2014年3月21日金曜日

フルタドのPFG書評2

前回、ラリー・フルタド教授(エディンバーグ)が御自身のブログで始められた、ライトのPFG書評のことを少し紹介しました。

今回はシリーズ2本目の記事から、特にフルタド教授が釈義的に疑問としている点を拾ってここにメモしておきます。

一つ目のポイントはパウロはイエスを、「人として、受肉して(イスラエルの民の許に)帰還したヤハウェ」、つまりフルタド教授が「イエス」と「ヤハウェ」を区別する概念として用いるダイアディック(“dyadic”)と比べると、より「イエス」と「ヤハウェ」の同一性が高い見方になるのではないか、と指摘します。
But, to engage critically some specifics, I really don’t see evidence in Paul’s letters of an explicit emphasis that Jesus is the “return of YHWH” embodied and in person.
次は新約聖書時代における「ハイ・クリストロジー」がどのように元となるユダヤ教「唯一神観」の変異として出てきたか、に関わるパウロの貢献度についてです。
Wright’s treatment seems to me, however, to credit Paul with a lot in the formulation of this “mutation”.  But I wonder if this is misjudged.
フルタド教授は、ライトは余りにもパウロをクリエイティブな神学者とし過ぎていないか、パウロはもっと先行する伝統に拠っているのではないか、と指摘します。

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