2014年4月7日月曜日

フルタドPFG書評3

 ラリー・フルタド教授(エジンバラ大)のブログで連載されている、ライトのPFG書評紹介の続きです。

 さて今ライトの聖ミレタス大学でのレクチャーを聴きながら書いているので、集中力が分散していますので、支離滅裂なところが出てくるかもしれませんが、とにかくフルタド教授のブログ記事を読んで頂ければ、と思います。

 今回のフルタド教授の疑問は「イスラエル民族と教会(イエスをメシアと信じた者たちの共同体)の関係」についてです。
That is, ironically, in Paul’s view it was the appearance of Jesus and the preaching of the gospel that produced any failure on the part of Israel.  The failure was specifically to refuse to acknowledge Jesus as God’s new eschatological revelation, and in this way their “zeal for God” is “not according to knowledge” (Rom. 10:2).  So, I don’t see anything in Paul that supports Wright’s grand narrative of the national failure of Israel that Wright posits.  And that means that I see no basis in Paul for Wright’s notion that Jesus assumed the role and responsibility of Israel.
と論難しているように、フルタド教授は、ライトのグランド・ナレーティブの「イエスが神の民としての使命を失敗したイスラエルの役割と責任を一人で負った」、と言う部分を俎上に挙げ、そのような理解はパウロ書簡(特にロマ書)には見当たらない、と主張しています。

 これは釈義とは別な神学議論で言うと、「教会によって民族的イスラエルの役割は取って替わられた(だからイスラエル民族の歴史における宗教的意味は最早なくなった)」と言う解釈(スーパーセセッショニズム)に関わってくるものです。

 フルタド教授は「新約」後も、イスラエルとの契約はなくならず、「二つの契約」は並行して継続される、と言う観方に否定的な点ではライトと同じですが、民族的イスラエルの意義が全然なくなったわけではない、と言う点でライトのロマ書9-11章解釈をチャレンジします。

 フルタド教授はライトの解釈(イスラエルの役割がイエス一人に集中して代理される)がロマ書2章25-29節の解釈から大きく影響されたものではないか、と疑問を投げかけています。
    It’s clear that for Wright his reading of Romans 2:25-29 is crucial to this notion that the oneness of the people of God cannot accommodate a continuing ethnic entity of “Israel”.
イエス・キリストによって実現した「アブラハムの家族」が一つである以上、イスラエルは教会と民族的イスラエルに二分されない、と言うことでしょうね。

 フルタド教授は、民族的イスラエルは教会と並存しながら依然として約束の実現を待っている、と言うのがパウロの観方だ、とロマ書解釈でライトに対抗します。
To be sure, their respective identities were to have no negative impact upon accepting one another, for they were all “one in Christ Jesus” (Gal. 3:28).  But along with that oneness there remained (for Paul) the significance of “Israel” as fellow Jews, who were (as he saw it) heirs of divine promises (Rom 9:4-5).  Although at present, most of his fellow Jews were “enemies” (so far as concerns the gospel), they were, nevertheless, “beloved” by God, whose gifts and calling were irrevocable (11:28-29).

 残念ながら小嶋はまだPFGを持っていないので、フルタド教授の提出している疑問がPFGにおけるライトを正確に解釈したものかどうか判定できません。

 しかし聖書の引用箇所だけで言うと、「イスラエルの不信仰=失敗は、イエスの出現と福音宣教の結果」であって、イスラエルの失敗がメシア・イエスを生じさせたのではない、と言うポイントはどうも「ライトのグランド・ナレーティブ」の読み方を時間軸と逆行して読んでいるように思うのです。

 あるいはフルタド教授は(ライトの解釈に対抗するために)ロマ書11章の解釈からスタートしてパウロのナレーティブを構築しようとしているのではないか、とも思えます。


 既にお持ちの方はどんな感想をお持ちになるでしょうか。

 では連載はまだ続いているようなので、次回に。

  

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