2013年11月26日火曜日

「第2回N.T.ライト・セミナー」収録DVD

2013年10月9日に行なわれたセミナーの模様を収録したDVDが10部限定販売されています。(お早くどうぞ)



簡易な製作でお値段も下げてあります。

販売代行は、「本を枕に--スピリチュアルな日々」ブログ主、クレオパさん(あめんどう)です。


なお購入希望の方は「本を枕に--スピリチュアルな日々」サイトの『第二回N.T.ライト・セミナーを収録したDVDを発売中です』へどうぞ。

2013年11月6日水曜日

イエスの復活の身体②

さて、前回「復活後のイエスの身体性」が如何なるものであったか、そのような疑問の一つの入り口として「第2回N.T.ライト・セミナー」での「『イエス昇天後の遍在』における身体性の如何」の疑問について紹介した。

今回は前回紹介したように、ライトが「復活後のイエスの身体性」を提示する概念として造語した
transphysicality
について少し書く。

「神の子の復活」(キリスト教起源シリーズ第3巻目、2003年)において初めてtransphysicality
と言う造語が紹介された。

その最初の箇所(477-8+ページ)の文脈をかいつまんで言うと、
①「新約聖書の復活観」の結論を5つのポイントにまとめている部分である。
②(幾つかの復活観のオプションの中でも)パリサイ派の復活観が修正されたものであるとしている。
その要素として、
(A)(死者からの)復活が起こるとされた『終末』が(時系列的に)2段階に分けられた。
(B)将来与えられる復活の身体の性質は、「死ぬことも朽ちることも出来ない身体」であり、このような身体は、既に死んだ者たちも、イエスの来臨の時生きているキリスト者たちも、両方が「着せられる」ことになるのだが、それはトランスフォメーションを必要とする。

この(B)の部分を論述している過程で、ライトは(権威ある)オックスフォード英語辞典には見つからないtransphysicality(transphosphorylationと言う語と、transpicuousと言う後の間に入ることになるわけだが)と言う語を提案するわけである。

そしてライトはこの語の「使用範囲」と言うか、「目的」について制限を加える。

transphysicality、とは新約聖書記者が復活後のイエスの体が実際にどのような身体性を持ったものであるか、また将来キリスト者たちが持つようになるであろう復活の身体の詳細を描写した概念でも、またどのようにそのような身体性を獲得するかについて描写した概念でもない。

transphysicality、とは初代キリスト者たちがそのような復活の体が(変な言い方に聞こえるかもしれないが・・・筆者注)「十分身体的(robustly physical)」であり、現在持っている身体とは質的に異なるものである、と認識していたことは動かし難い事実であることを主張するために考案した「ラベル」のようなものである。 

「神の子の復活」で、ライトがtransphysicalityを使って論述している箇所は他に数箇所あるだけなので、この造語によって「復活の体の身体性」について何か理論的な考察をしているわけではないことは明らかである。
ただこの語を用いて「復活の体の身体性」が持つ特異な面について読者の注意を喚起しようとしていることは確かではないかと思う。

このことは、①パウロ書簡(特に第一コリント15章)を釈義する時もそうであるが、さらに②福音書において復活後のイエスについて(特にその身体性の特異性について)記述している箇所を釈義する時に必要な「枠組み」であることを示唆しているものと思われる。

(次回に続く) 

2013年10月28日月曜日

イエスの復活の身体①

先日(10月9日)持たれた「第2回N.T.ライト・セミナー(案内簡単な報告)」

 

天と地が出会う場所:神殿、イエス、そしてN・T・ライトの空間理解

 と言う基調講演をなされた鎌野氏は、その中で「神殿」の理解を、どのようにライトが「イエス」理解に繋げているかを

『天と地が出会う場所としてのイエス、そしてキリスト者共同体』

と言う部分で5つのポイントにまとめている。

その第5ポイントは以下のようになっている。(ネットではまだ公表されていない論文なのであしからず。)
第五に、イエスの昇天を通して、地におけるイエスの遍在が可能となった。天と地は全く同じ種類の空間ではない。地にいる限り、イエスはある特定の場所にしか 存在することははできなかっただろう。しかし、天は地に十分に浸透している。天にいるからこそ、イエスは地のあらゆる場所にいることが可能となった。イエ スは王として天の王座につき、そこから全地を導いているのだ(脚注31)。
※脚注31とは、ライトの2011年刊、Simply Jesus: A New Vision of Who He was, What He did, and Why He Matters、の191-2ページ(ペーパーバック版、ハードカバー版は、195-6ページ)。
この「イエスの遍在」ということについて、当日のセミナーで、フロアーから質問があった。
イエスの昇天によってイエスの肉体は現在遍在するのか。このような書き方だとイエスは肉体を持ったまま天に着座した、と読めるのですが・・・。
これに対して鎌野氏は(質問者は聖餐におけるイエスの臨在のことにも言及されたので)聖餐におけるイエスの臨在に関する理解が「象徴説」から、よりルター的 な、あるいはよりカトリック的な理解に近づきつつある、としながら「イエスの遍在」に関しては「遍在」が可能になったのだけれども、それは「汎神論」的な意味での「遍在」のあり方とは違う。
とおよそそのような回答をなされた。

筆者は基調講演へのレスポンデントとして同席していたのだが、この質問には人一倍関心があったので、ついでに意見を言わせて頂いた。

筆者は、ライトが「キリスト教起源」シリーズ第3巻の「神の子の復活」で、復活したイエスの身体が、パウロ(第一コリント15章)によれば「朽ちない身体に 変わった(トランスフォーム)」としているのをどう表現したら良いか探しあぐねて用いた言葉がtransphysicalityだ、と紹介した。
そしてその理解はSimply Jesusでも継続されている、と発言した。

しかしそもそも transphysicalityと言う言葉自体ライトの造語であるし、また果たして昇天の時のイエスの身体性は、復活後40日間弟子たちに顕現された時の身体性と同一であるかどうか、筆者は改めてその点を確認する必要があるのではないか、と思っている。

