1名で、トータル218名は変わりません。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年5月28日日曜日

2017.5 (リアル)読書会報告



[2017/6/2 追記あり]

先日の今年第2回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方1名、及びオブザーバーの形の2名を含め全部で8名でした。

用意した「縮小版」の
 ★ Introduction
 ★ A Fresh Perspective?
 ★ Conclusion
の特に「A Fresh Perspective?」を中心に読みました。

残念ながら細かい部分には入れませんでしたが、パウロのユダヤ教の基本的な信念(唯一神・選び/契約・終末)がロマ書のナラティブの土台にもなっていることを確認しながら学びを進めました。

この Paul and Caesar: A New Reading of Romans 論文は、「宗教と政治」テーマのうち具体的には「皇帝崇拝」に焦点を当てています。

「福音を宣言する」ことが暗に「皇帝崇拝」に対する挑戦となってロマ書に反響していることを英文を読みながら理解するのは難しいと言うことで、予め用意しておいた『聖書と物語(The Book and the Story)』から以下の引用を紹介しました。

多神教の権力構造に対する挑戦
 聖書の物語が始めからすべての多神教の政治権力構造に対して批判的であったことは「福音」という言葉に内在するものであり、これは新約と旧約、両聖書に見られるものである。イザヤは、ヤハウェの神がバビロンの偶像を打ち倒したことにより、バビロンのイスラエル支配はもはやなくなったという良い知らせを告げた。イザヤの語るユダヤ世界に深く根ざした新約聖書では、ギリシャローマ世界に対して、ナザレのイエスこそ新しい真の世の統治者であることを語っている。イエスの昇天こそ、全被造物が待ち望んでいた、解放と癒しをもたらす良い知らせである。この声明は「公の真実」か、さもなければ「公の嘘」か、いずれかであり、発言者が自身の内的宗教観を「私的な真実」として語ったものではあり得ない。
 イエスが「神の国」の到来について語ったとき、そのメッセージは時の権力者たちに対し明確な挑戦として語ったといえよう。だからこそ、イエスが十字架に処刑されるに至った理由が、歴史的にも神学的にも理解される。「イエスは主である」とパウロが語った時、それは明らかにカイザルの支配を喚起させる言葉を使っていた。世の支配者は二人並存し得ないのである。(『聖書と物語(The Book and the Story)』※)

キリスト教会の長い伝統では、ロマ書は「義認」や「聖化」の救済論的テーマを中心に読まれることが多く、政治的トピックとしては「13章の国家に対する服従」が限定的に扱われるのが常でした。

しかしロマ書全体は(始まりと終わりの部分を注意して読むと)「異教文化との対抗的」文脈を意識した宣教的な文書であることを意識しながら「皇帝崇拝」のエコー(反響)を文面から読む必要があるのではないか、ということを学びました。

ディスカッションでは(皇帝崇拝と)日本の天皇制との類似点なども話し合われました。

戦中のホーリネス系牧師たちへの迫害のことも話題に出ましたが、治安維持法側からキリスト教信仰が国体を脅かす「政治的含意」を指摘されて(信仰者側が)初めてそのことに気づくとはどういうことか、なども話し合われました。


閉会後は記念写真を撮って散会しました。


(二次会の巣鴨駅前大戸屋でのランチには5名参加しました。こちらでも色々な話題で盛り上がりました。)

[2017/6/2 追記]

上に『聖書と物語(The Book and the Story)』から引用しましたが、ちょうど読み始めた『使徒パウロは何を語ったのか』に適切な文章が見つかりましたので、追加しておきます。
 パウロの福音の歴史的背景をとらえれば、伝統的な宗教史研究における観念的な分類は、あまり役に立たないことがわかります。パウロの「福音」をよりユダヤ教的に理解しようとするなら、その福音は、皇帝礼拝や、「宗教的」であれ「俗的」であれ、あらゆる異教文化と対決するのです。それは、「王ではなく神」というユダヤ人の唯一神信仰のためです。・・・カエサル(またバビロン、ペルシアやエジプト、シリアなど)が王であるという主張に対して、イスラエルの神の主張は戦いを挑むのです。ヤハウェが王であると告げ知らせることは、カエサルは王ではないと主張することなのです。(77-78ページ、強調は原著)

2017年5月18日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 2

さてなるべくサクサクっと進めて行きたいと思いますが、まず
Salvation by Allegiance Alone: Rethinking Faith, Works, and the Gospel of Jesus the King
の紹介サイトに出ていた「書評」 の一つから見てみます。

