2015年10月4日日曜日

FB読書会 2015年9月近況

恒例の月例報告です。

9月は余り進展はありませんでした。



というのも10月は第4回N.T.ライト・セミナーがあるので、そちらの準備と案内・PRに大分エネルギーを持っていかれました。

8月で5章が終わったので、いつものように第6章『イスラエル』を幾つかに分解し、それぞれ「リーダー(reader/leader)」担当者を募集したのですが、それに手間取ってしまって開始が遅れました。

結局、最初のイントロ部分(102-5ページ)を小嶋が担当することになり、9月はそこまで、となりました。

イエスは好きだがキリスト教(教会)は嫌いだ、と言うような言い方がよくなされる。
制度的教会への嫌悪感は、制度と言うもの一般への不信感と共通する感情があるようだ。

それと同じではないが、イエスとイスラエルも内的・必然的関係がないように(現代西洋キリスト教では)見られている、と一種の哀歓を感じさせるような文章で6章は始まっている。
Why should we spend an entire chapter discussing the nation within which, as a matter of historical accident, Jesus of Nazareth just happened to be born?
「イスラエルの長い物語において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。」(102)

ということは現代西洋キリスト教では、イエスが語られるとき、旧約聖書歴史は殆ど捨象されている、ということか。(あるいは単なる背景)

しかし、逆にイスラエル民族史をイエスと繋げるとき、キリスト教史の暗黒部分がのしかかってくることになる。

特にホロコーストと言う現代史がとてつもなく重苦しいものとして・・・。

イスラエルの歴史を語る、と言うことでは旧約聖書の歴史的信憑性という問題もまたくっついてくる。

以上の問題があるにしても、イエスとイスラエルの関係を語るために、旧約聖書以外の史料、特にヨセフスの著作のようなイエス時代に近い歴史文書も用いて、イエス時代に語られていた「イスラエルの物語」を再構成することは可能である。

以上が「イントロ」的前置きです。

感想としては、たとえばこんな質問をしてみたいと思います。

「あなたの教会では『イエス』と呼び捨てみたいな呼び方は憚られますか。絶えずイエス様と尊称でないとだめですか。」

質問の狙い・・・『ナザレのイエス』や『イエス』は「歴史上の人物」として意識(潜在意識も含む)されているかどうかの目安の一つになるのではないかと思います。

逆に『イエス様』一辺倒は、多分に「歴史のイエス」が「子なる神・イエス」に覆われてしまっている感じです。
(これは英語の場合には当てはまりませんが)
反ユダヤ主義の問題については米国留学中も、日本においても、それほど深刻に考えたことはありません。

しかしホロコーストについては様々なものを通して間接的には「感じて」きました。
また個人的にインパクトがあったものとしては、エリー・ウィーゼルの『夜』。10時間ものドキュメンタリー『ショア』など。

ボンヘッファーの伝記を読んでもひしひしと「感じ」ました。

また勉学関係などで多くの知識人の生い立ちを知るとき、「あの人も、この人も」と言う感じで「ユダヤ人」背景に触れることになります。

ということでした。


ディスカッションとしては、「イエスの呼称」について幾つか投稿がありました。

「ナザレのイエス」という語を好んで使いますが、それでも、敬意が足らない、と同じ教会の人から怒られたり、御小言を賜った経験が何度もございます。

日本では、以前○○○○○○○○のN先生の講演に連れて行かれた時、「イエス、イエス」とおっしゃるので「へえっ〜」と思いました。

かつては完全に「イエスさま、神イエスさま」1色でした。僕のなかでイエスとキリスト教信仰が歴史と結び合わされたのはアブラハム・ヘシェルによる預言の解説によってでした。
イエス様とナザレのイエス、この間Gentle Healer 日本語にして歌った時に、混ぜました。はじめ、村人目線のナザレのイエスで、最後は弟子の目線混じってきてイエス様で。言葉数の関係もあって混ぜたのですが、大変興味深い結果になったかなぁ、と思ってます。

この他ライトについての勉強会の案内が投稿されましたので、ここにも掲載。


また、9月の入会者数は14名で、トータル181名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

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