これはかなり推論的な思索にならざるを得ないので、ライトと言えどもそれほど「確実性」を主張していないものだと思う。

と言う訳でどこまでライトが言う transphysicalityに肉薄できるか分からないが、あくまで試論として、あるいは断想的なものとして書いてみようと思う。

(次回へ)



2013年10月13日日曜日

ライト・インタヴュー「パウロ研究論文集」

ライトの「キリスト教起源」シリーズの第4巻は、実際には4冊組のような形で出版されることはこのブログでも何度も案内してきました。

本体である「パウロと神の信実(Paul and the Faithfulness of God)」は1700ページの2冊組ですが、それと合わせて出版される「パウロ研究」論文集について、アズベリー神学校のベン・ウィザリントンがインタヴューをしています。


N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 1
N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 2

パート2では、ベン・ウィザリントンがこれまでの間に「義認」についての理解の変化があったかどうか、あったとしたらどのように変わってきたのか、と言う質問をしています。

それに対してライトは、初めの頃学者たちが提供している解釈が非常に不満足なものであるとの認識からスタートし、次第にクリアーになって行った経過を簡単に述べています。

①「神の義」(は人に分与されるものではないこと・・・旧約聖書)
②聖霊の働き
③「キリストにいる」のモチーフ
がライトの義認理解の発展に寄与している、と語っています。

次の部分にライトが言わんとしていることがよく出ていると思います。

The big thing to get across now, I think, is that the question ‘who then are the true family of Abraham’ and ‘how do I get my sins forgiven’ are not ultimately different questions. God called Abraham to undo the sin of Adam, so that to belong to Abraham’s family (Rom 4, Gal 3) is to be part of the family whose sins have been dealt with on the cross. Splitting these two themes apart, I now see in my old age, is the direct result of several false antitheses that have bedeviled western theology for long enough.

「義認」と「新生」の関係についての質問には殆んど答えていませんね。
ライトは新約聖書ではもっと違うことが中心的に語られている、と言っているようです。

2013年10月2日水曜日

PFG入門

PFGとは11月1日発売予定のライトの新刊、Paul and the Faithfulness of Godの略称です。

既に目次、イントロ、1章が出版社の「フォートレス」のサイトで読めるようになっています。(リンク

それに先立って、既に原稿を入手しているらしい、スコット・マクナイトが自分のブログで「入門」を開始したようです。

We will call it "PFG"

興味のある方はどうぞお早く。

2013年9月11日水曜日

ライトの新刊(詩篇)についてのCT記事

ライトの新刊といえば、

The Case for the Psalms

ですが、その本についての「クリスチャニティー・トゥデー誌」のインタヴュー記事が出ています。

N. T. Wright Wants to Save the Best Worship Songs
アンドリュー・バイヤース記者がインタヴューしています。




ライトの新刊についてのインタヴュー

出版予定が11月1日の
Paul and the Faithfulness of God
についてマイク・バードがインタヴューをやりました。




多分この映像がネットで入手できるライト教授の一番最近の画像と思われます。

今後の「パウロ研究」にどんな貢献をするか、とのマイクの問いに、ライト教授はかなり突っ込んだ回答を示しています。

もちろん本を読むまで、その全体像も、議論の展開も十分には分からないですが、このインタヴュー質問への回答だけでもかなりヒントとなるものがありそうです。

マイクのブログ記事のリンク

2013年8月22日木曜日

黙示録の読み方

N.T.ライトも参加した、デューク神学大学院での「ヨハネ黙示録」に関する神学会義(ちょっと古くて、2010年10月)。

ライトの講演題は、
“Revelation and Christian Hope: Political Implications of the Revelation to John”(リンク

この神学会義がベイラー大学出版局から本になったのを、ニジェイ・グプタが取り上げて記事にしている。(リンク

黙示録にアプローチする前提として6点が挙げられているが、これが結構まとまっていていいのではないか。
The common assumptions about Revelation are spelled out in the introduction.
(1) Revelation’s visions are to be read as poetic symbolism rather than literal description or prediction; literalistic interpretation can lead to disastrous misinterpretation.
(2) The book’s symbolism must be understood through understanding its intertextual relation to Israel’s Scriptures.
(3) The book’s message is centered christologically on the symbolic depiction of Jesus as crucified and triumphant Lord.
(4) The book summons its readers to follow the pattern of Jesus through countercultural, suffering witness to the one God, rather than through acts of violence.
(5) In the theological world of the Apocalypse, there can be no separation of the spiritual and political spheres.
(6) The book points to the future hope of God’s triumphant justice and God’s healing of the created world-not its destruction.
以上簡単な紹介。
(ライトがメインではないが・・・。)

更にこの本に関心のある方は、
Greg Carey、Lancaster Theological Seminaryによる書評をどうぞ。

2013年8月17日土曜日

第2回N.T.ライト・セミナーのチラシ

第2回N.T.ライト・セミナーのチラシ

チラシが印刷されて小嶋のところに届いています。

クロネコメール便で送ります。
 

主催者である「N.T.ライト・セミナー」が送料を負担します。

(※でも手渡しできる場合は、なるべくそのようにお願いします。

例えば9/14の早稲田奉仕園でのいのフェスに参加する方の場合は、手渡し出来ます。)
ご希望の方は、以下の事項を明記の上お申し込みください。
①名前
②住所
③必要枚数
《問合・申込》
小嶋崇(コジマタカシ) t.t.kojiアットマークgmail.com
 
以上よろしくお願いします。

2013年8月2日金曜日

「天国」続

先日紹介したポーラ・グッダーとともに忘れてならないのはN.T.ライトの少し古いが「新天、新地」についてのブックレットと新刊でしょうか。

(もちろん現在FB読書会で読んでいるSurprised By Hopeはより包括的な一般向けの本ですが。)


