2016年12月4日日曜日

『新約聖書と神の民・上』の書評紹介

 『新約聖書と神の民・上』が2015年12月に新教出版から出てちょうど1年になります。

4月には訳者による出版記念講演会もありました。

その後ネット上での反応が出てくるか気にはしていたのですが、小嶋が知っている方々を除くとまだ少ない感じがします。大著ということもあるのかも知れません。

でもちょうど出版1年ですので、ここでまとめて紹介しておきます。

(1) 久保木牧師のブログ(現在5回目まで続いています。)
(2) 一キリスト者からのメッセージ(現在25回目まで続いています。)
(3) 『本のひろば』(2016年6月号)、小林高徳氏(東京基督教大学学長)
(4) 自然神学・環境・経済

(4)は京都大学の芦名定道氏のブログと聞くが以下の寸評が付けられている。
 方法論的な議論がきちんとなされた上で大きな構想の中での論の展開であり、意欲的な著作である。背景に、リクールなどの現代哲学の動向も見え隠れし、「第5章 「神学」、権威、そして新約聖書」の「1. 序論:「文学」と「歴史」から「神学」へ」の議論の設定などは、わたくしも従来から論じてきた主張も合致している。新約聖書学でもこうした議論を行う研究者が現れていることは心強い(印象としては、ドイツとアメリカの中間的なポジションと言えるだろうか)。議論の細かな点においても、示唆的な内容が少なくない。
 訳語の選択に気になるところも存在するが、訳者あとがきは詳細であり、ライトを理解する助けとなる。

以上。また見つかったらそのつどご紹介します。(←ツイッターでは逐次紹介しています。)

FB読書会 2016年11月報告

今年もアドベントを迎えました。

今回の報告は残念ながら前月と同じです。

どうやら今年出版されると思われた本2冊は来年になりそうです。

それまで冬眠することにしましょうか。

「はーるよ、こい」でも歌って待ちましょうか・・・。


11月は、入会1名で、トータル206名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年11月4日金曜日

God and the Faithfulness of Paul


アマゾン日本では16,730円もするこの本、とても手が出ない。
[※追記 2016/11/5 FBライト読書会のメンバーが教えてくれました。来年ペーパーバック版が出るようです。プリオーダー価格が30ドルちょっとです。]
が、全部で30本ほどの論文のタイトルに目を通し、論文寄稿者の豪華な顔ぶれとカバーされている範囲を知るだけでも益を感じることが出来るのではないかと思い、以下に紹介します。


(その後ろに少しコメントして置きました。)

 

God and the Faithfulness of Paul:

A Critical Examination of the Pauline Theology of N.T. Wright

 

edited by

Christoph Heilig, J. Thomas Hewitt and Michael F. Bird

 

Table of Contents

Part I: Prologue

Michael F. Bird, Christoph Heilig, and J. Thomas Hewitt

Introduction
Benjamin Schliesser
  Paul and the Faithfulness of God among Pauline Theologies


Part II: Methodological Issues

(※)Oda Wischmeyer
  N. T. Wright's Biblical Hermeneutics: Considered from A German Exegetical Perspctive

Andreas Losch
  Wright's Version of Critical Realism

Theresa Heilig and Christoph Heilig
  Historical Methodology

Eve-Marie Becker
  Wright's Paul and the Paul of Acts: A Critique of Pauline Exegesis - Inspired by Lukan Studies

Steve Moyise
  Wright's Understanding of Paul's Use of Scripture

Joel R. White
   N. T. Wright's Narrative Approach


Part III: Contextual Issues

James Hamilton Charlesworth
  Wright's Paradigm of Early Jewish Thought: Avoidance of Anachronisms?

Gregory E. Sterling
  Wisdom or Foolishness?: The Role of Philosophy in the Thought of Paul

James Constantine Hanges
  "A World of Shrines and Groves":  N. T. Wright and Paul among the Gods

Seyoon Kim
  Paul and the Roman Empire


Part IV: Exegetical Issues


Gregory Tatum
  Law and Covenant in Paul and the Faithfulness of God

Sigurd Grindheim
  Election and the Role of Israel

James D. G. Dunn
  An Insider's Perspective on Wright's Version of the New Perspective on Paul

(※)Peter Stuhlmacher
  N. T. Wright's Understanding of Justification and Redemption

Aquila H. I. Lee
  Messianism and Messiah in Paul: Christ as Jesus?

J. Thomas Hewitt and Matthew V. Novenson
  Participationism and Messiah Christology in Paul

Larry W. Hurtado
  YHWH's Return to Zion: A New Catalyst for Earliest High Christology?

John R. (Jack) Levison
  The Spirit in Its Second Temple Context: An Exegetical Analysis of the Pneumatology of N. T. Wright

Torsten Jantsch
  God and His Faithfulness in Paul: Aspects of the History of Research in Light of the Letter to the Romans

Jorg Frey
  Demythologizing Apocalyptic?: On N. T. Wright's Paul, Apocalyptic Interpretation, and the Constraints of Construction

Richard H. Bell
  Individual Eschatology

Volker Rabens
  The Faithfulfness of God and Its Effects on Faithful Living: A Critical Analysis of Tom Wright's Faithfulness to Paul's Ethics


Part V: Implications

Andrew McGowan
  Ecclesiology as Ethnology: The Church in N. T. Wright's Paul and the Faithfulness of God

James G. Crossley and Katie Edwards
  Paul and the Faithfulness of God as Postmodern Scholarship

Frank D. Macchia
  The Spirit and God's Return to Indwell a People: A Systematic Theologian's Response to  N. T. Wright's Reading of Paul's Pneumatology

Sven Ensminger
  Barth, Wright, and Theology

Edith M. Humphrey
  Bishop Wright: Sacramentality and the Role of Sacraments

Eckhard J. Schnabel
  Evangelism and the Mission of the Church


Part VI: Epilogue

N. T. Wright
  The Challenge of Dialogue: A Partial and Preliminary Response


ライトのPFGも巨大だが、このGFP論集もかなりの厚さになるようだ。

編者の一人Christoph Heiligさんがインタヴューを受けているが、そこでこの論集にまつわる色々なエピソードを紹介している。

インタヴューはドイツ語なので、グーグル翻訳で英訳したものを読んだ。

結構読めるものだ。

その中でドイツのNPP受容とその中でライトがまだ無名な状況であることが言われている。

さらにライトのパウロ解釈が及ぼした影響を要約している部分があるので抜粋しておく。


It should not happen (but it is already happening) that German-language discussions on the NPP do not even name the name Wright - although he is again the name given to this paradigm.
But exegetical works on individual areas of Pauline theology will have to deal with the fact that Wright throws the classical analysis on top of systematic theological topoi and introduces a completely different, early-Jewish system from his point of view. So we will no longer be able to write without any discussion about the "ecclesiology" or "soteriology" of Paul as if it were clear from the outset that this is an adequate, non-anachronistic category for the understanding of the object.

