2014年4月14日月曜日

『大衆』向けPFG書評

 これは余りいい書評じゃないが(アンダーステートメント)、ライトのポピュラリティーが拡大すればするほど、こう言うことは当然出てくるし、ある意味異なる読者層間での批評空間が必要になることを示唆するものだろう。

 とても一つの批評空間で一つの作品(ここで言えばPFG)を論評することは難しい。
 その好例として、フランク・ヴァィオラの、N.T. Wright: Paul and the Faithfulness of God – A Review December 1, 2013(リンク)を紹介する。

 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。

 と言う命題を立ててから考えてみよう。
 フランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」と言う点で、自分のものと、ライトとのものが、簡単に比較できるもののように思っているようだ。
N.T. Wright holds to a grand narrative of Scripture (as do I, as set forth in From Eternity to Here).
特にフランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」における『永遠の目的』と言う部分にこだわりがあるようだ。
 そのためフランクの書評は殆んどこの『永遠の目的』規準から、ライトがどこまで書けているか、或いは書けていないか、と言う叙述に堕してしまっている。
 何しろD・L・ムーディーやウォッチマン・ニーが同一線上で議論されるという恐ろしい展開になっているが、本人はあまりその辺のことに「違和感」や、ある種の「認知的不協和」を感じていないみたいである。(だからこんな書評が架けるのだろうが・・・。)

 実はフランクは書評でこのような引用をしている。
On Wright’s scheme, one critical reviewer remarked, “Wright seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT. To my mind the risks in this include imposing such a narrative monolithically upon texts.”
しかしフランクは言及箇所を示さない。
 多分彼のブログの読者には「難しい」とでも思ったのだろうか。
 
 しかしグーグル先生(と言う表現は私のものではないが)にかかれば出典はほぼ判明する。
 この記事だ。
 悪いことに(或いは一種の隠蔽か)、この段階ではフルタド教授はPFGを受け取っただけで、PFGのデカさに言及しているだけで、書評はしていない!
 しかもこの引用は記事本文ではなく、コメントセクションでのものである。
I’d say that one difference between Wright and me is that he seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT.... imposing such a narrative monolithically upon texts.

最後の部分は文法的に不備で言い足りていない。

 そんな書評前の少し不用意な発言を引用してフランクは次のように続ける。
This is true. The fact that Wright’s grand narrative is somewhat different from mine is an example of this.
書評もしていない前の(多分に先入観的判断の可能性もある)言葉を捉えて、「本当」も何もないだろう。「ライトと自分のとは違う」も何もあったもんじゃない、と感じても致し方なかろう。

 現在PFGに関してはラリー・フルタドの連載記事書評を紹介しているが、フランクの書評は全然次元の違うものであることは一読してすぐ分かるだろう。

 フルタドの書評は、ほぼ同じ学術領域で研究して来た者の「批判的、エンゲージングな書評」であり、他方フランクはフルタドと肩を並べるかのような読解をしたような印象を与えるが、要するに『大衆』向けの言っちゃ悪いがウエメセ的読書指導に近い。

 しかし既に指摘したようにフランク本人がPFGをどこまで理解できているか甚だ疑わしいので、一応大雑把なアウトライン的要点ポイントを提示されても、それがフランクのうちでどう解釈されたのかは、「フランクの解釈枠組み」に引き付けて読まれたであろうこと以外は、つまりPFGに即した批判的な読みは殆んど分からない、と言って良いのではないかと思う。
It’s a work for the academic community, primarily. However, readers of dense material can profit from it. Those who live on a steady diet of Max Lucado, Francine Rivers, and Beth Moore can use the book as a door stop or a nice fire-starter.
マックス・ルケードという日本でも知られた「大衆的作家」の名を挙げているが、そんな簡単に「有用・有益」になるなどと言えたものやら・・・。
 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。
と言う命題に戻ろう。読む価値のある本とは「自分が住み慣れた理解」をチャレンジするような本であり、じっくり読むことによって次第に自分の「意味地平」と著者の「意味地平」との間にある壁に気付き、それと格闘することによって「新たな意味の地平」が築かれるような本であろう。