これは1999年に出された本ですね。
アマゾンUKでは2.95ポンドで現在「在庫切れ」になっています。

アマゾン日本では新品が2,800円となっていますね。

新刊では、Creation, Power and Truthが現代における「天国」(だけではないようですが)に関する「世界観」的混乱の問題として扱われているようです。(以下、スクリブドからコピペ)
the church has often simply not noticed that you can affirm the Trinity, the incarnation, the atonement, the resurrection, the call to bodily holiness, and still work within a narrative which colludes with Gnosticism. That is precisely what happens when orthodox Christians think, speak, pray and live as though the main aim of the game were simply to ‘go to heaven when you die’, embracing a private, detached spirituality in the present and a world-denying and escapist eschatology in the future. We can criticize the second-century Gnostics for their redefinition of the word ‘resurrection’ so as to mean, not a new bodily life after a time of being bodily dead,but a spiritual life in the present and hereafter; but this position is, worryingly, held just as much by those post-Enlightenment pietists and evangelicals whose major and overriding concern was to stress ‘heaven’ as the Christian’s true home, and who used the word ‘resurrection’ as a metaphor for going to that home at last.
とあるように二世紀のグノーシス主義が、啓蒙主義の影響下で、正統主義・福音主義を標榜する敬虔なキリスト者のあいだでも、同様に復活しているではないか、と指摘していますね。

以上、「天国」に関するちょっとしたフォローアップでした。

2013年7月31日水曜日

ツィッターから拾うN.T.ライト(読書会)

ちょっと遊んでみました。
「ツイートで綴るN.T.ライト(読書会)」
(過去のリアルのライト読書会を一部メモする意味も兼ねて・・・。)

もうこの時から3年経とうとしているんだ・・・。




と、ここまででほぼ2年前。


と言ったところでしょうか・・・。

2013年7月29日月曜日

ロックンロールキリスト教

たまたま、N.T.ライト読書会ブログのツィッターのTL(タイム・ライン) を見てたら、くめしゃんさんが

で思い出した。
ライトの使う有名な挿入用エピソード。
何回も使っている。

デューク神学校コンボケーションでのレクチャー(音声ファイル)の方から紹介すると、
1 Gray Lecture (11:00 AM)

これの26分30秒を経過する辺りに入っています。

こちらは説教です。Resurrection and Rock'n'Roll
The taxi driver looked back at me in his mirror. His face was a mixture of amusement and sympathy. We were stuck in traffic and he’d asked me, as they do, what I did for a living.

‘Ah,’ he said, ‘you Church of England people’ (having told me he was a Roman Catholic himself). ‘You’re still having all that trouble about women bishops, aren’t you?’

I had to admit that that was indeed the case.

‘The way I look at it,’ he said, ‘is this: if God raised Jesus Christ from the dead, all the rest is basically rock’n’roll.’
まっ少し相違はありますが・・・。
ポイントは、
St Paul put the same point negatively: ‘if Christ is not raised, your faith is futile, and you are still in your sins.’ But the positive point is this: if Christ has been raised, then all the rest is, well, sorted out. It’s basically just rock’n’roll. God has won the decisive victory over the forces of darkness, and he will win the final victory that results. Everything else can in principle be worked out.
つまり「イエスの復活」は勝利宣言みたいなもんで、それを受けて「お祭り状態」みたいになっちゃった。
だから「ロックンロール」だ、とタクシーの運ちゃんは表現したのでしょう。

まっ個人的には若い時は少しはロックは聴きましたが、ある年齢からはクラシックになっちゃいましたのでもう一つピンと来ないのですけどね。

2013年7月24日水曜日

創造された天(国)

ライト教授はSurprised By Hopeを書く前から西洋キリスト教、及び一般大衆に浸透した「天国観」が聖書のテキストとは大分違うものであることを度々指摘してきた。

ライト教授によれば、大衆化された「天国観」とは
People believe they go to heaven when they die.
Heaven is a place people go to when they die.
のような表現で説明される。

さらにライト教授がこのような「天国観」を修正し、より聖書的な言語に近づけるために使うフレーズが
Life After "life after death"
である。

一旦人々の頭の中に定着した「天国」のイメージはなかなか変更しがたいものだ。
しかし聖書学者たちは聖書のテキストに即して、この大衆化された「天国観」を修正しようと努めている。

そんな聖書学者の一人、Paula Gooder


の本のタイトルがそのものズバリ、HEAVENだ。


ポーラ・グッダーのHPには天国や地獄、死生観などについて聖書から解説した音声ファイルやYoutubeビデオへのリンクがある。

以下に一つ紹介する。

 

 
ここで一箇所だけ拾って引用しみよう。 多少なりともポーラの言わんとしていることを感じることができるかもしれない。
Heaven, therefore, is not an eternal realm, far, far away from earth.
Heaven is a spacial created realm, very very close to earth, created to be alongside earth.
(※まっちょっとディクテーションは完璧ではないかもしれません。あしからず。)

2013年7月22日月曜日

『天』と『地』は二つで一つ

かなり長い間(主に)西洋キリスト教のイマジネーションを支配してきた二元化し、切り離された「天地観」に対し、ライトはその著作や講演の至るところで再考を促す。

キリスト者も(キリスト者ではなくても、そのような西洋キリスト教「天地観」の影響下にある人たちにも)、ライトは新鮮な(ライトの大好きな形容詞、"fresh")捉え方、理解の仕方を提案する。

以下は長くなるが引用です。(ひとさまの引用の孫引きなので、小嶋自身はチェックできません。あしからず。)
Acts 1:9-10のコメンタリー(Acts For Everyone)のようです。
In the Bible, heaven and earth are the two halves of God’s created world. ... Talking about ‘heaven and earth’ is a way, in the Bible, of talking about the fact, as many people and many cultures have perceived it to be, that everything in our world (call it ‘earth’ for the sake of argument, though that can be confusing because that is also the name we give to our particular planet within our particular solar system, whereas ‘earth’ in the Bible really means the entire cosmos of space, time and matter) has another dimension, another sort of reality, that goes with it as well.
ちょっと()の中の挿入ですが、こう言う風に私たちの住む惑星「地」球と、全被造物における物質的世界に区別して考えるのも興味深いです。
You could call this other reality, this other dimension, the ‘inner’ reality, if you like, thinking perhaps of a golf ball which has an outer reality (the hard, mottled surface) and an inner reality (the tightly-packed, springy interior). But you could just as easily think of earth as the ‘inner’ reality, the dense material of the world where we live at the moment, and ‘heaven’ as the outer reality, the ‘side’ of our reality that is open to all kinds of other things, to meanings and possibilities which our ‘inner’ reality, our busy little world of space, time and matter sometimes seem to exclude.
ここではゴルフボールと言う球体をイメージしながら、「中身」と「外殻」とで一つであるようなものが天と地なのだ、と説明しています。
If these illustrations don’t help, leave them to one side and concentrate on the reality. The reality is this: ‘heaven’ in the Bible is God’s space, and ‘earth’ is our space. ‘Heaven’isn’t just ‘the happy place where God’s people go when they die’, and it certainly isn’t our ‘home’ if by that you mean (as some Christians, sadly, have meant) that our eventual destiny is to leave ‘earth’ altogether and go to ‘heaven’ instead. God’s plan, as we see again and again in the Bible, is for ‘new heavens and new earth’, and for them to be joined together in that renewal once and for all. ‘Heaven’ may well be our temporary home, after this present life, but the whole new world, united and transformed, is our eventual destination.
これは今N.T.ライトFB読書会で読んでいる、Surprised By Hopeで繰り返し強調されているポイントです。