とまあ、ライトは「初期ユダヤ教の枠組みを従来の組織神学的解釈上に投げつけ」たみたいなことを言っており、「それまで教会論とか救済論とかあたかもパウロが実際に使っているカテゴリーであるかのように議論することはもはや出来ないだろう」とも言っていますね。

論文集にはドイツの学者の名前が何人も入っているだけでなく、韓国の方も二人入っています。国際色が豊かですね。

(※) マークした二人のドイツ人学者は、今回の論文集の中でもChristoph Heiligさんが格別感銘を受けたほどライトと真剣に向き合っている労作だ、と評しているものです。

あっとそれから、寄稿者の中にエディンバラ大の方が3名いるが、大学サイトでこの本への貢献を紹介しているページがあるのでそれも一応紹介しておく。

2016年11月3日木曜日

FB読書会 2016年10月報告

・・・10月に入ったら「次の本」の検討に入ることに・・・
と「9月報告」に書いたのですが、結局今のところまだ「検討する段階」にありません。

まだもうしばらく「待ちの姿勢」を継続することになりそうです。

10月31日の「第5回 N.T.ライト・セミナー」の報告をアップしてあります。

10月は、入会2名で、トータル205名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

 

2016年10月24日月曜日

「『福音』再考」について

まもなく日本伝道会議(分科会)「N.T.ライトの義認論」が終わって一ヶ月となる。

すでに神学ディベートとしてこのウェブサイトで掲載した「対話に向けて、1~9」は撤収したが、何らかの報告と云うか感想みたいなものをぼちぼち書こうと思っている。


ところで、一週間後となる第5回 N.T.ライト・セミナー(概要)では「いま、福音は」と云うテーマで「義認(論)」や「救済(論)」よりもキリスト教会にとってはより生命線ともいえることを取り上げようとしている。

用語としてはあるかもしれないが「福音論」という論議や論争はあまり聞かない。

一つには福音が「自明」とされていることがあるかもしれない。

あるいは「福音」とは義認論とか救済論とかキリスト論を入れるパッケージのようなイメージなのかもしれない。(何でも入れられるから中身についてそんなに心配しなくてもいい、みたいな・・・。)



さて、その第5回 N.T.ライト・セミナーの案内で、「ちょっとした紹介」にイントロとして書いた文章がある。『福音再考へのアプローチ』と云う文章の一部引用だが、ここに転載してみる。


 今回発題講演者にお招きした谷口氏は2008年から「福音とは何か」を『リバイバル・ジャパン』誌にリレー連載した。「福音」とは何かを意識的・持続的に取り上げた氏に全93回に及んだ連載記事の総括レポートを依頼したのは当然の流れかと思っている。福音派(と聖霊派)の牧師たちは「福音」をどう理解しているのか。彼らの福音理解にはどれくらい幅や多様性があるのか。あるいは逆に(判で押したように)画一的なのか・・・

 谷口氏の総括レポートにコメントしていただく高橋、坂原両氏はベテラン牧師と按手礼前の伝道者という組み合わせである。お二人にも事前に「福音」について自らの視点を簡単に示して頂くため「三つの質問」のうち二つ選んで回答してもらった。
(1)谷口氏の問題意識・問題提起

 2008年に「福音とは何か」連載シリーズを谷口氏は始められた。

 毎回記事の冒頭には「福音とは何か」シリーズの「狙い・視点」が掲げられているが、それはこうなっている。

福音を語るためには、福音を理解していなければならない。しかし果たして、私たちはその『福音』を正しく総合的に理解しているのだろうか。
谷口氏の問題意識と問題設定は、福音を伝える側がどれだけ「福音」とその内容を「正確に、総合的に」理解しているだろうか・・・ということを掘り下げるものであっただろう。

 自分たちが「受け」そして「伝えた」福音が、その指し示す事柄の把握の確かさの点でも、内容の豊かさの点でも、何か欠けているところ、十分整っていないところが(まだまだ)あるのではなかろうか・・・というような問題意識があったのではなかろうか。

 昨今の教勢衰退、伝道不振、牧師不祥事頻発の状況が、教会(界)人をひたひたとその中心であり根拠である「福音」への理解に対する自省へ促しているのではなかろうか・・・。


(2)福音を取り巻く二つの「パラダイム・シフト」状況

 個人的に注目したことがある、という意味での「二つ」であってまだ他にもあるとは思う。

 「大和郷にある教会」ブログで、『福音派のパラダイム・シフト』というシリーズを全7回掲載した。(2013年6~8月)

 紹介したゴードン・T・スミスの論文が分析したのは、18-19世紀(大西洋を挟んだ)欧米福音派を席巻したリバイバリズム(信仰復興運動)に端を発し20世紀以降ほぼ全世界に普及した
「回心体験」、そしてそれを中心に組み上げられた教会の伝道・礼拝・教育(霊的形成)の構造的性格 
であった。

 問題の出発点となる「回心体験」についてスミスは以下のように(かなり大鉈で斬る様に)定義している。
回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。
 福音を取り巻くと断ったが、スミスの論考は「福音とはそもそも何を指すのか」とか「福音が語る内容はどこからどこまでか」というようなことだけについての反省ではなく、「福音」ということで教会が実践している事業(礼拝・伝道・教育)の中心となってきた「回心体験」とは何であったか・・・という問い直しであったといえる。

 このリバイバリズムという運動の中で定義された「福音の見方」、そしてそれに連動した教会の実践(礼拝・伝道・教育)を「一つのパラダイム」として分析した、というのが大事な点ではないかと思う。

 一つはこの「200年くらいの間支配的であったパラダイム」、と云う歴史的視点。

 もう一つは「回心体験」を中心にして教会事業が展開された、と云う(教会)社会学的視点。
  

 [スコット・マクナイト『福音の再発見』についての補足]

 マクナイトの本はある意味で「福音再考」だが、議論自体はかなりタイトでスミスのようなブロード(大風呂敷とも言えるが)ではない。

 「福音」それ自体が厳密に何を指すかについての考察は新約聖書に遡って「聖書神学的に」論及されているが、議論の比重はスミスが対象とした「回心体験」を生み出した「メッセージ」とその「提示の仕方」に絞っている。

 「天国に行くための罪の赦しによる救い」は宗教改革時点での「救済論的集中」から端を発し、その後の西洋キリスト教史における「個人的・主観的」キリスト教の発展・強化の文脈にあるもので、(一世紀)使徒的福音を尺度とした見た時、それは「個人的(罪からの)救いに特化した」福音であり、結果的に矮小化・(二元論的な面では歪曲)と分析される。(故に現在の福音派は「福音」派ではなく、実質「救い」派とみなされる。)


二つ目の「パラダイム・シフト」 状況とは、言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点(NPP)」のことである。