 簡単に自分の懐に収まるような本など、大した本でないか、(フランクとPFGにおいては)殆んど読めていないか、と言うことになるだろう。

 コメンターの一人が「critical realism」について質問しているが(ベン・マイヤーと宗教社会学者のクリスチャン・スミスとの相違について)、恐らくフランクは「面倒臭いから説明を省く」のではなく、もっと単純に「分からない」のであろう。

 もし分かっていたら、つまり「キリスト教起源」シリーズの方法論的意図や意義を理解していたら、こんな書評は書かないと言うことだ。

 以上依然としてPFGを手にとって読んでいない、その意味ではフランクのフルタド引用の仕方と同罪の、小嶋の「偉そうな」解説でした。

 

2014年4月7日月曜日

フルタドPFG書評3

 ラリー・フルタド教授(エジンバラ大)のブログで連載されている、ライトのPFG書評紹介の続きです。

 さて今ライトの聖ミレタス大学でのレクチャーを聴きながら書いているので、集中力が分散していますので、支離滅裂なところが出てくるかもしれませんが、とにかくフルタド教授のブログ記事を読んで頂ければ、と思います。

 今回のフルタド教授の疑問は「イスラエル民族と教会(イエスをメシアと信じた者たちの共同体)の関係」についてです。
That is, ironically, in Paul’s view it was the appearance of Jesus and the preaching of the gospel that produced any failure on the part of Israel.  The failure was specifically to refuse to acknowledge Jesus as God’s new eschatological revelation, and in this way their “zeal for God” is “not according to knowledge” (Rom. 10:2).  So, I don’t see anything in Paul that supports Wright’s grand narrative of the national failure of Israel that Wright posits.  And that means that I see no basis in Paul for Wright’s notion that Jesus assumed the role and responsibility of Israel.
と論難しているように、フルタド教授は、ライトのグランド・ナレーティブの「イエスが神の民としての使命を失敗したイスラエルの役割と責任を一人で負った」、と言う部分を俎上に挙げ、そのような理解はパウロ書簡(特にロマ書)には見当たらない、と主張しています。

 これは釈義とは別な神学議論で言うと、「教会によって民族的イスラエルの役割は取って替わられた(だからイスラエル民族の歴史における宗教的意味は最早なくなった)」と言う解釈(スーパーセセッショニズム)に関わってくるものです。

 フルタド教授は「新約」後も、イスラエルとの契約はなくならず、「二つの契約」は並行して継続される、と言う観方に否定的な点ではライトと同じですが、民族的イスラエルの意義が全然なくなったわけではない、と言う点でライトのロマ書9-11章解釈をチャレンジします。

 フルタド教授はライトの解釈(イスラエルの役割がイエス一人に集中して代理される)がロマ書2章25-29節の解釈から大きく影響されたものではないか、と疑問を投げかけています。
    It’s clear that for Wright his reading of Romans 2:25-29 is crucial to this notion that the oneness of the people of God cannot accommodate a continuing ethnic entity of “Israel”.
イエス・キリストによって実現した「アブラハムの家族」が一つである以上、イスラエルは教会と民族的イスラエルに二分されない、と言うことでしょうね。

 フルタド教授は、民族的イスラエルは教会と並存しながら依然として約束の実現を待っている、と言うのがパウロの観方だ、とロマ書解釈でライトに対抗します。
To be sure, their respective identities were to have no negative impact upon accepting one another, for they were all “one in Christ Jesus” (Gal. 3:28).  But along with that oneness there remained (for Paul) the significance of “Israel” as fellow Jews, who were (as he saw it) heirs of divine promises (Rom 9:4-5).  Although at present, most of his fellow Jews were “enemies” (so far as concerns the gospel), they were, nevertheless, “beloved” by God, whose gifts and calling were irrevocable (11:28-29).