上記の引用が「使徒の働き1章9-10節の註解だとすると、このビデオも参考になるでしょう。

 

2013年7月19日金曜日

オーストラリアでのライト教授

N. T. Wrights Australian Visit sparks respectful arguments on Paul's writings

オーストラリアはメルボルンにあるリドリー大学での、7月16日と17日の会議で、N.T.ライト教授が講演しました。

7月16日・・・Jesus, Paul and the Mission of God’s People
7月17日・・・Paul and the Faithfulness of God

一番上のリンク付きタイトル記事がその講演を要約したもののようです。
The first thing which stood out during his visit was his great intellect. This is a man who will quote Shakespeare alongside the Bible, in German, Greek and English, in a single breath.
と言っていますが、小嶋には最近ライト教授大分シャープさが落ちてきた(なーんて言うと語弊があるから)、角が取れてきた感じですが、依然としてその知性で人々を圧倒する部分はあるようです。
-Justification is not Paul’s primary concern in Romans and Galatians, says Wright. He argues Romans is primarily concerned with the gospel as expressed in Chapter 1:2-4 ( ‘…the gospel he promised beforehand through his prophets in the Holy Scriptures regarding his Son, who as to his earthly life was a descendant of David, and who through the Spirit of holiness was appointed the Son of God in power by his resurrection from the dead: Jesus Christ our Lord.’). Justification is a necessary implication of the gospel, but not the gospel itself. The gospel according to Paul (according to Wright) is Jesus as the crucified and risen Lord. Justification is the outworking of the gospel which gives those who believe assurance.(下線は小嶋)
今年のN.T.ライト読書会ではやはり「信仰義認」に関する論文を読みましたが(報告はここ)、論文が書かれた当時(2005年)はライト教授は長老派(カルヴィン系)からの猛攻撃(?)を受けていたのか、余裕も感じさせましたが、かなり重装備で臨んだ講演でした。

それと比較すると今回の集まりでは、激しいやり取りは無く、普通に応酬はあったものの、極めて落ち着いた穏やかな性格のものであったとのことです。

そう言えば、最近このブログ更新が減ってきたためか、ページヴューが激減。
読者の皆様、どうぞご愛顧のほどよろしくお願いします。

(要するにもっと更新しろ、と言うことでしょうが、なかなかブログを幾つも抱えていると忘れてしまうのです。あー情けない。とついボヤキ。)

2013年7月11日木曜日

パウロと、古代ユダヤ教における『メシア』

N.T.ライトにとって『メシア』が重要な新約聖書神学、特にパウロ思想における概念であることは、ライトの博士論文や、彼の最初の学術論文集である、The Climax of the Covenant に明らかだ。

新約学者の大勢は『メシア』には特別な意味はなく、パウロにおいては単にイエスにつけられた固有名詞だ、とされてきた。
つまりタイトルではない、と言うこと。

Matthew Novensonのプリンストン神学校での博士論文である、
Christ Among the Messiahs: Christ Language in Paul and Messiah Language in Ancient Judaism
(Oxford University Press, 2012)

はそのような一方的な議論に終止符を打つものである、とニジェイ・グプタ教授は書評でコメントしている。

このような研究成果が、ある意味パウロ研究その他での一定の《議論規制》として働くだろうことは、グプタ教授が指摘する通りだと思う。

関心のある方は一読をお勧めする。

(※ノヴェンソンの本自体は74ドルもするから手を出すことはないと思うが、このような「紹介」と「書評」だけでも最新研究の一端に触れられることは、ネット社会の受益者であることを改めて思わせられる。)

第2回N.T.ライト・セミナー ご案内

いよいよ第2回のN.T.ライト・セミナーの対外的案内が始まりました。

第2回N.T.ライト・セミナー

日時:2013年10月9日(水) 午後1時~4時
場所:OCC4階、415号室


拡散お願いします。

2013年7月7日日曜日

ライトの新刊(予定)

先日ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズ第4巻
パウロと「神の誠実(あるいは忠実)」
についてお知らせした。

11月出版に向けて頭にねじり鉢巻をして執筆しているライト教授をイメージするのだが、この大著の他にまだ少なくとも1冊別の本が発刊されようとしている。
驚くべきスタミナと言うか、意欲と言うか、恐れ入る。

その本のタイトルは、
Creation, Power and Truth: The Gospel in a World of Cultural Confusion 


その「イントロダクション」部分(1-11ページ)が出版元サイトで読める。

現在の西洋における文化的混乱状況を三つの要素(①グノーシス主義、②帝国主義、③ポストモダニズム)に絞って分析し、その混乱の中でキリスト者が、教会が、果たすべき(福音を提示するという)役割を、「世界観対立」を通して実践している本のようだ。

この文化的混乱状況を収めるのに、『正統的神学の枠組み』と言う上からのアプローチではなく、聖書テキストの釈義を通して、と言う下からのアプローチを実践しているようだ。
従来と変わらぬライトの神学的アプローチと言えるだろう。