 ここでは詳しいことは書けないが、伝道会議の発題で最初に指摘したように、「義認」理解を巡るパラダイム・シフトは「新約聖書学」(その中の「パウロ研究」)というアカデミックな世界で先ず起こったことが、N.T.ライトと云う類まれなコミュニケーターを通して一般信徒等に浸透した現象である。

 指摘したように「アカデミックな世界」での常識や知見が、そのまま「キリスト教会」に受け入れられるわけではない。かなりの隔たりがあり、説教のために聖書研究や聖書解釈をしている牧師たちでさえ聖書学の最新研究には殆ど不案内なことが普通だ。

 そのような大きな隔たりを一人で何冊も本を著したり、各地で講演して埋めて行くライトの働きは先ずは賞賛されてしかるべきだろう。

 「福音再考」にポイントを絞ると・・・

 やはり問題となるのは「どれだけ歴史的に検証しようとするのか」ということではないだろうか。

 歴史的資料を広く積極的に用いようとするか、それとも「新約聖書」文書を特別視して同時代の歴史的資料と一線を画し限定的に用いようとするか、「検証の入口」でもかなりな違いを生む可能性があるのではないか。



 以上「福音を取り巻く二つのパラダイム・シフト」として「回心体験」と新約聖書学における歴史研究の深まりを挙げた。

 後者に関しては論ずることはしなかったが、いずれにしても「福音とは何か」を問う時、どういう文脈で問いを発しているかを自覚できると、「問題の再設定」や「方法論」が次第に視野に入ってくるようになるのではなかろうか。

2016年10月5日水曜日

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会) を終えて

ちょうど3ヶ月前にこの討論会について広告しました。
討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。
と書きましたが、最初にお伝えすることは討論会の報告ではなく、「掲載記事の撤収」についてです。

10月19日をもって「討論会関連記事」がこのウェブサイトからなくなります。(一部残します。)

 1. 「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会) (残留)
 2. 「N.T.ライトの義認論」発題1 (残留)
 3. 「N.T.ライトの義認論」発題2 
 4. 「N.T.ライトの義認論」発題1資料 (残留)
 5. 「N.T.ライトの義認論」発題2資料 
 6. ライトの義認論:対話に向けて(1) 
 7. ライトの義認論:対話に向けて(2) 
 8. ライトの義認論:対話に向けて(3) 
 9. ライトの義認論:対話に向けて(4) 
 10. ライトの義認論:対話に向けて(5) 
 11. ライトの義認論:対話に向けて(6) 
 12. ライトの義認論:対話に向けて(7) 
 13. ライトの義認論:対話に向けて(8) 
 14. ライトの義認論:対話に向けて(9) 

以上11本の記事が撤収されます。

なお討論会についてはまた別の機会にご報告したいと思います。

以上よろしくお願いします。

2016年10月4日火曜日

FB読書会 2016年9月報告

10月を迎えました。

8月で『クリスチャンであるとは』を読了し、9月はまるまる休養期間としました。

でもライト読書会関連で二つのイベントについて広報していました。

 (1)「N.T.ライトの義認論
 (2)「第5回 N.T.ライト・セミナー

(1)の方はまあまあの出来でしたが、やはり「時間の制約」は予想以上に大きかった。

(2)の方はこれからですが、(1)と同様やはり「焦点を絞る」ことが大切だろうと思います。


その他目立ったところでは、読書会メンバーの中から「実際にライトの教えるコースから学ぶ」人たちが出てきました。

 (1)オンライン・コース「ピレモン書」

 ピレモン書コースは「ライト専門」オンライン学習コースの一巻で無料で提供されています。

 (2)セント・アンドリュース大学での聴講

 写真のT牧師は4日間「ガラテヤ書」の講義に出られただけでなく、ライト教授と昼食を共にしてお話しすることが出来たそうです。(この表情!)



10月に入ったら「次の本」の検討に入ることにしていました。

現時点でまだ「新しいライト翻訳書」の出版情報が具体的にありません。

もうしばらく待ちの姿勢を維持しそうです。



9月は、入会1名で、トータル203名でした。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年9月5日月曜日

FB読書会 2016年8月報告

9月を迎えました。

『クリスチャンであるとは』をついに読了しました。

以下「訳者あとがき」(337-342)までの抜粋引用とコメント/感想などです。

第16章「新しい創造、新しい出発」

321-3ページ
    それゆえクリスチャンは、怒りにどう対処したらよいかを学ぶよう求められる。どういう理由であれ、誰でも怒ることはある。傷ついたこの世界では避けられない。何かにつけて怒らないためには、いくらかの図太さを身につける必要があるだろう。しかし、問題は怒りを覚えたとき、どのようにしたらよいかである。
    イエスの死は、私たちの赦しを完成した。素晴らしいことである。ならば私たちは、このことを互いに生かしていく必要がある。いつまでも恨んだり、不機嫌になったりする人にならず「お詫びします」と言える人にならなければならない。(一部省略)
  《コメント》
   教会でメッセージにつまずいた、人間関係につまずいた。など自分が傷ついて怒っていることを聞くことがあります。なんでそんなことに怒るのかなと思います が、大抵はその「小さな怒り」を溜め込んだresentmentが多いように感じます。(日本人はわりと溜め込みやすいタイプなのかもしれませんね。浅野内匠頭のように。)
324-7ページ
    「しかし、クリスチャンはユダヤ教徒と共に、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は、昔もいまも、それをまったくばかげていると思っている。・・・・別の言い方をすれば、私たちにとっての究極の目標はまさに、からだを抜きにした天でもなく、この地における単純なる生活の立て直しでもなく、全創造の贖いであり、私たちの召しは、自分のからだをもって、後にあずかるいのちを期待する仕方でいまをどう生きるかである。結婚生活における誠実さは、全創造に対する神の誠実さを踏襲することであり、そのあり方を先取りするものである。それ以外の種類の性的行為は、現代社会の逸脱と崩壊を象徴し、体現するものである。
《コメント》
   性に対する問い、本来神が私たちに願っておられる創造の業から性の意味を見出すことが必要であることを改めて理解することが出来た。「全創造に対する神の誠実さを踏襲する」このことを実践することは、聖霊様の助けなくしてはできない。この短文の中にクリスチャンであることを端的に語っている。自分の召しに対し、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いの為に救いの道を与えて下さっていることを喜び感謝したい。
329-334ページ
  「クリスチャンであるとは(中略)
   つまり、私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」
 《コメント》
   クリスチャンであるとは「イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」というのはよく聞いてきたことです。
   このオーソドックスな答えに沿いながらも、ライトの「クリスチャンであること」の定義の急所は「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を」だと思いました。
   この「新しい世界」「神の新しい世界」は「創造、堕落、イスラエル、イエス、新時代、新創造」という神の物語においてこそとらえられるものです。そのことが第二部で取り扱われていました。
   この現在進行形の新創造に向かいつつある神の物語という文脈の中でこそ「クリスチャンである」とはなんであるのか、はじめて定義できるというのがライトの主張だったのではないでしょうか。そして、本書を読み終えた後では、私自身がこの物語(世界観)を無視してクリスチャンについて問うこが、そもそも可能だろうか?と考えるようになりました。
「結びとして」 335-6ページ