※スクロールダウンして「Reviews」のところの「3番目」のものです。そして掲載されたのはスコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」ブログです。冒頭マクナイトによる「書評シリーズ」開始の説明と、書評者の簡単な紹介があります。

 
チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

新約聖書由来のことばで、「kingdom」「grace」「salvation」「heaven」と同様「faith」も実は聖書全体の文脈で理解しているとは言い難い。この本はそのような理解を助けてくれるもの。
と紹介しています。

西洋キリスト教の伝統では、救いにおいて「信仰」と「行い(功徳)」の関係が議論されてきたわけですが、宗教改革において「信仰義認」原則が確立されると、「信仰」からあらゆる「行い」の要素を取り除こうとする動きが強くなりました。

すると、キリスト者となってからの「聖化」や「道徳的成長・努力」をどのように位置づけたらよいのかということが、神学的にも実践的にも微妙な問題として扱われてきました。

「福音」に対して「律法」が対立的に理解される問題や、「聖化」が「行い」に人間的努力にならないように、とかそう言う問題です。
Bates is careful to nuance what this entails. This does not “sneak” merit into salvation in some Pelagian or Semi-Pelagian construct. Pistis/allegiance, Bates clarifies, is not “works,” but rather “pistis is the fundamental framework into which works must fit as a part of our salvation” (109).
「信仰(ピスティス)」に「アリージャンス(allegiance)」のニュアンスが加えられることによって、福音の理解が広がり、「救い」を受けたところにとどまらず、よりコミットした「キリスト者生活(イエスに従う弟子の生活)」へと繋がる、そういう視界・展望を与えてくれるだろう・・・そんな感じの評価をしています。
There is much more to this book that defining faith. Bates has in mind setting biblical soteriology straight concerning the future eschatological fate of the people of God, the place of justification in an allegiance-based understanding of faith, a biblical-theological understanding of “election,” rooted in the Bible’s context rather than later theological debates, and the connection between allegiance to Jesus and the Bible’s teaching concerning the image of God in humanity. What Bates has accomplished in such a small book is admirable. His writing is clear and accessible, yet rooted in solid scholarship. This books gets to the heart of the Bible’s vision on salvation, faith, works, and the gospel.

以上短いですが、今回はこの書評一本だけにします。

(次回に続く)

2017年5月9日火曜日

2017 第2回目のライト読書会

既に「2017年度」全体の案内はしました。

《第2回目ライト読書会》については

日時: 2017年5月27日(土)午前10-12時
場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
テキスト: Paul and Caesar: A New Reading of Romans 
とご案内しました。


2017年は「政治と宗教」というテーマで「(リアルの)ライト読書会」を計画したわけですが、4月1日の第1回目は「政治」と「宗教」が分離してきた(特に啓蒙主義近代以降の)歴史的背景をライトの個人史に沿って考えました。

日本においては自由主義と保守主義が対立することで、前者が社会正義や政治に関心を集中する一方、後者はその反動で「救霊」に専念するようになりました。それがどんな影響を及ぼしてきたのか、当日の出席者に語って頂きました。

第2回目は「政治や社会正義」に取り組む時、特に福音派が大事にしている「聖書の権威」をどのように実践に活かすのか、というテーマになります。

福音派のいわば土台となる「聖書釈義」を十全に用いた「神学」がどのように構築されるべきか、と云う課題、そしてそのテストケースとして「ライトのロマ書釈義」を読んでみたいと思います。

この「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」と云う論文は、所収された論集

A Royal Priesthood?:
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に付けられた「A Royal Priesthood」と云うモチーフの含蓄もさることながら、「世界観レベルでの政治的対抗」を導き出すため、「伝統的なロマ書の読み」だけでなく、「NPPの読み」もまだ不十分だ、と云う批判的テーゼを含んだプロポーザルになっています。

そのように「ロマ書全体の展望」をどう見るかということが「肝心な問題」なので、皆さんと読む部分はかなり限定的になりますが、意識は論文全体の趣旨、即ち「A Fresh Perspective」に向けたいと思います。

そのため僭越ながらこの「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」論文を「当日、実際に目を通し読み合わせる部分」と「アウトラインだけ見て本文は通り過ぎる部分」とに分離・圧縮したもの(※)を出席者に配布したいと思います。

※当日用に出席予定者に配布する縮小版は「Paul and Caesar、ライト読書会用(PDF)」で、後日お送りします。

当日まで3週間を切りましたが、この「案内」を読んで関心を持たれた方は是非お問合せください。(※英語が苦手な方は傍聴だけで大丈夫です。)

※問合せ・出席希望者は「小嶋」までご連絡お願いします。
「問合せ連絡先」は左コラム(←)を参照ください。 


2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、