たった11ページのイントロからだが、ライトがこの本を通して取り組もうとしている仕事は何か、ほぼイメージできるのではないかと思う。

「キリスト教起源と『神』問題」シリーズに見るライトの「新約聖書神学アプローチ」は、「一世紀」と言う歴史的文脈を、「世界観」的に再構成して問題を整理統合すると言う性格のものだ、と小嶋は勝手に理解している。

そのライトの手法は(ライトは自分では意識していないかもしれないが)多分に文化人類学の中でも、クリフォード・ギアーツに代表される「世界観」文化解釈(ワールドヴュー・カルチュラル・ハーメニューティクス)と「分厚い描写(thick description)」の手法に結構重なるように思う。

(1,687円と言う値段から想像するに)この小さな本でも、ライトはそのような手法で「西洋における今日の文化的混乱状況」を分析しようとしているのだろうか。

ライトの現代についてのカルチュラル・ハーメニューティクスはどの程度のものか、現代の社会学者や哲学者との対話がどの程度あるのか、あったとしてその背景読書は脚注や文献目録に披露されるのかどうか、・・・興味多々である。

2013年7月2日火曜日

キリスト教の福音の中心:刑罰代受?、地獄?、復活?

アンドリュー・ウィルソン氏が「復活」の最重要性(Ⅰコリント15章)を強調するのに、面白い提示の仕方をしている。

次の三つの命題のうち、もし真実と判定された場合、最もキリスト教信仰にダメージを与えるのはどれか、と聴衆に問いかける。

①イエスが十字架の上で死なれたのは私たちの身代わりとしてではなかった。
②地獄(ヘル)と言うような場所は存在しない。
③キリスト者は死ぬと、魂(ソウル)は肉体から解き放たれて天国に行きそこに永遠に存在する。

答えはもちろん③だ。

そしてⅠコリント15章の講解に入っていく。



Catalyst Festival 2013 - Main Meeting 1 - Andrew Wilson from Catalyst on Vimeo.

なるほど。
そうやって入っていくやり方もあるか。

でもそれだと「ビリーフ(信じている事柄)」中心のキリスト教紹介にはなるね。

2013年7月1日月曜日

FB読書会 2013年6月近況

以前(2012年3月~2013年1月)How God Became King、を読んでいた時には小嶋がディスカッションリーダーを一人でやっていた。
その反省もあって現在読んでいるSurprised By Hope、ではボランティアで何人かの人に順番にやってもらっている。

さて、「6月近況」と言っても、ついここ2日間のディスカッションをルポ的に紹介してみよう。
現在、3. Early Christian Hope in Its Historical Setting、のResurrection and Life After Death、のところを読んでいます。

*******************
pp.35〜40の要約
「復活(アナスタシス)」という言葉が、古代地中海世界の人々、特にユダヤ人にとってどういう意味があったのかということが簡潔に述べられています。

異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、「復活」は死後の世界を意味しない、という点をまず押さえる必要があります。

「誰々さんが復活した」というのは「誰々さんが天国に行った」という意味ではない、ということです。古代の人々は、人が死ぬと霊魂のような存在として生き続けると概して信じていたようですが、体から抜け出た霊魂の状態になることを指して、それを「復活」と呼ぶことは決してなかったのだと。
「復活」とは何かしらのphysicality、「からだ」を伴う甦り現象として古代人に理解されていました。

また、「復活」とは「神になること」という意味でもなかった、ということも大切です。徳川家康が東照大権現になる、というような現象をさして「復活」という言葉が用いられることもなかった訳です。ですからイエスが天の国に行って、そこで神になったと信じられたとしても、それを指して「復活」という言葉が使われることも決して無かった筈です。

ユダヤ人は、サドカイ派のような人々を除けば、たいていは体を持った甦りとしての「復活」を信じていました。しかしその復活とは、「世の終わりに皆が一斉に復活する」という集団的復活(復活するのは義人だけの場合と、義人とそれ以外の全ての人を含む場合、というような見解の相違はありましたが)のことでした。誰かが世の終わりの前に、一人だけ復活するなどという期待や思想は、どこを探しても見られませんでした。またイエスも、そのような特殊な復活があると生前教えた形跡もありません。イエスは弟子たちの「復活」についての因習的理解を変革しようとはしていなかったのです。

そういう訳で、イエスが十字架に架かった時に、「イエスは死んでもすぐ復活するから大丈夫だ」などと考えた弟子は誰もいなかったのです。もちろん彼らもイエスの復活そのものを否定した訳では無かったでしょう。しかし、それが起きるのは「世の終わり」、皆が一斉に復活する時であって、三日の後だなどとは誰も考えませんでした。そのため、イエスが十字架で死んだ時、弟子たちの希望(つまり神の王国の実現)はまさに打ち砕かれたのです。もう終わりだと、誰もが理解したことでしょう
 *********************
これに対するOさんのコメント:
読みやすく、分かりやすく解説をいただき、ありがとうございます。
イエスは弟子たちに、三日後によみがえると伝えたと福音書に書いてありますが、文字通り三日とは受け取らなかった、ということですね。
リーダーの回答:
Oさん、マルコ9:9など、たしかにイエスは生前から自分の復活を予告しています。ライトは学者たちの通説に反対し、この予告は後から福音作家が付け足したものではなく、イエス自身が語ったものだと主張しています。
しかしライトはそれを「復活」の予告というよりも、神が自分をVindication(「義認」と訳されることもあります)してくださる、つまり自分に帰せられた汚名を神御自身が振り払って、イエスの正しさを証明して下さる、とイエスが予告したのだと考えているようですね。自分が文字通り「復活」することについては、イエスは明確に説明することなく、謎めいたサジェスチョンを残しただけだったので、弟子たちはそれに気づかなかった、という風に説明されています。
Oさんの感想:
なるほど。そういう理解ですね。この説をまだ全面的に受け入れられるかはわかりませんが、いろいろと考察してみたいです。
ここでTさんが加わる:
Yさん(リーダー)、イエスの弟子たちがイエスの復活預言を聞いて、終わりの日の復活のことを言っていると思ったというのは、納得できます。そのように考えることはあまりなかったので・・・ 
そうすると、三日目とイエス様があえて明言したことに大きな意味があるのですね・・・
Oさん、
このところはⅡマカバイ記7章を読んでみるともっとピンとくると思います。そこには終わりの日の復活の希望のゆえに雄々しく殉教の死を迎える様子が描かれています。(以下略)
Oさんの感想:
Tさん、解説ありがとうございます。ふ〜ん、初めて聞く、新鮮な視点です。よく考えてみます。
ジグゾーパズルが、だんだんと全体像を浮き上がらせつつ、埋まってくるような感じですね。

