2015年7月30日木曜日

(リアル)読書会報告 2015年7月

予定外の「雑談会」風な読書会でした。

『クリスチャンであるとは』出版祝!
訳者を囲んで雑談会!

 (日時) 7月23日(木)、15-17時(14時30分開場)
 (場所) 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)


ライトの『クリスチャンであるとは』の訳者である上沼昌雄氏が7月に来日し、大阪、名古屋、山形、東京、を回られて各地でライト関連のセミナーや学び会をしています。

まあそれに便乗して小嶋が主宰する「ライト読書会」でも一つ。
ということで、週日の午後。
普通に仕事を持っている人には出にくい設定ではありましたが・・・。



出席者はご覧の6名でした。

最初に各自の聞きたいこと、討論したいこと等をリストアップして始めました。
(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。
(I) 『あとがき』のコメント(338ページ「訳者はここ10年ほど・・・」以下の部分)をもう少し解説して欲しい。
(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したこだわりを解説して欲しい。
(U) (N氏へ)「ライトを越える」とはどういう意味か教えて欲しい。
(N) ライトの英国教会内での影響力がどのようになっているか、特にダラム主教からセント・アンドリュース大に転進した辺りの経緯を知りたい。
(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。
といったところです。

以下要約とまで行きませんが、興味深かった点などピックアップして紹介します。 

(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。

(脈絡はあいまいだが)第4章最後の部分「複雑な世界に、複雑な人生に」は、第1部全体の要約となっていて、第2部への橋渡し部分であるといった指摘がなされた後、訳者が指摘し、編集のO氏がこだわった箇所として以下のくだりが紹介された。
この世界、すなわち音楽と性、笑いと涙、山岳と数学、鷲とわらじ虫、彫刻と交響曲、雪の結晶と残照などのある世界・・・(73ページ)
この部分は韻を踏んでいて、読んで楽しい。 

(I) 『あとがき』のコメントをもう少し解説して欲しい。


 自分の神学の行き詰まりを覚えていたときに、ギリシャのロゴス(論理)中心的性格に貫かれたキリスト教思想の歴史に思いをいたすようになり、かえって旧約の物語りが描き出す全人的世界に開眼するようになった。

 ライトの(新約聖書の)読みは、旧約聖書を深く読むことで成り立っている。そこに魅力を感じた。

(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したわけ。

 ライトを読み始める前にレヴィナスを読んでいた。
 2千年たったキリスト教がギリシャ思想に深く浸透されていることを思った。

 ギリシャ思想は自己中心。「巡礼」のように絶えず元の場所に帰ってくる。しかしユダヤ思想はアブラハムの旅のように故郷には戻らない旅だ。

 そのことを意識して「巡礼」とは訳さず「旅」とした。

(U) (N氏へ)「ライトを越える(※)とはどういう意味か。

(※)「ライトを越える」とはN氏が講師のセミナーでのタイトルに使ったフレーズ


 『クリスチャンであるとは』は「神の存在証明」の現代(ポストモダン)版、ではないか。

 ポストモダン状況のヨーロッパで、「キリスト教」が生き延びられるか、深刻な疑問の中にある。
 誰かが正面切ってキリスト教の真理性・絶対性を弁証しなければならないが、知性と教養に溢れたライトがそれをやった。(しかし、それ以上でもそれ以下でもない。)

 U師は「ファンダメンタリスト」の枠組みで神学をやっていて行き詰まったのではないか。最初からライトのように広い世界でやっていれば良かったのではないか。やっとライトに来てくれたか、という感慨がある。

(中略)
 ライトは学者で歴史家で、神学者である。幾つかのスタイルを自由に組み合わせることができる。

 しかし日本でそのような必要があるだろうか。
 日本の平均的牧師たちができることは、ただ聖書を物語ることで、解説したり議論したりする必要は余りないのではないか・・・。

 ライトは取っ掛かりで、聖書66巻を展開すればそれでいいのではないか。

 (U師のレスポンス) 訳者の「神学遍歴」に関し、今回の各地での勉強会の場で、あるとき指摘されたのが「(聖書)無誤論」との関わりだった。

 ライトの受容はその人の「神学スタイル」で(それに合うか合わないかで)判断する傾向がある。

(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。

 やはり翻訳が続いて行われ、自然とディスカッションが盛んになれば、反対者たちも認めるようになるだろう。(原理的に)認めない人たちはどこまで行っても認めないだろうから回心させようとなどしないほうが良い。

 自然神学のアプローチとしては、科学が教えることはそのまま受け容れてよいだろう。無理に「信仰対科学」などと対決させる必要はない。

 無誤性の問題で言うと、(私たちの教会グループでは)依然として「文言」は踏襲しているが、もはや規範的には機能していない。だから議論が縛られていない。(もちろんそうではない立場のグループもあるにはあるが。)

 無誤性に関連してだが、ライトは「創造・新創造」つまり創世記と黙示録を「文字通り」に受け取っている。つまりこの中にすべての一般史の出来事も含めたリアリティーを受け止めている。

 救済史と一般史、という風に分けていない。この受け止め方を吸収するのはなかなか大変だが・・・。

 この「物語性(創造→堕落→イスラエル→イエス→教会→終末)」についてはほぼコンセンサスがあるのではないか。この物語のフレームの中で提示されたものを(ライトを踏襲するにしてもしなくても)そのまま出せばよいのではないか。


・・・とこの後、日本の福音主義神学における隠れた1ページの述懐が始まった。

 この記事を書いている小嶋としては、ここが最も関心深いところであり、詳しく紹介したいところなのだが、簡単な説明と資料の紹介に留めておく。

実は『クリスチャンであるとは』が出てブログの書評に訳者とかつての「無誤性」論争における役割についての言及があったので、「今となっては・・・」といったような「振り返り」が聞けるかと思っていた。
それで、今度はもう一方の当事者であったN氏に次のように振ってみた。
「ところで(N氏は)神学遍歴の中で行き詰まりとか躓きとかありませんでしたか?」
「(N氏)それはもうU氏と私はみなさんご存知だと思うけど、30年前の・・・ある人が言うんだけど、私の神学はU氏と(もう一人の)U氏への「恨みを晴らすものとして」やっていませんかといわれるけど、別にそんなことはないんだけど、30年前無誤性のことで議論したとき、完璧に挫折ですよね。そう言う意味では(私は)一度葬られているんですよ。・・・」
と言うことであった。

この後、「現在においても日本の福音派における神学論争にはしばしば陰湿さ、不透明さ、煮え切らなさがつきまとうこと」、について話された。

それで今回ライトのおかげでめぐって来た、かつては「無誤論」で敵味方に分かれてやりあった二人の歴史的再会について、少しハイライトして書く気になったのである。
ちなみにN氏は30年前の「無誤論」論争の経緯についてご自分のウェブサイトで文章化されているので、紹介しておく。

聖書の無誤性の論争をめぐって (pdf)
 

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