ここでは読書会の皆さんにアンケートをしました。

 (1)どんな現代訳聖書をよく用いているか
 (2)どんな聖書辞典を重宝しているか
 (3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

(1)どんな現代訳聖書をよく用いているか

 かなりたくさんの回答があったのですが、上位5つを紹介しておきます。
 新改訳、新共同訳、口語訳、フランシスコ会訳、ESV

(2)どんな聖書辞典を重宝しているか
(3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

  こちら二つの質問への回答はぐっと減りました、とだけ報告しておきます。

「訳者あとがき」 337-342ページ
   全体像というのは、まさに創世記から黙示録までに見られる神のわざ全体のことです。・・・創造は新天新地へ、アブラハムへの契約は全人類への祝福へ、 モーセの律法はキリストによる律法の完成へ、ダビデの王国はイエスの説く神の王国へ、幕屋はキリストの受肉へ、神の民の脱出はイエスの死と復活へ、エデン の園は神の都へと、壮大でダイナミックな聖書の物語の全体像、尽きることのない豊かな恵みの世界を説き起こしています。(338-9)
《コメント》
   ライトを16年読んできて、上沼先生が↑に要約してくださったものをTKなりに「肝要点」としてまとめると以下のようなものがあると思います。
  (1)「旧・新約聖書」を「通して」読むということ。
  (2)理論と実践
  (3)「救い派(ソテリアン)」からの視点転換
  (4)パースペクティブの変化といっても・・・
大体以上となります。

 さて「次の本は・・・」といきたいところですが、

 9月はまるごとお休みにしたいと思います。

 10月に入ったら「次の本」に何を選ぶか提案したり話し合ったり・・・を開始したいと思います。(その頃には新たなライト翻訳書情報も揃って来ると期待しています。)

 ということで、この約1年半の間、『クリスチャンであるとは』にお付き合いくださりありがとうございました。


8月は、入会1名・退会1名で、トータル202名は変わりません。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年8月30日火曜日

ライト読書会のオフ会at神戸

9月末に開かれる第6回日本伝道会議
で(分科会)NTライトの義認論
 
9月28日(水)14:00〜15:30
 
がありますが、その開催を記念した独自企画として、

"NTライトと義認論のオフ会で中華を食べる会"
 
または
 
”日本伝道会議のオフ会で中華を食べる会”

を三ノ宮駅至近の中華料理屋で開催します。



時間:2016年9月28日(水) 16:45~ 

 ※分科会の関係でこの時間に間に合わない方も途中から適当に
場所:小肥牛(しょうひぎゅう)
 (阪急三宮駅北側、「伝道会議」会場からポートライナーで15分終点下車徒歩5分)
費用:2,500円
御問合せ先
 kawamukaihajime(アット)gmail.com

**日本伝道会議に参加してなくてもこのオフ会は参加可能です。
**9月18日までに「川向」までお申し込みください。
 

2016年8月1日月曜日

FB読書会 2016年7月報告

(梅雨もあけ)8月を迎えました。

いつものように過ぎた7月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の15章と16章を読みました。
もしかしたら7月中に読了するのでは・・・とひそかに期待していましたが、それはできませんでした。

あ、それから前回少し報告しましたが、フォーマットを変えたんです。

2ページずつくらいいろんなメンバーを指名して(オーケーの人に)担当して頂きました。

前回で言うと「280ページ」からこの新フォーマットです。

以下の『抜粋』と『感想/コメント』は全部異なる個人によるものです。


第15章「信じることと属すること


292-3ページ 

「信仰への招き」には真の創造者なる神の愛とイエスが人格を持ってこの世に来られ十字架と復活を通して新しい世界の創造を開始されてことを信じるという面 ともう一つ「赦しへの招き」の面がある。この赦しとは過去を帳消しにし、全くの新しいスタートを差し出す神の恵みを受け止めるようにという招きである。私 たちは神の好意を得ることはできない。しかし、神の赦しの恵みを受け止めること=畏敬と感謝の念を持って一息つくことで、そこから神への応答して感謝に満 ちた愛が心の中に溢れることである。「信仰」という言葉は「忠誠心」や「忠実さ」を示す。イエスはただ一人の真の「皇帝」であり、自己犠牲の愛というしる しによって世界を治めるという「よき知らせ」である。
《コメント》
普段から言葉の意味って本当に大切だと思うんですが、このように言葉の意味からかみ砕いて考えることによって、文章の意味合いの側面が見えてくるのと同時 に、理解が深まることを再確認しました。また、好意を得る努力ではなく、主の恵みに押し出されていく、そこで一息つく場所から押し出されていくということ が印象的でした。
294-5ページ 

イエスの言う「王国」という光に照らして見るならば、【罪】とは、生ける神が私たち人間を、この世界に対しての神のイメージを反映させる存在として創造し たのに、そうしてこなかったこと。元来は「ルールを破る」ことではなく「的外れ」という意味。【悔い改め】とは、本来の造られたところから、いかに自分た ちが離れてしまったかに気づくこと。
そして、信仰によって義とされた私たちは、すべての世界を正すという、復活によってすでに始められた福音の勝利のプロジェクトの一員であることを示すバッジを付けている。
《コメント》
エデン王国の王子として生まれたアダムは、的に外れて目が開け、子孫とともに地を従える働きが困難なものとなった。新王国の王子として復活したヨシュアは、永遠のいのちをもつ新生人たちとともに約束の新世界を創りあげている。
強くあれ、雄々しくあれ、目を覚ませ、福音に生きよ!

296-7ページ 

「神が私たちの父ならば、教会は私たちの母である」
スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉である。幾つかの聖書の箇所も
そのように語っている(とくにイザヤ54・1を反映している ガラテヤ 4・26-27)
そのことばは、次の事実を強調している。すなわち、生まれたばかりの乳飲み子のように、クリスチャンが1人でいるのは不可能であり、そうする必要もなく、望ましくもない。
《コメント》
カルヴァンのこのことばは、初めてである。非常に新鮮に映った。同時に重みを感じる。家族、家族と「神の家族」だと嫌と言うほど聞かされてきたが、実の所、結局は、神の家族とは言っても、「所詮は、他人の集まりではないか」と、長年密かに思って来た。難儀な問題は血の繋がった家族でないと難しい。「神の家族」の限界を感じて育って来た。・・・どちらも同等に大切にしないと行けないと思う。その上で、神の家族にしか出来ない事柄は教会で育みたい。「互いに学びあう事」は神の家族でないと難しい。いや、不可能である。このような読書会もその一翼を担っていると思う。
298-9ページ 

 礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働きは、人々の間に浸透 し、また、それから外に広がる。礼拝に基づくことなしに、新鮮で真正な神のイメージを反映させることはできない。同じように、礼拝は交わりを支え、養う。 礼拝なしの交わりは、同好会のようなものにすぐ陥る。そして排他的集団になり、イエスの民が目標とすべきものと反対なものになってしまう。
《コメント》
生産性を上げる鍵が、ライトが言うところの礼拝なのだと思う。真の神を一緒に礼拝することで、自分たちのボスがどんな方かを確認し合い、自分の立ち位置を確認することが可能になる。自分の価値観に合わなくても、あなたの価値観に合わなくても、それがボスの価値観に合っているのならそれでいいのだと、認め合う。認め合うというのはとても難しいことが多いのだけれど、ボスの価値観によってそれができれば、天の御国をこの地に広げているという実感と自信を取り戻 して前進することができる。そこが教会と、この世の集団との決定的に違う点であると思う。
300-1ページ 

モーセは幼いころ、ナイル川の葦の繁る河辺から救い出された。(中略)ヨシュアはヨル ダン川を渡ることを通して、ついに神の民を約束の地に導いた。(中略)これらの物語はさらにさかのぼる。『創世記』第一章にあるように、神の偉大な風か、 霊か、息が、鳩のように水の上をおおったとき、水を分けて乾いた地を呼び出したときのことである。創造そのものが脱出(出エジプト)、バプテスマと共に始まったとも言える。”水を通して新しいいのちへ。”
《コメント》
旧約聖書の創造物語、出エジプト記のモーセ誕生物語、さらにはヨシュア記のヨルダン川通過の物語を、イエス自身の行動と共に現代の「洗礼」に結びつけるこ とは大変重要で、キリスト者として常に意識しなければならないことだと思いました(現状として必ずしも心にとめられていない)。ライトを読んでいて感じる のは「新約聖書」だけで神学や日々の信仰生活が送られてしまうことへの危機感です。だからこそ第二部の「神」の直後に「イスラエル」をもってきているのだ とも思いました。
300-3ページ 

 初めに見たように、イエスは過越し、つまりユダヤ人の出エジプトを記念する重要な祭りを、権威にチャレンジする象徴的な行為の時として選んだ。それが次に何を引き起こすか、知っていたからである。
 その働きの初めに受けたバプテスマ、そして働きの最終段階で注意深く計画された最後の晩餐は、両方ともが最初の出エジプト、つまり水を通り抜けること、 またその背景にある最初の創造そのものを抜け出て、新しく規定された現実、すなわち新しい契約、新しい創造としてのイエスの死と復活を指し示している。
 キリスト教の物語の核心である一度限りの目覚しい出来事が、私たちにも起こる。・・・水を通してイエスに属する新しいいのちへ

第16章「新しい創造、新しい出発 

304-8ページ 

現代のクリスチャンの多くがこの点で混乱していることに、私はいつも驚かされる。「死後の いのちの後のいのち」は、初代教会とそれに続く多くの世代のクリスチャンにとって、当たり前のことだった。これこそ彼らが信じ、教えてきたことだった。もし私たちがそれと異なったことを信じ、教えてきたのであれば、目をこすって聖書のテキスト をもう一度読み直すときだ。 この世界を見捨てることは神の計画ではない。それは「非常によかった」と神が言った世界である。むしろ神は、それを作り直そうとしておられる。そして神が それを実行するとき、神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにさせる。これこそ、クリスチャンの福音が約束していることである。そこに住む。そして、そこを治める。ここに、今日ほとんどの人が考慮しようともしない奥義がある・・・
《コメント》
この読書会でも、長く在籍しつつも特に発言もできませんでしたが、折に触れて、ご紹介のものなどは、その都度いろいろ読ませていただき、皆様のご意見を拝読しつつ “but should share in the life of God's new age.”
というライトの言葉を、いまあらためて反芻しています。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(口語訳)この後半の元々の意味はライトによると、 “but should share in the life of God's new age.”と言い換え、このように初期キリスト教徒は受け止めたのだといっていると。そしてこれが、天と地が重なり合うことと、神の 未来が私たちの現在と重なり合うこと・・の理解に深く関わってくることなのだと、そしてやっと少しづつでも、ライトについての文章や、翻訳書籍がいろいろと出版されてきていることも、あらためて、しみじみ感慨深く思わされました。
308-9ページ 

……そうなるとクリスチャン倫理とは、はるか彼方にいる神が公布した、どこか恣意的なところのある行動規範に苦労しながら従う、という意味になってしま う。「罪」についても、この発想から、「律法を破る」という理解になってしまい、「救い」も、聖なる存在の定めに従わない人間に下される「罰からの救い」 というものになってしまう。多少キリスト教的な響きはするが、こうした理解もまた、じつはクリスチャンのものではない。
《コメント》
なかなか挑戦的な言葉であると思います。でも、私たちはそう言われてやっと初めて「あぁ、じゃあいったいクリスチャンとはどういうことなのか?」と問い直せるのかもしれません。この部分を考えていて使徒17章のペレヤの人々の姿を思い出しました。彼らはパウロとシラスの語ることを聞いて「果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」。私の今まで信じていたことは「はたしてその通りか」、そしてライトさんの言うことは「はたしてその通りか」、虚心に問い直したいなと思いました。
310-1ページ 

クリスチャンの倫理とは、この世界がどうなっているかに目を向け、それに合わせていくことではない。それは、神に喜ばれるために何かをする、というのでもない。また、はるか昔のほこりまみれのルールブックに従うことでもない。それは、神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を、いまここで、練習することにほかならない。
《コメント》
わたしはバンドをやっています。本書を通して出てくる音楽のたとえには、身体的に、というか経験的に、というのか感覚的に、なのか、「なんとなく言っていることがわかる気がする」感があります。・・・わたしには「神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を(中略)練習する」のにもイメージが必要です。主は楽譜を用意してくださっているわけではありません。わたしがいつか主にお会いするときに、何のためらいもなく歌うべき歌を歌えるように準備しておくということは、その歌の主題についてわたしがなんらかのイメージを掴み、それをお腹の中に蓄えて、何回も繰り返して反芻して歌にしていく過程が「いまここで」行われていなければならないということになりま す。
312-3ページ 

クリスチャンとして生きることは、キリストと共に死に、キリストと共にもう一度よみがえることを意味する。それは……バプテスマが意味する根底にあるものであり……
《コメント》
(幼児洗礼について)ライトは英国国教会ですが、やはりバプテスマが意味するものを考えていくと、キリストとともに死んで生きることを正しく象徴しうるものは、信仰者のバプテスマ以外にあり得ないように思われます。本書の前後を読んでみても、これ以外の考えは思い浮かびませんでした。
314-5ページ 