Ⅱマカバイ記7章を初めて読みました。家族対するすごい残虐な拷問の場面でショックです。
この書は、たぶん当時のユダヤ人のローマ人に対するレジスタンス精神に影響を与えていたということですね。

この後リーダー、Oさん、TさんのⅡマカバイ記7章に始まる「外典」が余り読まれていない現状についての意見交換が続く。そして、
Oさんの感想:
いや〜、なんとも、素晴らしい。こういう背景がわかってくると、預言書とイエスの時代、イエスの生涯とメッセージが、立体的に立ち上がり、繋がってきて、「聖書の世界、読み方はこうだったんだ〜」と見えてきて、ワクワクしてきますね。
これまでの私にとって、預言書、小預言書は、あちこち素晴らしい御言葉が散りばめられているとはいえ、現実の信仰生活にあまり関係ない、あるいは妖しげな終末論に使われる、もやに隠れた遠景でしかなかったです。
 

と言う訳でこの読書会ならでは議論の深まりと、相互啓発が垣間見える面白いディスカッションが継続中。

読者の方、今からでもまだまだ間に合いますよ。ゆっくり読み進めていますから。
あなたもお仲間に入りませんか。 

 
 

2013年6月24日月曜日

Scripture and the Authority of God パネル・ディスカッション

昨年第一回目の「N.T.ライト・セミナー」を開催した時、小嶋はライトのScripture and the Authority of God (The Last Wordのヴァージョン・アップ版)から「5幕劇」を紹介しました。(リンク

この本は新約聖書学者としてのライトの主要著作である「キリスト教起源」シリーズのNTPGではそれほどクローズアップされていませんでしたが、ライトの業績が啓蒙主義(モダニズム)とポストモダニズムの思想的問題を意識して進められていることを示すものだと思います。

即ち1970年代の聖書の無誤論論争がモダニズムの土俵でなされていた時点から、その解決・総括を十分見ないままここまで来てしまっていることに対する問題提起であり、キリスト者の実践に深く関わってくる「聖書をどのように読むか」と言う問題の前提となる、「聖書の権威」をどのように再構成(リフレーム)するのかと言う問いに答えるものと位置づけることが出来ると思います。

「大和郷の教会」ブログでは、最近のこの周辺の論争について幾つか紹介して来ましたが(これとか、これとか、これとか、これ )概して論者たちは問題を指摘する方に一生懸命で、ライトのこの本のようにこのimpasseから抜け出せるような建設的戦略を示すには至っていないように感じます。(スミスは社会学者で神学者と言うわけではないので無理からないですが)

幸いにライトのこの本を正面から取り上げてパネル・ディスカッションしているサイト(動画)を見つけましたのでご紹介します。

Vineyard系のキリスト者たちの研究機関のようなものである(まだ良くリサーチしていないので「らしい」と言うことにしておきますが)、The Society of Vineyard Scholarsという組織です。

パネル・ディスカッション動画はここの主催です。

最初のパネリストと言うか、モダレーターのイントロとオーバーヴューは結構いい線行っています。

2番目のCherith Fee Nordlingはゴードン・フィーの娘で確かセント・アンドリュースで博士号を取得しました。
小嶋が現在注目している若手です。そのうちメインステージに登場するかもしれません。
既にMissio Allianceの主事の一人であり、ライトの神学を咀嚼するだけでなくさらに展開しようとしているかなり意欲的な神学者です。(ここのPlenary#2を参照)

この動画でもやはり圧巻は彼女だと思います。自分の考えをアッティキュレートしようと熱っぽく語っています。

3人目はちょっとこじんまりかな、4人目はちょっと「ごにょごにょ」が散見され、熱が下がりますが・・・。

個人的な感想としてはこの組織の動きはなかなか面白いと思います。
何しろ世代が若い、単なるアカデミックなアプローチではない点が興味深いです。
(スカラーに名前を連ねる方々のレベルにかなりバラつきがある感じですが・・・。)

ではどうぞご覧ください。

Plenary #2: Being Human, Becoming Christian: An Embodied Reconciliation Of Heaven And Earth

Presenters: Alan Hirsch, Cherith Fee Nordling, Deb Hirsch, Tory Baucum
- See more at: http://www.missioalliance.org/resources/plenary-sessions-bundle/#sthash.sQGEqHJe.dpuf

Plenary #2: Being Human, Becoming Christian: An Embodied Reconciliation Of Heaven And Earth

Presenters: Alan Hirsch, Cherith Fee Nordling, Deb Hirsch, Tory Baucum
- See more at: http://www.missioalliance.org/resources/plenary-sessions-bundle/#sthash.sQGEqHJe.dpuf


2013年6月22日土曜日

先日の読書会で読んだ論文について

先日、6月8日の読書会で読んだ、Paul In Different Perspectives、ではかなりな重装備での「信仰義認論争」に関する弁明、と言う印象を受けたことを皆で分かち合いました。

そしてその背景を少し皆で推理してみました。

小嶋はリゴン・ダンカン(ファーストネームの発音はちょっと違うかもしれない)かな、と想像しました。

もちろんジョン・パイパーとの有名な論争があったのですがそれは2007-2009年です。
この講演録は2005年ですから、まだ「騒ぎ出した」頃なのかもしれません。

隣にいたI先生からは文中にあるGuy Watersって誰と言う質問がありました。
But I have also been expounding my own version of the so-called New Perspective on Paul, in which I have been equally critical, without naming them, of Ed Sanders and many of his followers on the one hand and my critics such as Guy Waters and many of his readers on the other.