 残念ながら小嶋はまだPFGを持っていないので、フルタド教授の提出している疑問がPFGにおけるライトを正確に解釈したものかどうか判定できません。

 しかし聖書の引用箇所だけで言うと、「イスラエルの不信仰=失敗は、イエスの出現と福音宣教の結果」であって、イスラエルの失敗がメシア・イエスを生じさせたのではない、と言うポイントはどうも「ライトのグランド・ナレーティブ」の読み方を時間軸と逆行して読んでいるように思うのです。

 あるいはフルタド教授は(ライトの解釈に対抗するために)ロマ書11章の解釈からスタートしてパウロのナレーティブを構築しようとしているのではないか、とも思えます。


 既にお持ちの方はどんな感想をお持ちになるでしょうか。

 では連載はまだ続いているようなので、次回に。

  

2014年4月5日土曜日

最近の日本語ブログ圏における「ライト」に関する話題

 ここ1-2年でN・T・ライトが話題にされることが増えてきたように感じる。

 少しずつ(もともとライトを読んでいた方々が)それをブログなどで出すようになってきたのだろうか。

 恐らくライトについて一番早くにブログで取り上げていたのは「のらくら者の日記」ではないかと思うが、先ずは最近の記事を紹介しておこう。
「欧米では、仮説を打ち立てる学者の方が尊敬される」(和田秀樹氏)。確かにそうだと思う。だからN. T. ライトも尊敬されるのだろう。ペテンでないとの確信があるならば、小保方さんも圧力に屈せず、論文取り下げは最後で最後の決断とした方が良い。

「ポストモダンはモダンの否定ではなく、その必然的な帰結である」との池田信夫氏の洞察はそのとおり。

そうしてみると、神学の世界も同様だ。神学論文の大半は「研究発表」ではあっても「論文」ではない。皮肉なことに、今日の神学界で「論文」を書いているのは聖書学者だけ、それも N. T. ライトだけかもしれない。(リンク
本当はもっと解説していただけるといいのだが本業がお忙しく、スパッと切り口だけ提供している。
まっそれだけでも面白いのだが。

 ライトの「キリスト教起源」シリーズ(現在までに4巻刊行、NTPG, JVG, RSG, PFG)の重要性を評価する「のらくら者の日記」さんがいる一方で、ライトの著作のうち「より一般的」なものを評価している「どこかに泉が湧くように」さんがいる。
  明日からはマルコによる福音書の学びが始まります。私は、トム・ライト(Tom Wright)の MARK for EVERYONE(SPCK/WJK)を、個人的なガイドにするつもりです。新約聖書の全巻が完結しているライトの ……for EVERYONE シリーズは、「万人のための」とうたわれているように、専門的な解説を避け、読みやすさが心がけられています。ただ、ウィリアム・バークレーの建徳的なシリーズのように、説教者にすぐに役立つといった性格のものではありません。
 
 時にはライトの解釈を理解するためには、彼の聖書全体の理解や黙示的な御言葉の読み方を知る必要も感じることもあります。私自身は、こういう意味だろうと納得していた御言葉が、思いがけない光に照らされて——ライトの解釈を鵜呑みにするかどうかは別にして——とても考えさせられ、時にはまったく違った御言葉の理解に導かれることもあります。

 最近、必要があって、ルカによる福音書を調べる機会がありました。何冊かの詳しい注解書から学ぶこともありましたが、最も目を開かれ、今もそのことを考えさせられているのは、ライトの LUKE for EVERYONE の理解でした。毎日のデボーションのために、すべてを読むのは難しいでしょうが、折に触れてライトのマルコに目を通すのもこれからの楽しみです。(リンク
「どこかに泉が湧くように」さんのような方でもそうであるように、ライトが一般向けに書いたものであっても、基盤となっている解釈学的枠組みを理解していないと、十分に当該箇所で註解されている意味を汲み取ることが出来ない、ということもままあるだろう。

 今年は少なくとも1冊はライトの邦訳が出る予定だが、翻訳中のNTPG(第一分冊)のものも含めて、今後ライトの著作が次々と出てくれば、やはり何かしら「ライト入門」のようなものが必要になってくるだろう。

2014年4月3日木曜日

ライト入門、のようなものをアップしました

リアル読書会のメンバー、関係者には配布したのですが、リバイバル・ジャパン誌(現在は月刊船の右側)に掲載された文章を、編集長の谷口さんにネット掲載許可をいただきましたので、ここにリンクを貼らせていただきます。

自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、N.T.ライトを中心に
 [※リンク切れしていましたこちらに小論を全文掲載しました。]

何しろN・T・ライトについて日本語で読めるものはまだまだ少ないので、こんな文章でも少しは役に立つかと思って・・・。

何かご感想などあれば、お寄せください。
小嶋