こうした規則は次のように理解されるべきである。それらは、はるか遠くにいる神が私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない(あるいは試験 をするかのように、私たちに飛び越えさせようと並べた道徳的なハードルでもない)。それは、天と地が重なり合い、神の未来が現在に侵入し、本物の人間らし い生き方とは具体的に何であるかを見いだす指針なのである。
《コメント》
私はある時期、そういう状態で表面だけさらっと聖書を読んで、「規則<ルール>」が目についてばかりいた時期がありました。正直なところ、わからない、納得ができないことだらけで。そのときの私の頭の中と言えば、こんな感じです。「ああ、あれも従えなかった」・・・
ライトは、規則のことを「私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない」と書きました。これはそのときの自分が理解できていなかったことだなと、その頃を振り返って思いました。
316-7ページ 

生ける神は十字架の上で、この世の怒りと暴力をご自分の上に引き受けられた。圧倒的な不義のゆえに苦しまれたが(物語はこのことに注意深く焦点を合わせている)、それでも、おどしたり、呪ったり、暴言を吐いたりすることはなかった。クリスチャンが『贖罪の神学』と呼ぶものの中心は、イエスが悪の重みのもとで死んだとき、ある意味で、その悪の根本的な力を消耗し尽くし、もはや悪の力が他に及んだり働き続けたりしないものにした、という信仰である。
イエスの復活は、新しい型の義が可能になった世界の始まりである。
《コメント》
イエス・キリストの十字架と復活が悪の力を飲み込み、神の義の現し方を示しているというライト師の指摘は、自分がライト師の文章を読むようになってから、 多くを教えられているところです。かつては十字架と言えば、自分の罪を赦すために必要な死、というように、とても自分中心な考え方でしか見ることができませんでした。しかし、ライト師が十字架には、イエスが悪に打ち勝たれたという意味もあること、そしてそれこそ贖罪の神学の中心だと指摘することから、十字架を違った視点から見ることを教えられています。
320-1ページ 

義への渇望は、あまりにもすぐ私の権利、もしくは私たちの権利の要求へと成り下がってしまう。親切にしなさいという命令は、自分の時間を自分自身、自分の必要、自分の義、自分が不当に扱われたのを正すために使うのではなく、他の人たちの必要、楽しみ、痛み、喜びに目を向けることを求める。親切にすることは、人間として成長し、豊かな深い関わりを築き、維持するうえで最も重要なことである。
《コメント》
ライト氏は、人間関係の良き関わり方のキーワードとして、「積極的な親切」をあげています。これも単なる「あの人はクリスチャンだから親切ね」という程度のものではなく、創造者なる父のまなざしを思い起こすとしっくりきます。・・・神に造られた者としてなすべきことは、造られた人々、自然に対し、造られた目的を果たすことができるよう大切に育てること、ケアしあうこと、神の作品として互いの存在を喜ぶことであると認めるとき、「互いに対する積極的な親切」という言葉が心にすっと入ってきます。

 
大体以上となります。


今月は他の投稿はなかったですが、神戸で開催される「第6回日本伝道会議」の9月28日午後の分科会「神学ディベート ―N.T.ライトの義認論―」のことが案内されました。

その後このブログでも紹介されたとおりです。


7月は、入会4名で、トータル202名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」発題1 資料

ライトの義認論:
小嶋発題 パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」資料

(「『パウロ研究』に関する新しい視点」から抜粋)

ここまで見てきたように、「(誰かの無罪を)弁明・擁護する(vindication)」のに用いられる用語、「義とする(ディカイオー)」の関連表現は 法廷用語である。だから正義の神を法廷イメージを用いて言い表すことは適っている。神は最後には世界を正しく回復するはずのお方であり、神はそのように約 束され、その約束は守られる。しかしどのようにその約束を実現するかは、創世記12章以降で見ると、アブラハムと結ばれた契約を通してであることが分か る。とすれば、神の契約への忠実と、神の義とは、別な二つのことではなく、密接に繋がったものである。見てきたように、「デカイオスネー・セウー」フレー ズはその両面性を示している。


神が誰かのことを弁明・擁護する(vindication)と言うとき、神にとってそれは宣告を下すことである。私たちには二重に見えようとも、恐らくパ ウロにとっては単一に見えたのではなかったか。宣告とは、(A)ある者が「正しい」とされる(イエスの死によって罪の赦しが既になされているので)、こと とそして、(B)そのある者が真に契約の家族の一員とされていること、を指す。この家族とは、神がもともとアブラハムに約束していたものであり、今やキリ ストと聖霊を通して創造され、ユダヤ人も異邦人もともに等しく信仰をベースにして形成される単一の家族のことである。


私がこのような解釈を提出する理由は、同じ場所にありながらばらばらに置かれているように見える多様な分類・区別も、手繰り寄せて整頓することで(繋が り、まとまりが)見えてくるのではないか、ということである。ルターの「法的(forensic)」とカルヴィンの「子とする」の対立、シュヴァイツァー とサンダースの「法廷」と「キリストとの一体(incorporative)」の対立、などがそれらの分類・区別のことである。パウロの言わんすることが 契約神学を下敷きにしていることを一度でも押さえておけば、これらの二項対立は乗り越えられる。


このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。


このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
___________________________________
New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm)
引用部分は↓(最初と最後の文章)
"The language of vindication, the dikaioo language, is as we’ve seen lawcourt language....Thus God’s declaration of forgiveness and his declaration of covenant membership are not ultimately two different things."

「N.T.ライトの義認論」発題1



パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」
 (支持の立場からの発題 要旨)
 小嶋 崇


  N.T.ライトは、「大きな構図で物を見る人間(Big Picture person)」と自身を描写します。聖書の細かな釈義点についても詳細な議論のできる人ですが、彼の真骨頂は、「聖書全体を貫くテーマ」を、細部を余り 犠牲にすることなく説得的に示す力量ではないかと思います。


 ライトの「義認論」に関しては、ここ数年で日本の福音派の中でも、「新しい『パウロ研究』の視点」と共に紹介されてきました。しかし、この日本伝道会議 の場では、「新しい視点」からの主張点である、①「第二神殿期ユダヤ教」の特徴として挙げられる「契約遵法主義(covenantal nomism)」、②「律法の行い」は異邦人との民族的区別を表わす「割礼・安息日・食物規定」は横に置いておきます。


 その代わり、「義(ディカイオー)」語群が「法廷言語(lawcourt language)」を用いながら、
 (A)神の前に(罪びとを)義と宣言すると同時に、
 (B)異邦人もユダヤ人と共に「アブラハムの子孫」「神の民の一 員」であることを宣言する、
両面を持っていることに注目します。即ち、パウロ書簡において義認は「救済論」と「教会論」とを一緒に言い表す教えでもある、 とのポイントに集中します。


 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。



(ライトの義認関連論文の一部を抜粋翻訳し資料として使います。別投稿します。)

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会)