小嶋がどちらにしてもリゴン・ダンカンの一味(リンク)だろうと推測しました。

たまたま今朝フェイスブックで「のらのら者の日記」さんとのやりとりで、その背景となった文書が多分これではないかと思わせるTABLETALKと言う雑誌について知りました。(既に読んではいたのですが、この繋がりで再確認した次第。)

のらくら者さんの記事とは、これです。
大勢で一人を叩くのは・・・

と言うわけで、既に終わった読書会のフォローアップでした。

追加:今その繋がりで、ジョン・パイパーがどのように「信仰義認」の理解を持つようになったかを収録したインタヴューをここで聞いています。

2013年6月20日木曜日

聖書全体のストーリーを簡潔にまとめると

ライトは本や論文のあちらこちらで「聖書全体のストーリーを簡潔に要約」するとどんなものになるのか、トライしている。

ライトが言う、the big story of Scripture、新約聖書各文書の背景となるメタ・ナレーティブのようなもの。

今回の抜粋:
The big story is about the creator’s plan for the world. This plan always envisaged humans being God’s agents in that plan. Humans sin; that’s their problem, but God’s problem is bigger, namely that his plan for the world is thwarted. So God calls Abraham to be the means of rescuing humankind. Then Israel rebels; that’s their problem, but God’s problem is bigger, namely that his plan to rescue humans and thereby the world is thwarted. So God sends Israel-in-person, Jesus the Messiah, to rescue Israel, to perform Israel’s task on behalf of Adam, and Adam’s on behalf of the whole world. He announces God’s kingdom, and is crucified; and this turns out to be God’s answer to the multiple layers of problems, as in the resurrection it appears that death itself has been overcome.
以上は、JUSTIFICATION: YESTERDAY, TODAY, AND FOREVER、JETS 54.1 (March 2011) 49–63.(リンクはこちら

2013年6月19日水曜日

ウィリアム・ティンダル

先日の読書会報告で掲載した文章を先ず掲げてから始めよう。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンダルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’
たまたまネットサーフィングをしていたら次のような記事を見つけた。
Tyndale and the English Bible:The martyred genious who brought the Word to the people

これはTyndale Societyに投稿されたものだが、寄稿者Tai Kawabataは編集者注によるとThe Japan Timesの記者であり、同氏による同タイトル記事がThe Japan Timesに掲載されている。リンク

(※ちゃんと比較していないが二つの記事は同一のようである。後者のジャパン・タイムズの方で読むことをお奨めする。)

どうやってこの記事を見つけたか?
読んでもらえば分かるように「田川健三」である。

実はこの方に関しては本屋で少し立ち読みしただけで「こりゃあかん」と思った人である。
殆んど相手にしていないが、ティンダルが聖書翻訳に関して果たした重要な歴史的役割が日本ではよく理解されていない、と言うことでDavid Daniel, William Tyndale: A Biography
を訳したのだと言う。


  
なかなかやるじゃん。
と思ったので、読書会の追記みたいな感じで取りあげました。


2013年6月16日日曜日

パウロとポリティックス

既にご存知の方も多いと思うが、英語のサイトでパウロ研究サイトの老舗と言えば、
The Paul Page
だろう。

しかしこのページについてはここで書いているので重複を避けるために言及するにとどめる。

ライトに関連するような資料はないか「Paul and Politics」でググってみた。

上記の「大和郷にある教会」ブログの記事で、栗林輝夫が何度も「N.T.ライトの帝国論」と言及している書(論文集)、Paul and Politics: Ekklesia, Israel, Imperium, Interpretation が先ずヒットする。


本の内容解説の文章は以下のようになっている。
Interpretation of Paul has long been dominated by Lutheran/Protestant theological concerns. Paul has been treated as primarily concerned with narrowly personal religious issues, and critics have often contended that Paul was a conservative regarding social issues.The contributors to this volume deal in original and provocative fashion with several interrelated issues running through Paul's letters and their subsequent interpretation in Christian history. The essays cover several interrelated topics concerning Paul and politics: Paul and the politics of interpretation; Paul and the politics of the Roman Empire; Paul and the politics of Israel (relations of Jews and Gentiles); Paul and the politics of the churches (relations of women and men, slaves and free).
栗林が引用しているのライトの論文はNTWrightPageから入手できる。Paul's Gospel and Caesar's Empire(Center of Theological Inquiryでの講義)

次はN.T.ライトのこれ、Paul and Caesar: A New Reading of Romans

ライトの洞察も用いられているが、かなり最近(2010年くらい)までの研究をまとめているのがMike Todd(どう言う人物かググって見たが不明)の、Reading Paul in the Context of Empire: Roman Imperialism, Pauline Resistance, and Contemporary Implications 

しかしこれは学術的研究と言うよりもカウンター・インペリアルなパウロ書簡の現在への適用、と言う感じだ。

と言うわけでちょこっと最近のパウロ研究の動向である「パウロと帝国」を紹介した。

2013年6月8日読書会報告

あれから1週間経ったわけですが、加齢による記憶消失に抗いつつ貧弱にまとめてみます。

何はともあれ画像を先ず1枚。
これで記憶を呼び覚まそう。





不鮮明な画像で申し訳ありませんねー。

自慢じゃないが中古で買った200万画素のデジカメです。
ズームにしないとピンボケになるのです。
でも参会者の顔が良く分からないところが味噌。

当日は会場のことやら何やら一人でしなければならなかったので早めについた。
開始時間午後1時にはちらほら。

「まだ予定している人たちが集まらないから少し待ちますかー。」
なんて話しているうちに小嶋がとんでもない勘違いをしていたことが発覚。
何と開始時間を2通り皆さんに伝えていたのだ。

で最初に案内した午後1時30分まで待って、無事ほぼ予定した顔ぶれが揃って開始。

今回は11名。
ちょっと少ないと思われるかもしれないが、最初は2人で始まり、それから3人、4人、とやっていたのがつい2-3年前だから、やはり少々感慨。

本当はもう1人来る予定だったのだが、用事が出来てこられなくなった。
彼が来てたら十二人。
意味深だったのだがなー。

ここでまた画像を追加。




70代の方が二人おられたから、参加者の平均年齢は50ちょいというところか・・・。

そうそう、この画像の右隅でパソコンに打ち込んでいるのがミーちゃんはーちゃんさん。
ディスカッションの内容をご自分のブログで紹介されているので、マニアックなやり取りをお知りになりたい方はこちらをクリック。

さて後は大雑把な感想をば・・・。

ディスカッションはかなりハイレベルだったなー。
何しろ原典釈義できる人や留学経験者もかなりいて、「ちょっとついていくの大変」と思った話題もちらほら。

課題テキスト、Paul In Different Perspectivesのポレミカル(論争的)な性格の背景をしばし推理した。
この一般公開講演がなされた2005年と言えばライトの義認論解釈についてカルヴィニストたちがけんけんがくがくやっていた最中。
勢い自己の正統主義(オーソドキシー)的立場を旗幟鮮明にするのに少し前がかりになっていたかもしれない。

でもそこはさすがライト。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンデルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’


やはり宗教改革原則の根本には神のことばである聖書本文への忠実さが、その上に構築される神学に優先する、と言うことをカルヴィニストたちにアッピールしようということなのだろう。

そんな講演なわけだから、なかなか信仰義認関連聖書箇所の釈義部分は力が入っている。

ライトのニュー・パースペクティブ・オン・パウロの立場については色々と言えるだろうが、基本的には「如何に当該箇所のテキストの流れ(sweep)に沿って釈義がなされるべきか」と言う事が肝心なのだと思う。

ただ宗教改革者の聖書解釈のルールとされた、聖書テキストを他の(正典内の)テキストと照合して意味を確定して行くのに対し、ライトは(余りにも常識だが)第二神殿期のユダヤ教関連文書からの光を大いに活用して、不鮮明なテキストの意味を明らかにしていくわけだ。

もっと言えばテキストの流れを釈義するのに、第二神殿期ユダヤ教の世界観(解釈準拠枠になっている観もあるが)を再構成して、「神がキリストにおいて成就なされた救い」を、聖書全体を貫くナレーティブ構造(メタ・ナレーティブとも言われるが)を下敷きにして読み解いていく。

ある人はこれがライトの危うい部分だ、と指摘する声もある。
聖書テキストそのものの優先性を言っておきながら、その解釈枠となる複雑なシステムを構築してしまっているのではないか、と。
(このポイントは当日の読書会の発言ではなく、ライトについて時々軽い議論をするHさんのものだが・・・。)

まっ大した報告にならなかったが、雰囲気は少しは伝わったかな。

そうそう休憩の間のIさんとの会話で、今から10数年も前になるのだろうか、ライトの著作を少し翻訳して紹介し始めた時は、全く反応なかった・・・と言うお話を聞き、先駆者のご苦労いかばかりであったか、と思いをはせた。
 

2013年6月13日木曜日

N. T. ライト「創世記」を歌う

ライトは若い時はかなりスポーツ(ラグビー)に入れ込んでいたようだ。
また当時の多くの若者がそうであったようにビートルズの音楽にも熱中しただろう。
そんな意外な面が最近ライトの動画で紹介されている。

今回は最近、と言っても去年のことだが、ギターを手にして歌っているライトを紹介しよう。

福音派の「科学と信仰」に関するシンクタンクのような財団であるバイオ・ロゴスの創設者、フランシス・コリンズはこの動画の中でライトが「ミスター・DNA」と紹介しているように「ヒトゲノム」解析プロジェクト・リーダーであり、現在はアメリカ国立衛生研究所所長である。

この動画の導入で、ライトはイタリア・ローマの会議に出席しながら、間近(2012年3月)に控えたバイオ・ロゴスの会議の講演論文のことを考えていたのだそうだ。
(もちろん会議はイタリア語で、通訳のイヤフォーンはあったが調子が悪く、どうも飽き飽きしていたようだ。)
そうしたら買い物に行っていた奥さん(マギー)が帰りのタクシーで運転手がビートルズの「イエスタデー」を大変上手に唄っていたそうな。

そこでライトは創世記から歌詞を作り、イエスタデーのチューンに乗せて歌うことを思いついたという。
その後コリンズともメールでやり取りして出来た歌を、2012年5月7日、The Rabbit Roomで歌っているのが、これだ。



N.T. Wright Sings about Genesis from Thomas McKenzie on Vimeo.

これも別の場所で同じ歌を歌っているところ。説明もほぼ同じ(簡略)。



N.T. Wright sings "Genesis" at Hearts and Minds from Thomas B. Grosh IV on Vimeo.

2013年6月12日水曜日

N.T. ライトの日課

以下にN.T.ライトファンのブロガーでもあり著作家でもある、フランク・ヴァイオラがライトをインタヴューした時のものから抜粋して訳します。

N.T.ライト インタヴュー

フランク:
「あなたは物凄い多作家として有名ですが、どんな調子で物書きしているのですか。毎日毎週の著作のペースのことなど教えてください。」

ライト:
「通常のペースなんて言うものはありませんね。孫の子守、鶏の世話や掃除、買い物、博士課程の学生の論文指導、家族との団欒や学術関係その他諸々です。


めったにないですが、一人になれた時は朝5時頃起き、祈り、朝食、そして6時半か7時までには机に向かっている…なんて出来たら最高です。遅い昼食までたっぷり朝の時間を使えますから。その後は散歩、帰宅してまた書き物、夕食は7時半頃かな。食後はあれこれ12時間読んで、祈って、10時半か11時にはベッド、て言う感じですね。

たとえそんなベストの時間割が組めたとしても、仕事としてはとにかく早く書くこと、そして合間にゆっくり注意深く読書をします。新刊の大著な註解書や専門分野の研究書、時に学術誌、書評、ネット情報などが加わります。

しかしその中で一番好きなのはやはり書くことですね。言葉を選んだり考えたりする時の愉悦感、どう表現したらクリエイティブになるか工夫するのが楽しいね。

今までの人生の中でほぼ最高に上手く行った週と言うのがあるんだ。2006年の春だった。その時Acts For Everyoneを書いていた。土曜日に書き始め、日曜日はほぼ休み、そして翌日曜日数時間使って書き終えたのさ。一体何千語書いたか知らないが、とにかく机に向かって座り、後は蛇口をひねって水を出すように言葉が流れ出したってわけさ。あの時は痛快だったなー。」

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