 N.T.ライト読書会を主宰する小嶋からのご案内させていただきます。


 この度「第6回日本伝道会議」の分科会で「N.T.ライトの義認論」(コード ①−11)が「神学ディベート」と云う形で取り上げられることになりました。

 2016年9月28日(水)、14:00~15:30
 神戸コンベンションセンター

 丁度2ヵ月後となりました。
 
 図らずも小嶋が「支持派」側の発題を担当することになりました。
 また「慎重派」からは神戸ルーテル神学校の校長も勤められたことのある橋本氏が発題します。


 当日の分科会は全体でも90分という短い時間です。とても十分な討論をすることは無理です。ライトを余りよく知らない参加者も多いと想定されます。討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。

JCE6分科会「神学ディベート ――N.T.ライトの義認論――」
主催:JEA神学委員会 代表:関野祐二(鶴見聖契キリスト教会、聖契神学校)
発題者:小嶋 崇(巣鴨聖泉キリスト教会、N.T.ライト読書会)
     橋本 昭夫(宝塚ルーテル教会、神戸ルーテル神学校)
司会: 関野祐二(神学委員長、聖契神学校校長)
        佐々木望(神学委員会担当理事、バプ連合守谷教会牧師)

ディベートの時間枠
 a. イントロ(10分)
 b. 討論(50分)
  発題 1、小嶋「パウロの義認の教えは『救済論』と『教会論』」(15分)
  応答、橋本(7.5分)
  発題 2、橋本「N. T. Wrightの義認論を吟味する ―ルター神学の立場から―」(15分)
  応答、小嶋(7.5分)

 c. フロアとの質疑応答(30分)
 
 今後(少しずつですが)「発題要旨」「参考資料(12)」「解説」等を掲載して行く予定です。

 なおこの分科会の主催はJEA神学委員会ですが、このウェブサイトでの管理責任は小嶋にあります。

2016年7月21日木曜日

「悔改め」と「信仰」再考

新約聖書において「信仰」の意味はどういうものか。

プロテスタントの伝統にいると、「信仰」は強調されるが、その意味はいかにと立ち止まって考えることは余りなかったように思う。

もちろん宗教改革原則の「信仰義認」での意味と、福音派における「回心主義」の意味とを合わせて「伝統」としてきたので、その文脈における意味で由としてきた経緯があると思う。

しかしここ30-40年の「『パウロ研究』における新しい視点(New perspective on Paul)」とも連動して「ピスティス・クリストゥー」がかなり議論に上るようになり、狭義の「信仰義認」だけでなく、そもそも「福音を信じる」とは何か、が問われるようになってきた。

しかし、その前に「悔改め」にも言及しなければならない。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1:14-15、新共同訳)
新約聖書、一世紀の文脈では「悔改め」と「信仰」は「神の国の到来という終末的事態」に呼応するものとして現れた。

問題は、この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で「悔改め」と「信仰」議論されるときに緊密に参照される「終末(エスカトン)」「黙示(アポカリプティック)」の及ぼす意味合いが、それから時と文化・言語を隔てた今日のキリスト者が「イエス・キリスト」や「福音」や「義認」や「信仰」について語るときにどうなっているか、ということである。

あるいは、それらはどこへ行ってしまったのか、と問い直すことも出来るだろう。

おそらくこの問題を要約するフレーズとして最も流通しているのが、「『既に(already)』と『未だ(not yet)』であり、これら二つの緊張関係として議論されるやり方であろう。

この「時の間にある」問題を、キリスト教信仰の歴史的課題として自覚し、問題にしている場合、二千年の教会史の中で「幾つかの対応パターン」があった。(各千年期説のバリエーションのことではない。)

 ※しかし以上はイントロなので、ここではそのことを論じず指摘するだけに留める。


(1)「悔改め」


新約聖書での重要なテーマである『悔改め』が、なぜ神学的に議論されることが少ないのか、とブロガーで新約聖書学博士のクリス・ティリングが問題提起している。

そして、共感を込めてドイツの学者らしい、トマス・ゼーディングを引用(訳)している。
The coming of the kingdom doesn't depend on repentance. It's the other way around: The necessity and possibility of the repentance and faith depends on the nearness of the kingdom.
「神の国」の到来は悔改めが招き寄せるのではない。実際はその逆だ。悔改めと信仰が必要になりそして可能になるのはその神の国が近づいていることによるのだ。

この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で重要だと思われる「悔改め」のポイントは、「アブラハム契約」の祝福を受け継ぐべき「割礼を受けた契約の民」が「悔改めのバプテスマ」の必要をヨハネから訴えられていることである。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マルコ3:7-10、新共同訳)
ここには「神の国の到来」を間近にした時点での「契約の更新」の暗示があり、その時に通る「神の怒りのさばき」と(恐らく)契約律法による義の問題とが絡んでいるのを見ることが出来るのではないか。


(2)(福音に対する)信仰

個人的には、「福音とは何か」ということでスコット・マクナイトの『福音の再発見』をかなり手広く紹介してきたが、改めて新約聖書の歴史的文脈により近く接近した「信仰」のニュアンスに分け入る時が来ているのかな、と思っている。(それに関してはまた書くつもり。)

福音のコンテントは何か、「救いの方法」か、それとも「主イエス・キリスト」か。

当然普通のキリスト者はこれら二つのことを別のこととは思わず、単にそのときの強調の違いであり、どちらにしても実質上は両方を含む、と考えて「問題化」しないで済ますのではないか。

しかし「強調の違い」は「パースペクティブの違い」であり、信仰者生活に「実質上の差異を生じさせる」としてマクナイトは問題化したわけであった。

さて「信仰」のニュアンスの違いとして考える際に、ギリシャ語ピスティスを「信仰(faith)」「忠実(faithfulness)」「忠誠(loyalty)」として区別しながら問題に迫ろうとしているらしい著書二つを、先輩ブロガーでもあり、新約聖書学者でもあるマイケル・バードが Pistis as Faith or Faithfulness or even Loyalty?  で紹介している。


以上、(1)も(2)も基本的用語である「信仰」「福音」の整理に有益のようであるのでお勧めしておこうと思う。

2016年7月15日金曜日

今日のツイート 2016/7/15

「今日のツイート」とは、「大和郷にある教会」ブログで常設しているエントリー項目ですが、この話題はやはりこちらが適当ではないかと思い、越境してきました。(笑)


一見して「宗教史学派」の「ヘブライスト対ヘレニスト」を踏襲した「大雑把」な物言いで、およそ(キリスト教青年部の人がイスラーム法学者から指摘されて)「なるほど」というほどのことはないと思うが・・・。

せめて、

(1)「パウロの『律法蔑視』」とはいかなるもので、どのようなロジックのもとにそのような「パウロ観」、そして「キリスト教(発達史)観」になって行ったのか、ということを検証するきっかけにしてはいかがだろう。

(2)「イエスが教祖」のキリスト教は「実質パウロ教、特にプロテスタントには」・・・のような「大まかな見取り図」をあたかも事実のように鵜呑みすることは、多大な新約聖書学・初期キリスト教学の研究成果を一切無視するようなもので、前途有為な「キリスト教青年」においてはそのような「知的逃避行動」は慎んで欲しいものだ。

※手始めに、ライトのWho Founded Christianity: Jesus or Paul?
あたりから読まれてはいかがでしょう。


2016年7月5日火曜日

FB読書会 2016年6月報告

7月を迎えました。

いつものように過ぎた6月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の13章から15章を読みました。

6月中に「フォーマット」を変え、「指名制(強制ではありません)」でより多くのメンバーに担当してもらえるようにしました。15章から導入しています(結果はご覧のように上々です。)

第13章「聖書

255-7ページ
 そのように [聖書がインスパイアリングな書物であるように] 見ようとする人は、おそらく意図的にそのことを選択肢<1>の世界観に押し込めようとしているのだ。
 一方、「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図などまったく認めない。
257-8ページ  
 神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちを担う被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的 [intelligent] な協力体制を望んでおられるので、・・・、ことばを、またことばを通したコミュニケーションを中心にしたいと望まれている。
 すなわち聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきたのである。
258-9ページ


 ・・・神の召し出した民が、その務めを果たすためのエネルギーの提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギーが神の霊の働きからくることを表現する言い方の一つなのである。
 言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参照資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約 の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創 造を生み出すためである。

259-60ページ
 そのため私は、聖書に関して「無謬」、また「無誤」という用語を用いることについては不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、・・・あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。

第14章「物語と努め

262-4ページ 
聖書は一言で言えば、少し異なりはするが愛の物語(ラブ・ストーリ)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(p.252)
ということは、「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中には、共同体としても、個人としても、自分たちを浸 すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者たちと教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の<中だけ>ではなく、 その共同体を<通して>、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならない、ということでもある。(p.264)
《コメント》
>「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する
ってところにつながってくるように思いました。・・・演じる舞台は、教会の中だけではなくて、キリスト者が生きている現実世界だ、ということになるのでしょう。
一部では、この神の役割を果たす場所が、教会、とりわけ日曜日の教会でなければならない説をとる方々もおられるようなのですが、そうでないぞ、とライトさんは私たちに迫っているようかのように思いました。
265-6ページ 
神は確かに、聖書を通して語られる。聖書を通して教会に語り、さらに神の助けにより、教会を通して世界に語られる。この両面が大切である。ここでもその考 え方を、天と地の重なりという見方から見てみるなら、よりいっそう理解できる。また神の未来の計画が、イエスにおいてすでに私たちに届き、神がすべてを新 しくする日のために、今もそれを遂行しておられることを考えるなら、よりいっそう理解できる。
聖書を読むということは、祈ったり、典礼を分かち合ったりするのと同様、天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである。(p.265
267ページ 
聖書のことばから神の声を聴くとは、誤りのない見解を聞くことではない。
268-9ページ 

イエスについてクリスチャンが信じていることは、こう生きなさいという招きのナラティブを生み出し、さらにその物語に生きることで、この世界での具体的使 命への招きを生み出すということなのである。そして、知的な、思慮深い、神の似姿を担う人間としてその使命に従おうと追及する人を、神は聖書を通して支 え、方向を示す。

270-1ページ 
決定的に重要なのは、聖書は神とイエスと世界についての正しい情報の単なる収納庫ではなく、むしろ、生ける神がご自分の民として私たちと世界を救いだし、 新しい創造の旅へと送り出し、その旅の途上にあっても、聖霊の力によって、私たちを新しい創造の担い手とするための手段の一部だということである。 (pp.270-271)

272-3ページ 
真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、更に興味深いものだからなのである。(p.273)
《コメント》
真理は複雑、というのは大事かなぁ、と思います。・・・無理やり平板化された真理が大手を振って歩くふしがあり、それが問題を複雑にするような気がします。 そして、「文字どおり」と「比喩的」が2種類を指して使っており、それはキリスト者にも影響しているのが、更に問題を複雑化させているのではないか、という指摘です。
274-5ページ 
「文字どおり」という言葉が「具体的・具象的」という意味になり、「比喩的」とは「抽象的」、あるいは具体的・具象的とうい意味と反対の意味を負うようになる(例えば「霊的」のように。そうなるとますます混乱が起きる。)
聖書の物語全体のポイントの一つは、神がこの世界を愛し、救いだそうとしていることであり、現実の歴史の具体的事柄を通して、その計画を実現し、それを神の民の具体的生活やわざを通してなそうとしていることなのである。(p.275)
276-7ページ 
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるか を問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということであ る。当ことは、前もって、「聖書のすべてを文字どおりにとらえるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純 な決めつけはできない、ということである。(p.276)
278-9ページ 
即ち、聖書はまぎれもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのため、聖書を真剣に 学ぶことは、天と地がかみ合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの手立てなのであり、またそうすべきだということである。(p.279) 

第15章「信じることと属すること

280-7ページ
 

個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それ は新約聖書のいたるところに記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造者であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通し て滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒し、刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
《コメント》
クリスチャン信仰とは個人的なものだが本来「教会」という全体のためにある。また教会は家族のように(互いを兄弟姉妹と呼ぶように)親しい交わりがあるが、同時に外からの異なる人たちをも受け入れていかなければならない。
287-9ページ 
初期のクリスチャンは実際、復活こそが人類のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時がきて、神が世界を新しくする日のためだけにで はなく、現在の生活において必要なことなのである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活は単にその影にすぎない。 神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま、現在 のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(289) 
《コメント》
もし、新しい創造が始まっていて、新しい現実が拡大しているのであれば、様々な分野において働いている、目覚めたキリスト者が各々召されている場所で、その現実に気づき、発見していく生活を送れるのではないだろうか。仕事場や、導かれた場所で、福音を語ることのほかに、その仕事や、場所が、天と重なり合 い、かみ合うことを、もたらすのもキリスト者であり、そして新しい現実に気づき、体験し、分かち合うことが福音を生きることではないだろうか。そうであるならば、すべてのキリスト者がパイオニアであり、宣教師であることに納得できる。
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私たちは現在、キリストの光を受けながら闇の中で生きている。それゆえ、ついに太陽が昇るときには、その準備ができている。描写を変えると、やがてその日 がきて神が私たちを呼び出し、最高傑作の絵を完成させる時に至るまで、いま私たちは盛んにその素描を描いている最中だと言えるだろう。まさにそれが、福音の呼びかけにクリスチャンが答えるということである。(290)
《コメント》
ライトは、将来完成される最高傑作の下絵(素描)を私たちがすでに描き始めているのだと語っています。私たちクリスチャンが描いているなんとも拙い下絵 (現実の姿、教会の有様)だけを見ていると、これが将来どのようにして、神の最高傑作(神の王国)として完成されるのだろうかと戸惑いを覚えますが、ライ トの視点は優しいですね。

様々な欠けや痛みを抱えて生きている私たちですが、神はそのような私たちであっても、これから完成される最高傑作の共同制作者としてご覧になっておられる、そう語っているように聞こえます。
大体以上となります。


6月は、入会3名で、トータル201名となりました。
  

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